~チャンミン~
残業でくたびれた身体を引きずるようにして帰宅した。
今日はカタログに載せる健康レシピを監修する料理家の元へ出向いていた。
僕もエプロンをつけて、調理を手伝ったのだ。
片手に下げた紙袋の中に、沢山のカップケーキが詰まっている。
生地が大豆粉とお豆腐で出来ているからヘルシー、なんだそうだ。
民ちゃんに食べさせようと、全部もらってきた。
民ちゃんの大きな口の中に、すいすいと消えていくんだろうな。
「チャンミンさん、美味しいですー」って。
思わず、ふふふっと笑いがこぼれた。
リビングが明るかったから民ちゃんがいるんだろうと、元気よく「ただいま」と言った。
「チャンミン...?」
キャミソールに短パン姿のリアが、ソファで膝を抱えていた。
ローテーブルの上にスナック菓子と菓子パンの袋が散らかっていた。
1.5リットルのコーラのペットボトルをラッパ飲みしたリアは、フライドチキンにかぶりついた。
「珍しく遅いのね」
スタイルを死守するために食へのルールが多かったリアらしくない。
「食べ過ぎじゃないのか?」なんて、口が裂けても言えない。
どんな内容であれリアに向けるふさわしい言葉が、今は見つからない。
昨夜に引き続き、リアが今夜も部屋にいること自体も、今までと違っていた。
分かっているのは、リアが著しく機嫌が悪いということだ。
キッチンに紙袋を置いて、「民ちゃんは?」とリアに尋ねた。
「さあ。
帰ってきてないと思う」
民ちゃんの部屋を何度かノックしたのちドアを開けたが、三つ折りにした布団が見えるだけで無人だった。
まだ帰ってきてないのか?
今夜はカットモデルのバイトではないはずだ。
23時。
民ちゃんはまだ帰ってこない。
・
携帯電話のディスプレイを何度も確かめていた。
落ち着かなくて、立ったり座ったり、冷蔵庫の扉を開けたり閉めたり、飲みたくもない珈琲を淹れたり。
これまで3回電話をかけたが、マナーモードにしてあるのか民ちゃんは電話に出ない。
今朝、出勤前の玄関先で、「今夜は帰りが遅くなります」と民ちゃんは言っていた。
昨日に引き続き、民ちゃんの態度がどこなくそっけなかったような気がした。
だから余計に僕は心配だった。
「未成年じゃあるまいし。
弟くんは夜遊びしているだけだって」
民ちゃんのことを男だと勘違いしているリアが、投げやりに言う。
夜遊び、の言葉に僕の心がヒヤリとした。
今夜はカットモデルのバイトはないはずだ。
友達と遊びに行っているのだろうか?
それとも...『例の彼』と...?
「チャンミン...。
弟くんの心配もいいけど、もっと心配しなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」
騒々しい音を立てていたTVを消すと、リアは怖い目をして僕を見た。
「私たちのこと...まだ気持ちは変わらないの?」
「...変わっていない」
僕はゆっくりと首を振った。
「私は...別れたくない」
「リア...」
「チャンミンに捨てられたら、私はどうすればいいのよ?
この部屋を出て行かなくちゃならなくなるのよ。
モデルの仕事なんて...この半年間はほとんど無かったのよ。
知らなかったでしょう?」
「え...!」
驚いた。
「忙しい忙しいって...帰りも遅かったよな?」
「呑気な人ね。
モデルの仕事がなくなったら、どこで稼いでると思う?
コンビニやファストフードの店員をやってるって?
私にできるわけないでしょう?
夜の仕事に決まっているじゃない!」
「......」
モデルのことも夜の仕事のことも、初耳だった僕は絶句した。
「初めて聞く話でしょう?
驚いたでしょう?
毎晩帰りが遅い理由を聞かなかったチャンミンが悪いのよ」
「夜の仕事っていうと...つまり...ホステスとか、キャバ嬢のことか?」
「そうでもしないと、生活費はどうするのよ?」
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?
相談にのってやれたし、違う部屋に引っ越すことだってできたんだぞ?」
「モデルの仕事が少なくなったなんて言えるわけないじゃないの。
チャンミンは『モデルのリア』が好きなんでしょ?
理想を壊したくなかったのよ」
「リア...」
リアは話したいことしか話さない。
僕が質問したとしても、詮索していると捉えて機嫌を悪くする。
仕事の後、遊びにでも行っているのだろうと思い込んでいた。
好き勝手に暮らしているのだと、リアに嫌気がさしていた自分が恥ずかしくなってきた。
リアにはリアの事情があったのだ。
不満があったのならそれを言葉で伝えたり、帰りの遅い理由を問いたださなかった僕が悪かった。
リアの言う通り、僕は『モデルのリア』に惚れた。
でもそれは好きになったきっかけに過ぎず、僕が求めていたのは「好きな人と共に過ごす時間」と互いを想い合う感情だ。
楽しく笑い合うだけじゃなく、衝突し合ったり、胸を痛めることもあったりして、共に経験する時間が欲しかった。
僕をほったらかしにしているくせに、携帯電話を盗み見るリアが嫌だった。
「じゃあ、泊りで何日もいなかった時は?
その時は、撮影だったのか?」
リアの表情が一瞬強張った。
「今さら、あれこれ聞くのはやめてよ。
私のことなんか興味なかったくせに!」
「そんなこと...」
「なくはない」と思った。
リアの不在に不貞腐れているうち、不在が当たり前になってきて、稀にリアが部屋にいる日があると、くつろげず緊張している自分がいた。
「チャンミンは...こんな私を...捨てるの?」
「そんな言い方はよせよ」
リアの口が歪み、大きな目に涙が膨らんでいる。
また泣かせてしまった。
「私のことが嫌いになったの?」
「嫌いになったわけじゃない」
「じゃあどうして、別れたいのよ?」
「君と恋人関係を続けるのに疲れたんだ」
僕の目にも涙が浮かんできた。
交際期間たった1年で僕は根を上げた。
「早く帰るから。
料理もするし、デートもする。
チャンミンの好きなことを一緒にするから。
チャンミンのファッションに口出ししないし...そうだ!
旅行しようよ。
今まで行ったことなかったでしょう?
私、変わるから!」
僕の腕をぎゅっとつかんだリアが、僕を見上げている。
リアの必死な姿は初めて見る。
「もう遅いよ」
僕はゆっくりと首を横に振った。
「大嘘つき!
私のことを好きだの、最高だの言ってたくせに!」
「ごめん」
当時の気持ちは本物だったと断言できる。
「分かった!
他に好きな女がいるんでしょ!」
瞬時に民ちゃんの顔が浮かんだ。
パチンと音がして、頬がカッと熱くなった。
僕の表情のわずかな変化を見て取ったリアが、僕に平手打ちをしたのだ。
(つづく)
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