(38)NO? -第2章-

 

~チャンミン~

 

「......」

 

僕の思考はしばし真空状態になった。

音は消え、視線はエレベータの箱の中にロックオン。

嘘だろ嘘だろ嘘だろ!!

なぜ...ここに...リアがいる!?

(注:リアはチャンミンの前カノです)

 

ここはユンのオフィスであり、彼のオフィス直行エレベータにリアは乗っていた。

エレベータの扉が開いた向こうに現れた人物が、前カレの僕だった。

リアは片手で口を覆い、目も大きく見開いていた。

とっさに民ちゃんの反応が気になって、隣を見た。

 

(...あれ?)

 

この状況、民ちゃんにとって予想していたものだったらしい。

なぜなら、「あちゃー」といった風に額を覆っていたからだ。

民ちゃんはユンの元で働いているから、驚かなくても当然か。

ユンのオフィスにリアが出入りしていることを、民ちゃんは知っていた。

 

そうか!

 

ユンのアートモデルをしていたんだ、そうだそうだ。

答えが見つかって、跳んでしまった意識が戻ってきた。

同棲していた部屋を出て行った日以来の再会だった。

リアは相変わらず美しい女性なんだろうけど、今の僕の心は彼女の元には一切なくて......それどころじゃない!

 

リアは僕の脇をつかつかと通り過ぎ、民ちゃんの二の腕をとった。

「やあ、久しぶり」の「やあ」も言う間もなかった。

「行きましょ」

 

リアは停車してあった黒い車...ユンの車だ...まで、民ちゃんを引っ張っていった。

 

(一緒に出掛けるのだろうか...?)

 

民ちゃんは僕から顔を背けたままだったけれど、その耳は真っ赤っかで、この状況にショックを受けていたことは確かだ。

 

「チャンミンさん?」

時間が...」

 

僕のスーツの肘を引っ張るのはエムさんだった。

ぐるぐるぐちゃぐちゃな気持ちは、クローゼットの中に放り込んだ。

今は仕事中だ。

整理整頓するのは後にしよう。

 

 

15分前に現地に到着していたのに、アポイントメント5分遅れでチャイムを鳴らした。

 

(そういえば、メールを読むようにと念を押されていたな)

先ほどの民ちゃんの言葉を思い出した。

 

(この打ち合わせが終わってからだな)

 

スタイリッシュなテーブルの向こうで、ユンが唇の端だけで笑っている。

僕とリアが付き合っていたとは、まさかユンは知らないだろう。

知っていたとしても、世間は狭いねのひとことで済ませられる話だ。

 

「コーヒーを淹れましょう」

「いえ、お気遣いなく」

「民くんは用事に行かせているんだ。

もしかして途中で会わなかったかな?」

「あ...」

「まあ...民さんってさっきのあの方でしょ?

アシスタントさんなんですか。

チャンミンさんとよく似ていて、ご兄弟かと勘違いしてしまって。

ね、チャンミンさん?」

僕に向けてエムさんは小首を傾げた。

 

「それから...モデルさんですか?

綺麗な人もいらっしゃいました」

 

(ああ...。

エムさん、余計なことを言わないで欲しい)

 

ユンの黒い目がぎらりと光った。

「モデル...?

ああ!

彼女は...そうですねぇ」

僕は必死で平静を装った。

 

ようし、頭の中を整理しよう。

 

その1・・・作品のモデル(リア)の前カレが、得意先の担当者(僕)

これは、リアがユンの作品モデルだと仮定した場合の話で、それしかユンのオフィスから登場した理由が思いつかない。

リアがここを出入りしていたことは、アシスタントの民ちゃんは当然知っていた。

エレベータでの民ちゃんとリアの反応を見れば明らかだ。

でも、僕に知らせずにいたのは、僕らのいざこざ(妊娠騒動)を側で見てきて、僕を動揺させたくないと気遣ったんだろう。

 

その2・・・ここからがデリケートな問題になる。

その担当者(僕)の今カノが、ユンが雇っているアシスタント(民ちゃん)であること。

常識的に考えて、取引先の者に知らせる必要のないプライベートな情報だ。

ところが、ユンが関わってくると話は違う。

こんなことを考えながら、サクサクと打ち合わせを進めていった。

エムさんは僕の隣でせっせとメモをとっている。

仕事熱心な方だなぁと、感心していた。

 

 

「それでは今日はこの辺で...」

ユンの意向をほぼ通すことで、最終号の段取りはうまく取りまとめることができた。

 

「エムさん、ちょっと...」

ユンに断って、エムさんを連れて席を立った。

 

「申し訳ないんだけど、ユンさんと話があるんだ。

今の仕事とは別の仕事の話が。

急に決まった話なんだ。

車の中で伝えておけばよかったね、ゴメン」

極めて私的な話だけど、ユンにはモデルの依頼をされていたから、あながち嘘ではない。

 

「ここから100m先に地下鉄があります。

送ってあげられなくて、すみません」

 

エムさんには悪いことをした。

そもそも、エムさんの同行を最初から断っておけばよかった話だ。

 

「もぉ...分かりました。

今度、お詫びしてくださいね」

エムさんは僕の二の腕をとん、と叩いた。

 

フランクな言葉遣いとボディタッチに驚いて、「そうですねぇ...ははは」と肯定とも否定ともつかない中途半端な返事をしてしまった。

 

(つづく)