あと1時間もすればチャンミンがやってくる。
民はウキウキとハラハラのドキドキで落ち着かなげに、来客の用意をしていた。
コーヒーメーカーの電源を入れ、前もってトレーにカップを並べておいた。
民はちらりと、書類に目を通しているユンの様子を窺った。
(よく考えてみたら、恋愛事情を上司に報告するというのも、変な話だ)
・
昨夜の電話で、チャンミンは「うまいこと伝えておくから、明日のことは心配いらないからね。」と、民を安心させていた。
たった500mの距離に住む二人なのに、会いに行けばいいのに、電話で済ませるとは焦れったいことだ。
それにはワケがあった。
どちらかの家で会ったりなんかしたら、帰りがたくなって、朝まで一緒に過ごしてしまいそうだった。
もともとチャンミンは、ヒヨコな民を気遣ってスロウペースで関係を深めてゆくつもりだった。
ところが、民の露骨な発言に煽られているうちに、だんだん『その気』になってきたのだ。
民のあけすけな発言は、彼女が常識の数センチズレたところを生きているからだと、言い切れないところがあった。
猛烈な照れの裏返しが、チャンミンを凍らせる台詞を生んでいた。
本人にはその自覚はない。
チャンミンもそこまで気付いていない。
民にせよチャンミンにせよ、密室で二人きりで会ったりなんかしたら、その場で転げまわりたいほど恥ずかしくて仕方がない。
でも、触れ合いたくて仕方がない。
一昨日朝帰りをした余韻の熱が冷めるまで、会うのは控えようと各々が考えていたのだった。
おかしな挙動をとってしまいそうだから、と。
「チャンミンさん、おやすみなさい」
「民ちゃんも、おやすみ」
通話を切った民は、ぱたんと背中から布団の上に倒れ込んだ。
直後、起き上がりこぼしのように起き上がった。
「......」
ウエストゴムを引っ張って、パジャマのズボンの中を覗き込んだ。
(ムダ毛処理...もうちょっと完璧にした方がいいかなぁ)
民はチャンミンがセレクトしなかったレースのショーツで予行演習中だった。
一方、チャンミンは考え事に夢中で、鏡に映る歯磨き中の自分と目が合っていなかった。
(なんだろ...この感じ。
僕が童貞を捨てたのって、いつだったっけ?
当時の彼女の部屋に、初めて泊まる時みたいな鼓動が早くなる感じ。
すごいなぁ、30過ぎてもときめくことができるとは!
相手が民ちゃんだからだろうか)
口の中を濯ぎ、水気を払った歯ブラシをホルダーに戻した。
ここに民ちゃんの歯ブラシが加わる...と妄想してみては、顔がニヤつくのを抑えきれない。
(まだまだ女にしたくないような、大人の女の姿を見たいような...はあぁ...複雑だ)
と思いながら、民宅に泊まった翌日、早々と『アレ』を用意してしまったあたり...『その気』満々のチャンミンだった。
~民~
約束の時間15分前、ユンさんに呼ばれた私はアトリエへの階段を駆け上がった。
チャンミンさんの前だと挙動がおかしくなってしまうから、午後は出来ればアトリエで作業をしていたかった。
アトリエは機械の音でとてもうるさい。
「忙しいところ申し訳ない」
ユンさんはグラインダーで、硬化した粘土の表面を磨いている最中だった。
アトリエには2体の彫刻作品が鎮座している。
1体はデパートのショウウィンドウを飾るもの、もう一つは買い手が決まっているオーダー品だった。
同時進行で複数の作品を手掛けるユンさんは、忙しいのだ。
さらにもうひとつ、私とチャンミンさんを題材にした作品に着手しようとしている。
また、ユンさんはいくつか不動産を所有していて、そこから上がる収入もかなりのものなのでは?と、事務管理の仕事をしている私は想像している。
私とチャンミンさんがどうのこうのと、忙しいユンさんにわざわざお知らせすることの常識外れさが、余計に気になり始めた。
(...中止だ。
チャンミンさんとユンさんは仕事上の関係。
私生活を暴露することで、ユンさんをいたずらに煩わせたりしたら、チャンミンさんの評価が下がってしまうかもしれない。
そうだそうだ、中止しないと!)
間もなくチャンミンさんがやって来る。
チャンミンさんと連絡を取ろうと、今すぐ階下に駆け下りたいのを堪えて、ユンさんからの仕事の指示を待った。
ユンさんはグラインダーのスイッチを切り、粘土の粉で真っ白になったエプロンと目を保護していたゴーグルを外した。
「民くんに頼むべきじゃない事なんだが...頼まれてくれないかな?」
「はい...もちろん。
何でしょうか?」
「民くんは車の免許は持っているよね?」
「はい」と私は頷いた(車が無ければ田舎暮らしは困難だ、18歳の春に免許を取った)
「本来なら君に頼むことじゃないのだが...」と、もう一度前置きするものだから緊張した。
「急に言い出すんだから。
...言い出したら聞かない奴なんだ。
急で申し訳ない」
ユンさんはカウンターから車の鍵をとると、私に手渡した。
「リアを送っていって欲しいんだ」
「へ?」
(つづく)