~チャンミン~
お兄さんはソファにもたれ、僕はお兄さんの胸にもたれていた。
手紙を前にして緊張している僕の背中は、すっぽりとお兄さんに囲われており、温かく安心できる。
お兄さんのドクドク音が僕の背中に伝わってきた。
お兄さんは僕以上に緊張しているのが不思議で、
「お兄さんの胸、ドキドキしています。
...あれ?
お兄さんは読んでいないのですか?」と尋ねた。
「他人の手紙は勝手に読んだらいけないものなんだよ。
親しい仲であってもね」
「そういうものなんですか...」
もともと封が開いていた手紙だ。
僕に手渡す前にお兄さんが読んでいてもおかしくないし、お兄さんが大好きな僕だから、むしろ読んでいて欲しいくらいだった。
「それじゃあ、一緒に読んでください」
「分かった。
泣きたかったら、俺の腕をタオル代わりに使っていいぞ」
「ははっ。
泣いちゃうような内容だって、どうして分かるのです?」
「う~ん。
親からの手紙って...そういうパターンが多いから」
お兄さんの意味深な言葉に反応してしまい、「お兄さんは経験があるのですか?」と尋ねた。
店の出来事を断片的に話してくれる程度で、お兄さんは昔話をすすんでしてくれないからだ。
「今のは一般論。
よくある話」
振り向いた僕の頭を両手で挟むと、ぐいっと正面に向けた。
「ほら、手紙を開いて」
今、僕が手にしている茶色の封筒は飽きるほど目にしたものだ。
便箋は開いては折ってを繰り返したせいで、折り目が今にも破れそうだった。
・
前の店に居た時、僕の元に届いた手紙だ。
「お前の家族からだぞ」と店のマネージャーからこれを手渡された時、僕はとっさに喜べなかった。
僕にはもう家族はいないと思っていたからだ。
『犬』に慣れ、指名客も増えだして、「ひょっとしてこの世界に向いているのでは?」とまで思えるようになっていた頃だった。
数年かけて掴んだペースを家族からの手紙の登場によって、乱して欲しくなかったんだ。
貰っては困る理由がもうひとつあった。
だからといって、捨てられるほどの度胸は無かった僕は、枕カバーの中に仕舞っておいた。
手紙の扱いをどうしたらよいか、客に抱かれる間も考えていた。
10日程経ったある日、同室の『犬』たちが出払っている間を狙って、封を開けてみた。
封筒の端っこをぴりぴりと丁寧に破って、三つ折りの便箋をゆっくり取り出した。
生まれて初めて手紙というものを貰った。
「......」
白い紙に連なる小さな黒い点々。
「ラブレターか?」
「!!」
部屋に戻ってきた『犬』仲間が背後から僕の手元を覗き込んでいた。
「まあな」と、僕は余裕ぶり、手紙を懐に隠した。
「なんて書いてある?
早くあなたに会いたいわ~、ってか?
それとも、借金とりか?」
「邪魔だよ。
ひとりにしてくれ」
しつこい彼をやっとのことで部屋から追い出した
Tシャツの下に隠したせいで、便箋に皺がついてしまった。
「......」
恥ずかしいことに、僕は文字が分からなかった。
手紙を貰っても困るのだ。
便箋を掲げ、蛍光灯に透かしてみた。
便箋は1枚、黒のボールペン。
この手紙にはとてもいいことが書いてある。
分かったんだ。
「ありがとう」と僕に感謝してくれる手紙だ。
自分の名前くらいは分かるから、文章のところどころに『チャンミン』とある。
前の買い主から返却されてしまった僕は、この手紙を持ってお兄さんと出会ったあの店に払い下げられた。
大事なものなのにどうして、あの店に手紙を置き去りにしたのか?
心を空っぽにしてゆくと、自然と指名が増えていった。
手紙の存在も忘れていった。
何を言われてもへらへらと笑い、自分の身体を道具として扱った。
お兄さんに助け出された日、手紙のことは全く頭になかった。
え...。
今、『助け出された』って言った?
・
便箋を持つ指が震えていた。
「...チャンミン?
辛いか?」
「いいえ、全然」
「頑張れ」
「はい」
何年も前、ひとつも分からなかった言葉が目に飛び込んでくる。
「えーっと。
『元気でやっていますか?
私たちが助かったのは、チャンミンのおかげです。
ありがとう』
僕は読み上げた。
「『チャンミンに辛い思いをさせてごめんなさい。
チャンミンのおかげで暮らしてゆけます。
もう少し頑張ってください』
...って書いてありました」
手紙の内容はあっけないほど、短かった。
「...そうか」
「『僕を捨てた家族へ』」
「...チャンミン?」
「手紙の返事を今からします。
『僕は辛くないですよ。
家族のために、僕がギセイにならないといけなかったんだから、しょうがないでしょう?
僕は小さ過ぎて覚えていません。
僕は小さかったから、幸せと不幸の区別がついていませんでしたから。
辛いとか寂しいとか...分かりませんでしたから』」
お兄さんの両手が伸びて、僕の手を包み込んだ。
僕はお兄さんと言う繭に守られている。
「『嘘です。
ぼ、僕はっ。
やっぱり...苦しかった。
悲しかった。
...僕を売るってどういうことだよ!
僕をギセイにしないといけない程のことって、何をしたんだよ!
他に方法は無かったのかよ!』」
僕の手の中で、手紙がくしゃりと音をたてた。
「『もう、いいです。
もう、怒っていません。
『犬』が当たり前の生活になっていましたから。
家族がいないのが当たり前になっていましたから。
...手紙を貰えて嬉しかったです。
気持ちにケリがつきました』」
「......」
握ったこぶしを解くと、丸まった紙屑がぽろりと床に落ちた。
「チャンミン...!」
僕はお兄さんの腕の中でくるりと回転し、彼の首にしがみついた。
「お兄さんっ...。
僕...っ...寂しかった。
苦しかったよー」
僕の背にお兄さんの逞しい腕がまわった。
「大変だったな。
うん、辛かったな」
「『犬』に戻りたくないよー。
『犬』は嫌だよー」
「二度と戻らないよ。
あの店はもう無くなった。
俺が消したから
俺が許さないから、安心しろ...な?」
「絶対?
お兄さんちにずっと居ていいの?」
「もちろんさ。
死ぬ気でチャンミンを守るからな。
『そばにずっといてくれ』と俺の方から頼みたい」
「ホントに?」
「ああ。
死ぬまでお前を手放すつもりはないよ」
「...っく、っく...。
お兄さ~ん」
おいおいと泣く僕の頭を、よしよしと撫ぜていた。
・
僕は初めて、自分は可哀想だったと認めた。
僕の心はタフだから、どんな過去であれへっちゃらなつもりでいた。
お兄さんは、僕よりずっと繊細な心の持ち主だ。
お兄さんこそ傷つき苦しんできただろうから、僕が明るくしっかりしていないと、と心にきめたんだ。
お兄さんを笑顔にしてあげたくて、昔のことを無理やり封印して強がっていたのではなく、『自分は強い』と、ホントウに思いこんでいた。
ところが、家族からのザンゲの手紙を読んで、僕の中の何かが崩れた。
僕は可哀想だったんだ。
自分で自分を可哀想と思わないように、意識の外に放り出していた。
認めてしまったら最後、『犬』として生きてゆくことが辛くなるからだ。
だから同情されたくなかったんだ。
僕は全然平気なのに、同情されても困ると思っていた。
でも...僕は可哀想だった。
辛かったし、寂しかった。
お兄さんは可哀想だった僕を見つけてくれた。
お兄さんに助け出してもらえてよかった。
・
「『今の僕は幸せです。
新しい家族ができました』」
僕の口からするっと、凄い言葉が出てきた。
「『僕はユノという凄い人と一緒に住んでいます。
ユノ、といいます。
僕の新しい家族は...僕の家族は、ユノさんです。
家族がいるので心配しなくても大丈夫です。
それでは、お元気で』」
(つづく)
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