(34)NO? -第2章-

あと1時間もすればチャンミンがやってくる。

民はウキウキとハラハラのドキドキで落ち着かなげに、来客の用意をしていた。

コーヒーメーカーの電源を入れ、前もってトレーにカップを並べておいた。

民はちらりと、書類に目を通しているユンの様子を窺った。

 

(よく考えてみたら、恋愛事情を上司に報告するというのも、変な話だ)

 

 

昨夜の電話で、チャンミンは「うまいこと伝えておくから、明日のことは心配いらないからね。」と、民を安心させていた。

たった500mの距離に住む二人なのに、会いに行けばいいのに、電話で済ませるとは焦れったいことだ。

 

それにはワケがあった。

どちらかの家で会ったりなんかしたら、帰りがたくなって、朝まで一緒に過ごしてしまいそうだった。

もともとチャンミンは、ヒヨコな民を気遣ってスロウペースで関係を深めてゆくつもりだった。

ところが、民の露骨な発言に煽られているうちに、だんだん『その気』になってきたのだ。

民のあけすけな発言は、彼女が常識の数センチズレたところを生きているからだと、言い切れないところがあった。

猛烈な照れの裏返しが、チャンミンを凍らせる台詞を生んでいた。

本人にはその自覚はない。

チャンミンもそこまで気付いていない。

民にせよチャンミンにせよ、密室で二人きりで会ったりなんかしたら、その場で転げまわりたいほど恥ずかしくて仕方がない。

でも、触れ合いたくて仕方がない。

一昨日朝帰りをした余韻の熱が冷めるまで、会うのは控えようと各々が考えていたのだった。

おかしな挙動をとってしまいそうだから、と。

 

「チャンミンさん、おやすみなさい」

「民ちゃんも、おやすみ」

 

通話を切った民は、ぱたんと背中から布団の上に倒れ込んだ。

直後、起き上がりこぼしのように起き上がった。

 

「......」

 

ウエストゴムを引っ張って、パジャマのズボンの中を覗き込んだ。

 

(ムダ毛処理...もうちょっと完璧にした方がいいかなぁ)

 

民はチャンミンがセレクトしなかったレースのショーツで予行演習中だった。

一方、チャンミンは考え事に夢中で、鏡に映る歯磨き中の自分と目が合っていなかった。

 

(なんだろ...この感じ。

僕が童貞を捨てたのって、いつだったっけ?

当時の彼女の部屋に、初めて泊まる時みたいな鼓動が早くなる感じ。

すごいなぁ、30過ぎてもときめくことができるとは!

相手が民ちゃんだからだろうか)

 

口の中を濯ぎ、水気を払った歯ブラシをホルダーに戻した。

ここに民ちゃんの歯ブラシが加わる...と妄想してみては、顔がニヤつくのを抑えきれない。

 

(まだまだ女にしたくないような、大人の女の姿を見たいような...はあぁ...複雑だ)

 

と思いながら、民宅に泊まった翌日、早々と『アレ』を用意してしまったあたり...『その気』満々のチャンミンだった。

 


 

~民~

 

約束の時間15分前、ユンさんに呼ばれた私はアトリエへの階段を駆け上がった。

チャンミンさんの前だと挙動がおかしくなってしまうから、午後は出来ればアトリエで作業をしていたかった。

アトリエは機械の音でとてもうるさい。

 

「忙しいところ申し訳ない」

 

ユンさんはグラインダーで、硬化した粘土の表面を磨いている最中だった。

 

アトリエには2体の彫刻作品が鎮座している。

1体はデパートのショウウィンドウを飾るもの、もう一つは買い手が決まっているオーダー品だった。

同時進行で複数の作品を手掛けるユンさんは、忙しいのだ。

さらにもうひとつ、私とチャンミンさんを題材にした作品に着手しようとしている。

また、ユンさんはいくつか不動産を所有していて、そこから上がる収入もかなりのものなのでは?と、事務管理の仕事をしている私は想像している。

私とチャンミンさんがどうのこうのと、忙しいユンさんにわざわざお知らせすることの常識外れさが、余計に気になり始めた。

 

(...中止だ。

チャンミンさんとユンさんは仕事上の関係。

私生活を暴露することで、ユンさんをいたずらに煩わせたりしたら、チャンミンさんの評価が下がってしまうかもしれない。

そうだそうだ、中止しないと!)

 

 

間もなくチャンミンさんがやって来る。

チャンミンさんと連絡を取ろうと、今すぐ階下に駆け下りたいのを堪えて、ユンさんからの仕事の指示を待った。

ユンさんはグラインダーのスイッチを切り、粘土の粉で真っ白になったエプロンと目を保護していたゴーグルを外した。

「民くんに頼むべきじゃない事なんだが...頼まれてくれないかな?」

「はい...もちろん。

何でしょうか?」

「民くんは車の免許は持っているよね?」

「はい」と私は頷いた(車が無ければ田舎暮らしは困難だ、18歳の春に免許を取った)

「本来なら君に頼むことじゃないのだが...」と、もう一度前置きするものだから緊張した。

 

「急に言い出すんだから。

...言い出したら聞かない奴なんだ。

急で申し訳ない」

 

ユンさんはカウンターから車の鍵をとると、私に手渡した。

 

「リアを送っていって欲しいんだ」

「へ?」

 

(つづく)