~キスの意味~
~チャンミン~
僕のバッグの中で民ちゃんの携帯電話が何度も鳴って、その度代わりに出ようか迷ってしまう。
マナーモードに切り替えたいが、暗証番号が分からない。
「誕生日とかかな?」と試しに入力しかけて、「民ちゃんの誕生日っていつなんだろう?」と、指が止まった。
民ちゃんのことをあまり知らないことに気付いた。
僕といる時はおちゃらけている民ちゃんだけど、自分自身のことを率先して話す子じゃない。
「チャンミンさんはどうでした?」と質問されれば僕は何でも答えてあげたし、「民ちゃんはどう?」と僕の方から質問すれば、大抵のことは教えてくれた。
「そうですねぇ...、私の場合はですねぇ」って、丸い目で宙を見上げてしばし考える仕草を思い出すと、ふっと僕の口元は緩んでしまう。
誕生日はいつか教えてもらおう。
民ちゃんに誕生日プレゼントを買ってあげたい。
わくわくしてきたけど、僕と民ちゃんの関係について考えが及ぶと、気持ちが萎む。
友人でも恋人でもないのに、プレゼントを贈るのはやり過ぎだよな。
それならば、はっきりさせた方がいいのだろうか?
タクシーの中でのキスで、僕の気持ちが民ちゃんにバレているといいんだけど。
駄目だ。
民ちゃんは、気付いていない。
観察眼は鋭そうなのに、色恋ごとには鈍感そうな民ちゃんに、僕のことを察して欲しいと望むのは無理がある。
ひとつ屋根の下で暮らせる日々も、残り少ない。
間もなく民ちゃんは、僕のところを出て行ってしまうし、僕の方も引っ越し先を真剣に探さなければならない。
一緒に暮らしている間は、僕の想いは胸にしまっておいた方がいい。
僕からの告白なんて民ちゃんは予想だにしないだろうし、民ちゃんの答えが「NO」だったら気まずくなる。
待てよ...。
民ちゃんは、「勘違いしてしまいますよ?」と言っていた。
そうだよ民ちゃん、是非とも勘違いして欲しい。
ワンピースを着た理由が職場の歓迎会ならば、『例の彼』と未だどうこうなっていないはずだ。
今なら、僕が割り込んできても間に合うよね?
やれやれ、どうやら僕は相当、民ちゃんに参っている。
バッグの中から雄鶏の鳴き声がした。
「!!!」
リアルな『コケコッコー!』だ。
電車内で一斉に浴びせられる冷たい視線に、僕は赤面しながらバッグに手を突っ込んで、音源をストップさせる。
民ちゃんは、発信者によって異なる着信音を設定しているのだ。
知っている範囲では、民ちゃんの兄Tが『ツィゴイネルワイゼン』で、実家が『車のクラクション』、郷里の友人が『観衆の笑い声』...僕の場合は(気になって、さっき鳴らしてみた)と言えば。
民ちゃんの独特のセンスを考慮すれば、僕からの着信は「犬の鳴き声」もしくは「お寺の鐘の音」かな、って。
ところが、僕に設定されていたのは、『せせらぎの音』だったんだ。
こんな控えめな音じゃ聞こえないだろう?と、民ちゃんに突っ込みをいれたくなった。
でも。
なぜだか、嬉しかった。
そっか...僕は、さらさら流れる心癒されるせせらぎの音か...って。
『コケコッコー!』が鳴るのはこれで3回目だ。
発信者は『Y』と表示されていて、民ちゃんの『例の彼』かもしれないと思うと、心がヒヤッとした。
降りるべき駅名のアナウンスに、扉が開くや否や僕はホームへ降り立った。
僕は今から民ちゃんに携帯電話を届けに行く。
病院にいるといいのだけれど。
~チャンミンと民~
受付カウンターで産科の場所を教えられ、廊下を曲がった突き当りに、チャンミンは真っ先に民の白い頭を見つけた。
(いた!)
長い脚を組んでベンチに腰掛けた民は、両腕を組んで俯いてうたた寝をしているようだ。
寝不足の民を気遣ったチャンミンは、声はかけずに民の隣に腰掛けた。
(疲れているんだな)
口を軽く開け、すーすーと寝息をたてる民を見るチャンミンの眼差しは優しかった。
(よかった...キスマークは付いていない)
前へ折曲がった民の白いうなじが真横にあって、チャンミンはどうしてもタクシーの出来事を思い出してしまう。
(僕の肩を貸してあげたいけど...、ここは病院だ)
がくんと民の頭が大きく前へ揺れて、その弾みで民は目覚めた。
「っと!」
きょろきょろと見回して、隣に座るチャンミンに気付いた民はビクッと身体を震わせた。
「びっくりしましたぁ!」
垂れてもいないよだれを拭う民の仕草が可笑しくて、くすくす笑ったチャンミンは民の頭に手をのばした。
「あ...」
首をすくめた民に驚いたチャンミンの手が、民の頭に触れる1歩手前で止まる。
「ごめん」と慌てて手を引っ込めたチャンミンに、民も「ごめんなさい」と謝る。
(違うんです!
嫌じゃないんです!
ただ...ただ...)
真っ赤な顔でコホンと咳ばらいをした民はつぶやく。
「恥ずかしい...です」
(民ちゃんに照れられたら、僕の方も恥ずかしいよ)
チャンミンも戻した手を口元に当てて、コホンと咳ばらいをした。
(急にどうしちゃったんだろう。
チャンミンさんに接近されると、緊張する...!
妙に意識してしまって...)
(やっぱり昨夜のことが、嫌だったんだろうか?
僕から離れて座りなおすなんて...嫌われた...かな)
「えっと...お義姉さんは?」
「そうなんです!」
パチンと手を叩いた民は立ち上がり、弾ける笑顔でチャンミンを見た。
「産まれたんですよぉ!」
「ホントに!?」
チャンミンも立ち上がって、民の両手をとった。
「そうなんですよぉ!」
「どっち?」
「男の子でーす」
「4人目も!?」
「そうなんです!」
「お義姉さんは?」
「元気もりもりです」
「ちっちゃい子たちは?」
「お祖母ちゃんがお迎えにいってます」
「Tは?」
「お義姉さんとこです」
「!!」
「!!」
我に返った二人は、繋いだ手を同時に離す。
「はははは...私たち、なんだか変ですね」
チャンミンも照れ隠しに、痒くもないうなじをぼりぼりとかいた。
指先に絆創膏が触れて、ぎくりとその手が止まる。
(これだけは民ちゃんに見つかるわけにはいかない!)
「民ちゃん、落としていっただろ?
携帯電話」
「おー!
そうでした!
どこにありましたか?」
「タクシーの中だよ」
「タクシー...ですか...」
「...」
「...」
(タクシーで、私とチャンミンさんは...)
チャンミンは、黙りこくってしまった民の様子に不安になる。
(やっぱり、タクシーでのことが嫌だったんだな)
「民ちゃん...あのさ、電話!
電話があったみたいだよ」
「やっぱり!」
民は受け取った携帯電話をあたふたと操作する。
(ユンさんからだ...3回も...。
無責任な奴だと思っただろうな。
あれから坊やたちのお世話や、産まれたと呼び出されてバタバタしていたから、すっかり忘れていた。
社会人失格だ)
「民ちゃん、連絡しておいでよ」
民の表情が曇っているのを見て、チャンミンは民に声をかける。
「そうします」
その場を離れかけた民はすぐに引き返してきた。
「チャンミンさん...」
民は俯き加減で、チャンミンのシャツをつんつんと引っ張った。
「ん?」
「お願いがあります」
「どうした?」
(つづく)
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