「チャンミンさん」
「...」
「チャンミンさん」
いつの間にか兄Tとの電話を終えた民が、チャンミンの肩を揺らしていた。
「あ、ごめん!
ぼーっとしてた、何?」
「お風呂を貸してください」
「あ、ああ。
どうぞ、自由に使って」
チャンミンは民を、バスルームへ案内する。
すみずみまで掃除をしたバスルームは、爽やかなレモンの香りがした。
「タオルはここ。
シャンプーなんかは、ボトルにシール貼ってあるから。
洗濯機も自由に使っていいよ」
「あの...チャンミンさん」
「?」
「何から何まで、ありがとうございます。
しばらくの間、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる民に、チャンミンは慌てて言う。
「そんな!
気にしないでいいから。
Tの妹さんなんだから。
いろいろと気付いてやれない時は、遠慮なく言って。
自由になんでも使っていいからな」
T。
お前の妹には、驚いた。
背筋に電流が流れた。
鏡の前に立った自分を見ているかのようだった。
僕と同じ顔をしていることに唖然とした。
それ以上に驚愕したのは、あの子を見て、「美しい」と思ったことなんだ。
ナルシシズム?
違うって。
自分の顔に見惚れているんじゃない。
あの子に見惚れているんだ。
T、とんでもない子を送り込んできたな。
お前の妹だから、うかつなことはできないけれど、あの子を見ていると、妙な気分になるんだ。
あの子が女であることが、たまらない気持ちにさせるんだ。
喉が渇いて目を覚ました民(ミン)。
フローリングに直接敷いた布団のせいで、少し腰が痛かった。
民は音を立てないよう引き戸を開けて、リビングをつま先立ちで通り抜けた。
(チャンミンさんは何でも自由に使っていい、と言ってくれたから、いいよね)
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、流しに伏せてあったグラスに注いだ。
(チャンミンさんの家は、全てのものがあるべきところにあってきちんとしている。
お風呂を使わせてもらったときも、私のために新品のボディタオルが用意されていた
し。
大雑把で、声が大きくて、ごついお兄ちゃんの友達だってことが、信じられない)
民は、冷たい水を飲みながら、キッチンカウンターの上に置かれた電化製品をひとつひとつ見ていく。
(置く場所、向きも全部決まってそうだな。
お洒落なデザインだな)
使ったグラスをきれいに洗って、食器かごに伏せて置く。
(さて、寝直そう)
ボトルを元に戻そうと、冷蔵庫の扉を思いきり開いた瞬間、
「あでっ!」
「ひゃっ!」
ガツンと扉に衝撃が走った。
「ああ!
ごめんなさい!」
鼻を押さえてうずくまったチャンミンに驚いた民は、おろおろとチャンミンの腕をさすった。
「まさか、そこにいらっしゃるとは気づかなくて!」
勢いよく開けた冷蔵庫の扉が、チャンミンの鼻に直撃したのだ。
「鼻血!?」
民はカウンター周りを見回し、目についたものをつかんでチャンミンに手渡した。
「ごめんなさい!」
「だ、だいじょうぶ...だから」
(どうしよう!)
「鼻...折れましたか?」
チャンミンは、押し当てていた布を鼻から放すと、心配そうに見守る民に見せた。
「ほら、鼻血は...出てないよ」
「よかったぁ」
民は、よろめきながら立ち上がるチャンミンの腕を支えた。
「あ」
「あ」
2人の視線が真正面からぶつかって、一瞬互いにギョッとする。
肉眼で自分の姿を見る経験は、あり得ない。
あり得ないが、この2人の場合はあり得ることで、30センチの距離に自分自身がいるとなると、混乱する。
(目の前に、僕がいる!)
(ドッペルゲンガーを見てしまうって、こんな気持ちになるのかもしれない!)
白いTシャツに黒のレギンスを履いた民と、同じく白いTシャツに黒のスウェットパンツを履いたチャンミン。
はた目から見れば双子だ。
赤の他人同士の彼らは、自身のそっくりさんが目の前にいることに慣れていない。
「くくくく」
民がとっさに渡したものがオーブンミトンで、そのことがチャンミンは可笑しくてたまらなかった。
「何が面白いんですか?」
民はムスッとする。
(へぇ、僕がむくれると、こんな顔になるんだ)
民と同じく、喉が渇いて起き出してきたチャンミンは、グラスに注いだミネラルウオーターをごくごくと飲み干す。
「民ちゃんは、身長はいくつあるの?」
チャンミンは、キッチンカウンターに並んでもたれる隣の民に尋ねる。
レギンスに包まれたほっそりとした、長い脚。
小ぶりな膝と細い足首、黒のペディキュア。
知らず知らずのうちに、民の姿を観察してしまう。
身長に触れられることが嫌なのだろう、鼻にシワをよせた民は消え入りそうな声で答える。
「183センチです...多分」
(去年受けた健康診断の時より、伸びていなければ183のままのはず!
お願い、もう伸びないで)
「高いね」
(顔が小さいし細いから、そんなに身長があるとは思わなかった)
「でか過ぎですよね、女のくせに。
コンプレックスなんです。
小さい女の子になりたいんです」
うつむいて、拗ねた風に話す姿が可愛らしい。
「いいんじゃない、そのままで」
「ホントですか!
チャンミンさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
(照れ笑いが可愛いな...って、おい!)
ほっそりとした指で、長い前髪を耳にかける民の仕草に、チャンミンはドキリとする。
(自分を見ているかのようなのに、自分そのものなのに、それに見惚れるなんて)
優しいカーブを描いた肩から長い首を上に辿ると、うなじの生え際が内巻きになっているのを見つけてしまって、再びドキリとした。
「どうしました?」
チャンミンのくいいるような視線に気づいた民が、チャンミンの方を向く。
「い、いや!」
どもるチャンミンに、民は困ったように微笑を浮かべた。
「似てますか?」
民は自身の後ろ髪を手で撫でつけた後、その手をチャンミンの方へ伸ばした。
「ちょっと見せてください」
「ひっ!」
チャンミンの肩がビクッと震えたのを見て、民は口を尖らせた。
「そんなに怯えないでください」
(怯えたんじゃないよ。
ゾクッとしちゃったじゃないか)
民の指先が、チャンミンのうなじの生え際をまさぐる。
「ひぃっ」
(くすぐったい、くすぐったい!)
「へぇ。
髪の生え方も...一緒ですねぇ。
ほら、私のここを見てください」
チャンミンの目の前にさらされた民の首筋に、どきまぎしながら彼女の指さす箇所を見ると...。
「ホントだ!」
民が人差し指で、耳のうしろをちょんちょんと指した。
「ここがね、くるんってはねるのが嫌なんです。
子どもの頃、伸びてくるたびハサミで切ってましたから」
顔を近づけたことで、自分と同じシャンプーの香りを吸い込んで、チャンミンは妙な気持ちになった。
(見た目も、匂いも一緒だなんて...どうしたらよいか分からなくなる)
チャンミンは民のうなじから目が離せない。
(今日初めて会ったばかりなのに、こんな風に気楽に会話ができるなんて。
同じ姿形をしているせいなのかなぁ。
それにしても、笑顔が可愛いな...って、おい!)
(つづく)
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