(46)あなたのものになりたい

 

 

 

~チャンミン~

 

「チャンミンっ...苦しいよ」

 

裸の胸の一か所が、お兄さんの涙でじわりと熱く濡れていた。

 

「...7年...ですか」

 

時間の感覚が消えていた僕でも、7年とは長い。

 

お兄さんがいつから『犬』をやっていたかによるけれど、美しさや生命力がピークを迎える大切な時を捧げたのだ。

 

買い主の元で暮らした期間を足したら、もしかして僕よりずっと長い時を失っていたのかもしれない。

 

お金が欲しくて自ら望んでいないからこそ、7年という時は気が遠くなる。

 

僕だったら脱走していた。

 

「お兄さんが可哀想です」

 

自身のことを『可愛そう』だと認められるようになったから、『可哀想』とお兄さんにも言える。

 

「そうだよ~、可哀想なんだぞ。

...チャンミンにそう言われたのは初めてだなぁ。

なぁ、俺を慰めてよ?」

 

「よしよし」と、お兄さんの頭を撫ぜた。

 

「その金のモージャからは何も言ってこないの?

お兄さんが孫じゃないって、バレなかったの?」

 

「会ったこともない孫が本物かどうかなんて、判別がつかないさ。

奴らの望みは、孫うんぬんよりも金を譲って欲しいだけだ。

あることで、奴らを刺激してしまったんだよね」

 

「あること?

刺激...?」

 

「びっくりするようなことを教えてあげるよ。

あの店を買い取ったよね。

俺とチャンミンが『犬』をしていた店を買ったよね。

実はね、あの店の土地も建物も...買い主の甥のものだった」

 

「ええっ!?」

 

思いもよらない新情報に僕は大声を出してしまった。

 

「買い主とは俺を買ったじいさんのことだ。

店の経営には一切、タッチしていなかったらしいが...。

つまり俺は、彼らから店と土地を買ったってわけ」

 

「嘘...」

 

「売却先が俺だとは思いもよらなかっただろうね。

俺は奴らとは縁を切って暮らそうとしていたのに、自ら接近するような真似をしてしまった。

仕方ないさ」

 

僕の頭はぐるぐるしていた。

 

「大丈夫...なんですか?」

 

「書類上、俺のデータは完璧だ。

まさか暴力にうったえるようなことはないさ。

彼らは金が欲しいだけだよ」

 

「じゃあ...少しだけでも渡したら納得するのでは?」

 

「そうだろうね。

でも、渡す気はさらさらない。

...俺も金の亡者だ。

チャンミン、軽蔑するか?」

 

時間は買うことはできないと、聞いたことがある。

 

そうであっても、お兄さんは目に見える形で失った時間を弁償してもらおうとしているのだ。

 

「チャンミン...。

もう一回しようか?」

 

返事をする前に、僕は深く口づけられた。

 

僕はお兄さんとのエッチが大好きだ。

 

でも、何かを誤魔化されたような気になったのは確かだ。

 

 

翌朝。

 

寝坊をしてしまった僕は、お兄さんの姿をリビング、キッチン、書斎と順に探した。

 

最後衣裳部屋を覗いたら、スーツを着たお兄さんがいた。

 

「今日、出掛けるから」

 

「え~。

僕もついてゆきたいです」と、僕はむくれた。

 

「ごめんな、仕事なんだ。

何時に終わるか分からないから、留守番しててくれる?」

 

そう言ってお兄さんは僕のおでこにキスをしてくれる。

 

「天気もいいから、チャンミンも外出したらどうかな?」

 

お兄さんの提案に、僕は渋々ながら頷いた。

 

だだをこねるのは子供がやることだ。

 

早速、チャンミン大人化計画をスタートさせることにした。

 

洗いざらしのスウェット(お兄さんのもの)から、外出用の綺麗な服に着がえた。

 

お兄さんに買ってもらった紺色のダッフルコートを羽織り、リュックサックを背負った。

 

玄関のカウンターの上にあるカードキーとスマホを手に、僕は部屋を出た。

 

受付カウンターの制服を着たおじさんに会釈をして、僕はマンションから通りへと飛び出した。

 

独りで外出できるようになったけれど、まだまだ緊張する。

 

駅名を瞬時に読み取れないから、バスや地下鉄を利用するのは怖い。

 

スマホに表示させた地図を頼りに、市場まで歩いていくことにした。

 

室内で甘やかされた身体に、外気が身にしみる。

 

途中で現在地が分からなくなって、パニックになりそうだったのを、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

 

お兄さんのアドバイス...すれ違う人のうち、優しそうな人を捕まえて道を教えてもらう...を思い出した。

 

 

歩行者天国の通りの両側は屋台に挟まれ、屋台ではいろとりどりの野菜や肉、魚、果物が山と積まれていた。

 

客寄せの呼び声にひかれるままに屋台を覗く。

 

値札に書かれた数字を訳知り顔に見て、首を振ってみせたり、味見をさせてもらったり、ばら売りはできるのか尋ねてみたり...それらしく振舞ってみたりして。

 

実際のところ、分厚いコートの下で緊張の汗をかいていた。

 

安いのか高いのか分からない。

 

僕は世間知らずに生きてきたため、値段感覚がない。

 

今回、市場まで足をのばしたのは、誕生日パーティの御馳走の材料を揃える時の、予算の参考にしようと思ったのだ。

 

買い物中の者でごった返す中、気を抜くと人並みに流されてしまいそうだった。

 

大量の物、物、物、音、匂い...すべてが刺激的で頭がクラクラした。

 

 

「チャンミン!」

 

名前を呼ばれ後ろを振り返った瞬間、ぐいっと腕を掴まれ、心臓が止まりそうになった。

 

「...あ」

 

元『犬』仲間だった。

 

「よぉ」

 

お兄さんと散歩をしていた時、繁華街の裏道で会った彼だった。

 

あの時の彼は、お兄さんから貰った沢山のお金のおかげで豊かであったはずなのに、荒れた肌と暗い目をしていた。

 

身体を売っているようなことを匂わせてもいた。

 

暴言を吐かれるかと僕は身構えた。

 

でもすぐに、その緊張を解いた。

 

今の彼は、顔色も髪の艶もよく、何よりも目が...どろりと曇っていたものが...澄んだものに変わっていた。

 

「元気だった?」

 

僕は彼に尋ねた。

 

「ああ。

お前は?...って訊かなくても分かるよ。

元気なんだろ?」

 

「うん」

 

「あの男に、可愛がってもらっているか?」

 

あの男とは、お兄さんのことだ。

 

「うん。

君は?」

 

「あははは。

可愛がられてるって認めるんだ?

少しは遠慮しろよ」

 

「ごめん」

 

「俺たちは結局のところ、誰かに可愛がってもらわないといけない人種なんだなぁ」

 

「あ...」

 

そうかもしれない、と思った。

 

「それに反発していた時期もあって、身体を売ってみたりして。

受け入れたら楽になれた。

うん...今は幸せだよ。

とても」

 

「よかった」

 

「話し込んでしまって悪かったな。

買い物途中?」

 

「うん」

 

「じゃあな。

元気にな」

 

小走りで立ち去る彼の先に、中年の女性が待っていた。

 

彼はその綺麗な女性の腰を抱き、振り向いて見送る僕に気づいて、手をあげた。

 

僕も手を振り返した。

 

幸せそうでよかった。

 

自分は偽善者だとお兄さんは苦しんでいたけれど、そんなことないよ。

 

少なくても2人の『犬』は、お兄さんのおかげで幸福と自由を掴んだのだから。

 

 

(つづく)

 

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