~チャンミン~
パソコン画面とにらめっこしていたら、あっという間に1時間が経っていた。
誕生日パーティの料理メニューは何にしようか、調べていたのだ。
僕らの食生活を振り返ると、当日は料理を取り寄せることになりそうだった。
それじゃあちょっとつまらないから、僕が作ってみようと思い立ったわけだ。
お兄さんの家に来たばかりの頃、僕はまさしく犬そのもので、ナイフとフォークも上手く使えなかった。
そんな僕がレシピを読めるようになり、炒めるだけ煮るだけの簡単な調理なら出来るようになった。
電子レンジを爆発させることもない。
パーティのメニューは失敗はしたくないから、背伸びし過ぎないメニューにしよう。
僕に作らせたら...魔女が煮込んだみたいな不気味などろどろスープに真っ黒こげの塊、べちょべちょぶよぶよの麺...大いにあり得る。
ケーキも手作りするのが理想だけど、ここは無理せず、スポンジだけを買ってきて、ホイップクリームとイチゴでデコレーションするのはどうかな?
うん、大丈夫だ。
「ジャガイモとニンニク...クレソンって何だろう?
イチゴと鶏肉。
牛乳は家にあるから...」
必要な材料をメモ書きしていった。
煮込む時間を考慮して、買い出しは前日にしよう。
誰かのために特別な食事を用意する、僕の初体験。
上手くできるといいな、お兄さんが喜んでくれるといいな。
きっと喜んでくれると分かる僕って、自惚れてるかなぁ?
~ユノ~
用が済んだのは夕刻だった。
予定より遅くなってしまい、留守番中のチャンミンを按じて気が急いた。
日没につれて辺りは闇に沈んでゆくのに抵抗して、建物の照明、看板灯、車のヘッドライト、街灯が空に向けて灯りを放つ。
細かな雨が降り始め、歩行者たちの吐く息は白い。
ひとりぼっちの頃は、春夏秋冬朝昼晩、景色や気候の変化には無頓着だったなぁ、とタクシーの車窓を眺めながら、しみじみと思うのだった。
・
チャイムを鳴らしてから玄関ドアを開けた。
「ただ...」
リビングの方からチャンミンが猛ダッシュで駆けてきた。
「お兄さん!
お兄さん!」
俺に飛びついてきた。
その勢いの強さと言ったら...玄関ドアに後頭部をぶつけてしまうほどだった。
留守番をさせられたペットが、待ちわびていた飼い主の帰宅に、大きな尻尾をバサバサと振っている様を思い浮かべる。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「遅いです!」
チャンミンは顔面を俺の胸にぐりぐりと押しつけた。
「ごめんな」
「遅いです!」
「ごめん、ごめんな」
「ずっと待ってました!」
「ごめん」
俺はチャンミンの頭をがしがしと撫ぜて、何度も謝った。
チャンミンに留守番をさせた機会は、これまで数えるほどしかないため、寂しさと不安感が辛かっただろうと想像できる。
「夕飯は?」
「お兄さんの帰りを待ってました。
ご飯は食べてません。
お腹ペコペコです」
「チャンミンにお土産があるよ。
美味しいって評判らしいよ」
さっきの勢いで、床に落としてしまったビニール袋を指さした。
「やった...!」
すぐに機嫌を直す、チャンミンの単純さを可愛らしく思うのと同時に、怖くなる。
俺がそう仕向けていたくせに、チャンミンは俺べったりだ。
もし俺がいなくなったら、チャンミンはどうなってしまうのだろう。
...いや、悲観的な「もしも」について考えるのはよそう。
・
「寒いだろう?」
「寒いからこそいいんです」
冬感を楽しみたいチャンミンのリクエストに応え、俺たちはバルコニーへと出た。
「これをかぶって下さい」と俺に毛布を手渡すと、チャンミンは家の中に引っ込んだ。
バルコニーに戻ってきたチャンミンはトレーを持っており、そこにはマグカップが2つ乗っていた。
そして、折りたたんでいた寝椅子を広げて、俺を先に座らせた。
「こういうの、してみたかったんです」
チャンミンは俺の両腿の間におさまった。
「そういうことね」
何がしたがっているのか分かり、背中にかけた毛布でチャンミンを包み込んだ。
「お酒入りのココアですよ~」
カップに口をつけると、アルコール感ある香味が鼻腔をくすぐり、ひと口すすると、ぴりりとした刺激が舌に感じた。
遅れて腹のあたりが熱くなる。
「ブランデー?」
「はい」
「テレビ?」
「インターネットです」
「へぇ、そうなんだ」
得意げなチャンミンが可愛らしくて仕方ない。
高層のここは、風が強い。
チャンミンが大事にしている木々が、枝をしならせざわざわと揺れている。
鼻先は凍り付きそうなのに、チャンミンと俺の体温が溶け合った毛布の内はこんなにも温かい。
俺たちの視線は自然と、手すりの向こうの眼下へと吸い寄せられる。
無数の光の粒が点々と、すみずみまで広がっている。
何百万もの人と物事は、複雑に絡みあり、繋がっている。
俺とチャンミンの出逢いも、偶然で片付けられない。
それ以外のうっとおしい奴らとの繋がりも、当然といえる。
繁華街の裏の裏。
秘密クラブを出入りする客、そこで働く者、所有する者は、地縁のようなもので結びついている。
小さな世界でぐるぐるとまわっていて、そこから飛び出すのは容易ではない。
『犬』だった過去を思い出させようと、いつまでも追いかけてくる。
手に入れた平穏のこれからを脅かそうとしてくる。
今、俺がしなければならないのは、『犬』の輪から抜け出ることだ。
・
「チャンミンはなぜ、買い主に捨てられたんだ?」
チャンミンを深く抱き直し、彼の肩に顎をのせた。
チャンミンを『犬』として初めて抱いた日、『返品されちゃったんですよね、僕はお買い得ですよ』と、自身を嘲るように話していて、ずっと気になっていたのだ。
「買い主がムカついたから、僕、ハンガーストライキしてやったんです。
ムカついて、ずーっとご飯を食べませんでした。
だって、買い主の前で、もうひとりの『犬』とヤれと命令されたんですよ?」
「...それは...きついな」
『犬』が抱いたり抱かれるのは客限定だ。
『犬』同士のセックスはいわゆる、『交尾』とみなす為、タブーに近かった。
「無理やり食べさせようとするから、ガブって噛みついてやったんです。
あいつ...『いってぇ~』って言って、僕を蹴っ飛ばしたから、もう一回噛みついたんです」
と言って、チャンミンはくすくす笑った。
「そりゃ酷い目にあったなぁ」
「酷いって、どっちが?」
「買い主の方」
「もぉ!
お兄さん!
酷いです!」
「あはははは、冗談だよ。
チャンミンに手をあげる奴は、絶対に許さない。
その場に俺がいたら、代りにやり返してやったのになぁ」
「お兄さんは喧嘩に強そうです」
「そう見える?」
「死闘を潜り抜けてきた感じがします」
「あははは。
喧嘩は弱いよ。
...その後、ちゃんとメシ食ったか?」
「はい。
『いらねぇよ』と店に送り返された後に」
「そっか...」
会話が途切れた俺たちは、目を合わせた。
揃って立ち上がり、バルコニーから直接寝室へと行く。
「する?」
「うん」
自ら全裸になる日もあれば、俺に脱がされたがる日もある。
「待って...」
唇を離すと、チャンミンは下だけ脱いだ姿でクローゼットへと走った。
チャンミンが手にした物を見て、俺の欲に火がついた。
今夜は滅茶苦茶に抱いてやろうと思った。
(つづく)
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