~タクシー~
~チャンミン~
僕に突然手を握られて、民ちゃんは一瞬ビクッとしたけど、手を引っ込めるでもなくそのままでいてくれる。
民ちゃんの細い指が、僕の手の甲をさわさわとくすぐっている。
ぞわっとした心地よい痺れが、手から背筋へと走り、僕の下半身に火が灯る気配を感じて、焦る。
民ちゃんはそんなつもりはないだろうけど、手の甲への愛撫だけで感じるなんて。
「私のファーストキスは...」
「うんうん?」
「まだ...です」
「ええっ!?」
「嘘です」
「なあんだ」
セーラー服を着た民ちゃんが、学生服の男子とキスするイメージが浮かんだ。
男子の方はつま先立ちなんだ。
ファーストキスか...30過ぎた僕にとって遠くて、懐かしい過去だ。
そんなことよりも、ひっかかっていることがある。
今夜のデートの相手が『例の彼』じゃなく、職場の上司だと知って心底ほっとしたが。
「上司って...スケベ親父じゃないだろうな?」
「まっさか!
親父って年じゃありません」
「いくつ位?」
「40歳です」
「独身?」
「独身...と聞いてます」
心配になってきた。
民ちゃんがワンピースを着なくちゃいけないようなところ...値段のはるレストランか?...に連れて行くなんて、下心ありまくりじゃないか。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。
そんな人じゃありません」
民ちゃんはきっぱりと言い切った。
「チャンミンさん」
「ん?」
「男の人は...例えばですよ?
付き合っている彼女がいたとして。
もしくは好きな人がいたとして。
それでも、他の人とキスってできるものなんですか?」
バルコニーで僕が答えられなかった質問を、民ちゃんは再び投げかけてきた。
待てよ...。
民ちゃんに心を奪われているのに、リアと深いキスをすることができた。
だから、民ちゃんの質問に対する答えは「イエス」だ。
そう答えていいのだろうか?
リアともつれ合ってところを民ちゃんに目撃された時を、早戻ししてみる。
民ちゃんが帰宅した時は...僕とリアは...キスはしていなかった。
ということは、「リアと別れたがっていた僕が、リアとキスできるのはなぜだ?」と問いただしてるわけじゃなさそうだ。
民ちゃんは、どうしてこんな質問をするのだろう。
分かりやすい子だから、民ちゃんの中で何かがあったに違いない。
「どうしてそんなこと聞くの?」
すると、民ちゃんが泣き出しそうな、切なさそうな、僕が初めて見る表情を見せた。
僕の喉がごくりと鳴った。
「私にキス...できますか」
「!」
「チャンミンさんだったら、私にキスできますか?」
民ちゃん発言に僕はフリーズした。
僕の周囲から音が消えた。
「民ちゃん...急に、どうした?」
「どうもこうもしてません!」
民ちゃんが、消え入るような小声で言った。
チャンミンさんは、私が相手でも、キスできますか?」
~タクシー・ドライバー~
深夜2時30分。
呼び出されたマンションの前で乗り込んだのは、若い男二人。
似ているから、双子か?
片方の頭は、雪みたいに真っ白だ。
行き先が片道1時間弱はあるところで、距離が稼げて「今夜はついている」と気持ちが上向いた。
ちらちらとバックミラー越しに後ろの様子を窺った。
俳優みたいにきれいな二人だったから、ついつい見てしまう。
ぼそぼそと会話を交わしている。
信号待ち時、さりげなく後ろを振り返ったら、手を繋いでいて「おっ!」と驚いた。
やれやれだ。
世の中、いろんな人がいるもんだ。
「!!」
頭の白い方の顔が、黒い方の頭で隠れた。
キスしてるじゃあないか。
バックミラーから視線を前方に戻したら、赤信号に気付いて慌ててブレーキを踏んだ。
ぐっと前のめりになり、シートベルトが肩に食い込んだ。
危ない危ない。
「お客さん、すんません」
後ろの2人に謝りながら、振り返った。
~チャンミン~
民ちゃん発言、「キスできますか?」に僕はフリーズしてしまった。
僕の中では、民ちゃんの質問に「できる」と即答していた。
民ちゃんが知りたいのは「好きな人がいながら、他の人とキスができるのか?」だ。
この質問の答えは「YES」でもあり「NO」だ。
リアとのことを棚に上げられるのは、いくつかの恋愛模様を経験した結果、すれてしまった大人の僕だからだ。
でも、民ちゃんはそうじゃない。
民ちゃんが欲しい答えは、「NO」なのだろう。
民ちゃんは青い。
民ちゃんの理想は、「好きな人とだけしかキスしない人」だ、きっと。
「民ちゃんとキスしたいのか?」
この質問の答えは「YES」だ。
でも、民ちゃんは僕の気持ちを知らない。
どうすればいい?
こんなことをわずか5秒の間に考えていた。
走行する車がまばらの深夜過ぎの道路。
規則的に並ぶ街灯が、規則的なリズムで民ちゃんの真剣な表情を照らしていく。
じぃっと僕を見つめている。
民ちゃん、何があったの?
どうして僕にそんなことを尋ねるの?
切なそうな目が色っぽく僕の目に映っているよ。
そんな目で見られたら、『お兄ちゃんのお友達』でいられなくなるよ?
言われなければ男の子と間違われてしまう凛々しい顔。
唇の形が、僕とおんなじだ。
僕と瓜二つの顔。
その顔に、僕の顔を近づける。
止められない。
目の前の民ちゃんが、鏡に映る自分に見えて、まるで鏡とキスをしようとしているみたいに錯覚した。
暗い車内で、民ちゃんの顔のディテールが曖昧になっていたから、余計にそう見えた。
民ちゃんと繋いだ片手はそのままに、もう片方の手を民ちゃんの頬に添えた。
彼女の頬がぶるっと震えたのを手の平で感じたら、目の前の鏡板は消滅してしまった。
僕と同じ顔をしているけど、君は僕じゃない。
君は女の子で、世間ずれした僕は君とは似ても似つかない。
斜めに傾けた顔を、15㎝の距離でぴたりと止めた。
民ちゃんは繋いだ手の力を抜いて、身動ぎせず呼吸も止めているようだ。
僕は民ちゃんとキスがしたい。
これが僕の答えだ。
(つづく)