~ユノ~
気持ちよく晴れていた。
日差しは強いが、湿度が低いため過ごしやすい。
ブランコや滑り台など数基の遊具があり、母親を伴った小さな子供たちが遊んでいる。
子供の1人が転び、チャンミンは「あっ!」と声をあげ、母親がその子を抱き上げると、チャンミンは「よかった」とこわばらせた肩の力を抜くのだ。
優しい目をしている、と思ったのは正しかった。
この公園は河川に沿ってあるため、歩を進めるごとに視界が開ける。
川幅の広い流れのゆったりとした川だ。
数十メートル先の対岸では、ジョギングやサイクリングを楽しむ者たちが行き交っている。
吹き渡る風が川面にさざ波を作り、キラキラと無数の光をきらめかせている。
川を見下ろせる堤防に腰を下ろした。
両足をぶらぶらさせているチャンミンの眼も、同様にキラキラと輝いている。
チャンミンの首を飾る青いチョーカーが、醜い傷跡を覆い隠していた。
よかった、と思った。
スニーカーを脱いでしまったチャンミンのくるぶしが、傷一つなく健やかそうだった。
振り向くと高層のビル群がそびえたっている。
ここは人口数百万人のこの街の憩いの場で、緑と水が豊かなエリア。
「何が食べたい?」
食べ物を売るスタンドが並ぶ中、遠慮したり迷ってばかりいるチャンミンに代わって、いくつか選んでやった。
ありとあらゆるものが並んでいて、チャンミンは選べなかったんだろう。
サンドイッチとフライドポテトを平らげたチャンミンは、デザートのフルーツにとりかかっていた。
イチゴを売るスタンドがあり、チャンミンの物欲しげな表情を読んで、1パック買ったのだ。
俺の隣に腰掛けたチャンミンは、小粒のイチゴが山と積まれたトレーを膝にのせて、1粒1粒口に放り込む。
俺はアイスコーヒーを飲んでいた。
「ひゃっ!」
チャンミンの悲鳴に驚いたが、なんてことない、地面についた手に蟻が這い上ってきただけのことだ。
払いのけることもできず、腕を振り回している姿に大笑いした。
「あははははは」
チャンミンは、その蟻が無事地面に着地するまで、だらりと腕を垂らしてじっとしていた。
連れてきてよかった、としみじみ思った。
未だ一人で外出させるのは難しいだろうから、毎日散歩に連れ出してやろう。
誰かとこうして、陽光うららかな景色を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごすのは、いつ以来だろう?
...初めてかもしれないことに気付いて、いかに乾いた生活を送ってきた自分に驚くのだ。
俺を追いかけてきたチャンミンに感謝していた。
・
美味そうにイチゴに齧りつくチャンミン。
「俺にも頂戴」と冗談まじりにおねだりしてみたら、チャンミンは何をそんな嬉しいのか、顔を輝かせた。
最後の1粒となった時、今度は「僕にも食べさせてください」だなんて子供っぽいおねだりをするんだ。
真っ赤に熟れたイチゴを、チャンミンの大きな口の中に押し入れた時、その指を素早く咥えられた。
指を引っ込めることが出来なかった。
チャンミンは俺の人差し指を頬張り、美味そうに味わっている。
アレだと錯覚してしまうように舐められた。
温かいぬめりに包まれ、柔らかな太い舌が絡まり、指の股をちろちろとくすぐられた時には、発してしまいそうな呻きを堪えなければならなかった。
俺の手首を支える細い指。
上下に揺れる頭から、シャンプーと汗が混じった香りが漂った。
歯をあてたり、ゆるく吸ったり...巧み過ぎる技に、俺は感じるどころか、逆に欲が冷えていった。
数多くの客たちのものを、今みたいに奉仕してきたのだろう。
今のは、俺の指相手に『奉仕』しているのではないことは分かっていたけれど、なぜだか悲しくなってしまったのだ。
チャンミンは俺を欲しがっていることが痛いほど伝わってきた。
俺も欲しいよ。
こんなことはしなくていいんだ。
チャンミンが欲しがっているものを与えたい...そんなんじゃない。
俺の方こそ、チャンミンが欲しいんだ。
抱いてしまうことは間違っているのでは、と罪悪感を抱いていた。
でも、躊躇するあまり、結果的にストレートに好意を表わしてくるチャンミンを焦らし、今のような行為に至らせてしまった。
俺たちの後ろを自転車が2台通り過ぎた。
遊歩道の向こうから歌声が聞こえる。
乳母車を押した母親らしき女性と、3、4歳の子供がこちらへ近づいてきている。
「...チャンミン?」
チャンミンの肩を揺らしても、俺の指から口を離そうとしない。
力を込めて押しのけたら、チャンミンを傷つけてしまうと思った。
だから耳元で、「人に見られるよ。それも、ちっちゃな子供に」と囁いてやると、チャンミンは勢いよく頭を上げた。
長くうつむいていたせいで赤い顔をしたチャンミンは、果汁と唾液に濡れた口元を手の甲で拭った。
「河原に下りようか?」とそこに下りられる階段を指して言うと、ふやけた人差し指を拭う間もなく、チャンミンに手を握られた。
「おうちに帰りたいです」
チャンミンは俺の手を引いて、ビル群に向かって歩き出した。
裸足のままで。
・
ルーフバルコニーに出られる窓の前で、ごろりと寝転がったチャンミン。
一瞬で血の気がひいた。
「チャンミン!」
駆け寄ってチャンミンの肩を揺する。
すると、「ああ?」と目覚め、目をこすって「お兄さん、何ですか?」とねぼけ顔で俺を見上げた。
眠くなってそのままそこで、寝入ってしまったようだ。
窓際のここは、日光で温められ、眠りを誘う。
散歩で疲れてしまったんだな。
狭いショーケースに押し込まれ、身体を動かすことと言えば、客のため自ら腰を振ることくらいだ。
チャンミンが急病にでもなったのかと、恐怖で心臓がぎゅっと縮まった。
チャンミンが居て当然の生活に、俺は染まりつつあった。
~チャンミン~
「おうちに帰りたいです」
するっと出てきたこの言葉に、自分が口にした言葉なのに、じ~んと感動してしまった。
僕のおうちはお兄さんのおうち。
僕とお兄さんは、同じおうちに帰る。
すごいなぁ。
お湯の中に、ぶくぶくと顔半分まで沈んだ。
頭のてっぺんまで潜ってから、ざぶっとお湯から飛び出る。
何度も繰り返して遊んだ。
手足をゆらゆら動かして、温かく清潔なお湯の肌当たりを楽しんだ。
お兄さんちのお風呂は大きくて、このバスタブも脚を伸ばせるくらいなんだ。
お兄さんと一緒にお風呂に入りたいなぁ。
そうすれば、裸のお兄さんにくっ付けるのになぁ。
お兄さんのことを思っていたら、前も後ろも変な感じになってくる。
前に触れてみたら、半分くらい大きくなっていた。
後ろにも触れて、つるんと指を飲み込むのを確認し、その柔らかさに満足した。
いじりすぎると止められなくなるし、お湯を汚してしまうから、この辺でストップだ。
自分で自分を慰める必要がなかった『犬』時代。
お兄さんちに来てからは、お兄さんを恋しく思う気持ちがつのるあまり、いじらないといられなくなった。
僕はバスタブから立ち上がり、扉から腕を伸ばして取ったバスタオルで濡れた身体を拭く。
洗面所に取り付けられた大きな鏡に、僕の全身が映っている。
店を出てからの僕は、太ったようだった。
あばら骨と腰骨のあたりのとがった感じが減ったし、お腹のあたりも丸みを帯びている。
僕はつまんだりさすったりして、全身を点検した。
僕のあれにも触れてみた。
どうしてお兄さんは僕を抱いてくれないのだろう。
もっとはっきり、お兄さんに迫ればいいのかなぁ。
「...よし」
僕は下着だけを身につけて、洗面所の照明を落とした。
・
『犬』でいることは、楽しいものじゃなかったけど、辛くて仕方がないわけでもなかった。
憂鬱なだけ。
ヤルことを済ませると、客たちは帰って行く。
彼らには帰る場所がある。
客を見送る時、羨ましいと思う。
不幸だから、羨ましいと思うのだろうか。
TVを観ていると、世の中幸せそうないろんな人たちがいて、彼らと比べると、やっぱり僕は不幸な人間なのかなぁと思うようになった。
でも。
自分が不幸だなんて思っていなかった。
僕はずっとずーっと『犬』だったから、『犬』の世界しか知らない。
普通の世界がどんなだか知らないから、比較のしようがなかった。
「お兄さんの家に連れて帰ってくださいよ」とお兄さんにねだった僕。
多分...どんな客にも同じことをおねだりしているんだと、お兄さんは思っている。
違うのになぁ。
これまでの客に、そんな台詞を言ったことはないのになぁ。
お兄さんは特別なのだ。
お兄さんは僕をお家に連れ帰ってくれた。
僕を連れ帰ってくれた理由は、僕があまりにも不幸そうで、可哀想に思ったから?
そうじゃないといいな。
可哀想と思われていることこそが、不幸だと思った。
・
帰るおうちができた今、『犬』だった頃を思い返してみる。
...僕は不幸だったのかもしれない。
なぜって、今がとても幸せだから。
(つづく)
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