~民~
キスされる!
金縛りにあってしまった私は、顔を背けることも出来ず、ユンさんの顔が近づいてくるのを待つしかなかった。
ぎゅっと目をつむり、ユンさんの唇を着地するのを覚悟した。
ユンさんの両腕と胸に閉じ込められた。
ユンさんの体温で温められたスパイシーな香りは、私の全身を麻痺させる。
呼吸も忘れていた。
私の頭の中はパニックの嵐だ。
ユンさんに片想いをしていたことは事実だ。
チャンミンさんへの恋心に気付かなかった頃だったら、夢みたいと舞い上がっていただろうシチュエーションだ。
でもそれは過去のこと。
今はそうじゃないことを知らせなくては。
これはれっきとしたセクハラ行為なのに、そう思えない自分、そう思いたくない自分がいた。
ユンさんはただ、私の反応を楽しんでいるだけなんだよね。
アーティストだし、ハンサム過ぎるほどハンサムだし、きっともの凄くモテる人...つまり、プレイボーイみたいな?
だってほら、チャンミンさんだって、私の気持ちを確かめる前に首とかおでことかに、キスてきたし、抱きついてきた時もあったんだし。
ホンモノのキスだって、告白する前にしたんだし!
そうだ!
大人の男の人は、こういう生き物なのだ!
そして...ユンさんは私の恩人なのだ。
憧れの人であることは、今も変わりがないのだ。
そのせいなのか、不思議なことにユンさんのキスに嫌悪感を抱いていない。
ビックリして石になってしまうのは、身体だけじゃなく心も同様だから、ときめかない。
ドキドキしなかったのなら、ユンさんのキスはセーフなのか?
そうであっても、彼氏以外のキスを許す私は、ふしだらな浮気者だ!
(あ...れ?)
いつまで経っても、キスは落とされない。
そうっと目を開けると、鼻の先が触れんばかりに接近したユンさんの顔があった。
目が笑ってる。
「考え事は終わった?」
「へ...?」
ユンさんは傾けていた上半身を起こすと、エレベータの反対側の壁にもたれた。
空気が動いて、ユンさんのいい香りがふわりと遠のいた。
エレベータは既にアトリエの階に到着していて、扉が開いたままになっている。
「民くんに恋人がいると知って、妬けてしまってね。
意地悪をしてしまった」
「はあ...」
あっけにとられた風の私に、「怒ってる?」と尋ねた。
首を左右に振ったのは、実際、腹を立てていなかったからだ。
「職業柄のせいだね。
これまで百人以上のモデルに、手取り足取りポーズを指示した。
何千時間も...何万時間かな?...ヌードの彼らを前にしてきたせいもあるね。
だから、スキンシップに抵抗がないんだ」
「...私には抵抗があります」
「そうだろうね。
悪かったね。
深い意味はないから、安心していい」
そう言ってユンさんは、私の頭をポンポンと叩いた。
「降りようか?」
ユンさんは閉まりかけたドアを押さえ、私を先に降ろした。
エレベータ前に立ちどまった私を追い越して、アトリエへと先立つユンさんの...広い肩幅と背中を覆う艶やかな黒髪を、観察していた。
チャンミンさん以上に長身で、逆三角形のがっちりとした後ろ姿。
違うなぁ。
チャンミンさんの場合、私と姿形が似ていることもあって、身体つきから『男らしさ』を感じることは、あまりないのだ。
自分の体形が、女性らしさが欠如したものなせいもある。
贅沢なことに、私の身近に2人の男性がいる。
タイプの違う2人の男性。
一人は憧れの人、もう一人は好きな人。
一人は恩人、もう一人は恋人。
「そうだ!」
ユンさんは振り返った。
「俺からのアドバイス。
恋愛を長続きさせるにはね...」
「?」
「嘘も方便だ。
全てを正直に伝えることが、必ずしも誠実な姿勢だと言い切れない。
相手のことを思うのなら、真実を歪めることも必要だよ」
ユンさんは、この前のことを言っているのだろう。
「でもね。
隠し事はいけないよ。
嘘と内緒は違う。
後ろめたい内緒ごとは、早いうちに打ち明けておいた方がいい。
時間が経てば経つほど、相手に与える傷は広がる一方だ」
ユンさんの言葉がよく理解できない。
嘘と内緒...。
私は男の人のことがよく分からない。
誰かとお付き合いすること自体が初めてだ。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
~チャンミン~
翌々号の打ち合わせも兼ねていたため、ライターのエムさんとの打ち合わせは2時間にも及んだ。
エムさんからの告白を受けた後、リアとの恋愛にかまけていたおかげで、仕事上の付き合いは以前と変わらずに済んだ。
交際を断られたからといって、エムさんの態度もこれまで通りだったため、僕の中の彼女の好感度は高まった。
次回の打ち合わせ日程を決めると、エムさんは帰っていった。
・
自分で言うのもなんだけど、恋愛において僕はなかなかの優等生だと思う。
他の女性によろめくことがほとんどない点が、カノジョに対して誠実だったと自負している。
エムさんに告白された僕は、嬉しいよりも困惑していた。
エムさんは可憐な美人で、その時の僕がフリーな立場だったら、迷っていただろう。
でも、当時の僕にはカノジョがいたし、よそ見する余地はゼロだった。
カノジョを前に、僕が見たいものしか視界に入れないところ、見たくないものはとことん視界に入れないところ。
...「カノジョにはこうあって欲しい」と願いが強すぎるあまり、例えばリアのように、浮気をされていたことに気付かない愚鈍なところが僕にはある。
でも...民ちゃんに対しては、「こうあって欲しい」と望むものは何もない。
民ちゃんは民ちゃんでいて欲しい。
この点が、これまでの恋愛と違うところなんだなぁ...なんて、しみじみ考えながら民ちゃんを待っていた。
(来た!)
巨大時計の円柱柱にもたれた僕をいち早く見つけて、民ちゃんはずんずんと早歩きで近づいてくる。
口元がふにゃけてしまうのを、ぐっと堪えた。
一方、民ちゃんはきりっと引き締めた表情で、僕に狙いを定めてずんずんと歩いてくる。
黒のブルゾンに白いシャツ、黒のパンツに、白いトートバッグ。
そうだ、民ちゃんに洋服を貸してあげないと。
「お待たせ、です」
敬礼でもしかねない真剣な言い方が面白い。
「10分遅刻をしてしまいました。
ごめんなさい」
僕の機嫌を探る上目遣いが可愛らしい。
「大丈夫。
僕もついさっき、来たところだから」
30分待っていたことは内緒だ。
「今日は...何食べようか?」
小洒落たところじゃなく、メニューが多くて低価格帯の大衆居酒屋にしようと予定していたのだ。
「チャンミンさんちで食べましょう!」
「へ?」
「デパ地下でいろいろ買って、チャンミンさんちで食べましょう!
...嫌ですか?」
「嫌じゃない。
そのアイデア、いいね」
駅に隣接したデパートへと、民ちゃんに手を引かれていったのだった。
そうかぁ...お家デートかぁ。
(つづく)
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