【85】NO?

 

 

「大変だったね」

 

ユンはベッドに腰掛ける民の前でしゃがむと、見上げて優しい笑顔を見せた。

 

身支度をした民の姿に、

 

「あれ...?

退院?」

 

と尋ねた。

 

「はい。

頭を切った程度で済みました」

 

(やっぱりドキドキする。

私は、ユンさんのことが好きだったんだ...)

 

民の心を容易に揺さぶる人物が、予想もしていなかったタイミングで登場した。

 

自分の落ち度から病院へ担ぎ込まれてしまった自分が、恥ずかしくてたまらなかった。

 

「お兄さんから連絡をもらってね。

すぐにでも顔を見に行きたかったんだが...

夜遅くはご迷惑だろうから、今日になってしまって悪かったね」

 

「そんなこと...ないです。

間抜けですみません...」

 

ユンは首まで真っ赤にした民の頬を、指の背で撫ぜた。

 

身震いした民に、ユンは内心「ちょろいな」と思った。

 

 

(俺の言うこと成すこと全てに、敏感に反応する。

 

この子相手には、駆け引きなんて必要ない。

 

だから、この子を落とすことなんて簡単なことだ。

 

素肌にキモノだけを羽織って俺の前に出た民の、かき合わせた衿を握ったこぶしを目にした時、自分のことがまるで、震える小鹿を前にしたどう猛なオオカミのようだった。

 

一気に手折ってしまいたくなるが、一瞬ためらってしまうのは、本気を出したら、この子を滅茶苦茶に傷つけてしまうことが必至だからだ。

 

それは可哀想だと思うことが、今までの俺では考えられないこと。

 

泣かせるのではなく、楽しそうにしている表情を見たい。

 

嵐のように奪って、むさぼって、最後に泣き顔といった、お決まりの展開にはしたくない。

 

こんな心境は初めてだ)

 

 

ちらちらとユンの表情を窺う民に、いたわりの笑顔を見せながら、ユンはそのようなことを考えていた。

 

(ユンさんは...やっぱり素敵な人だ...)

 

ユンを見下ろす格好になって、民はさりげなくユンの髪の生え際や、広い肩幅や、仕立てのよいシャツ...。

 

(あれ...?)

 

ユンからいつもの香水の香りがしないことに気付いた。

 

(そっか...ここは病院だから...ユンさんはさすがだな)

 

「無断で休んですみませんでした。

明日には仕事できますから」

 

民の手を軽く叩いて、ユンは立ち上がった。

 

「謝らなくていい。

今週は休みなさい。

昨日は民くんが顔を出さなくて、心配だった」

 

(モデルを引き受けたことを今になって後悔して、辞めたくなったのではと予想していたんだけどな)

 

「すみません...」

 

「謝るな、と言っただろ?」

 

「はい、すみません...あ、また謝っちゃいました」

 

「君の『お兄さん』...チャンミンさんも随分心配していたよ」

 

「え!?」

 

「俺のところに電話があってね」

 

「そうでしたか...」

 

(チャンミンさんがお兄ちゃんだなんて、言った覚えはないんだけどな。

間違えてもおかしくはないんだけど...)

 

「これから、どうやって帰るの?」

 

「お迎えに来てもらっています」

 

「ご家族に?」

 

ユンに問われて一瞬、民は迷う。

 

「チャンミンさんが(家族じゃないんだけどな)...」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

会計窓口が混雑していたせいで時間がかかってしまい、民ちゃんの病室に早歩きで向かう。

 

カーテンの向こうから男の声がして、誰だろうと思った。

 

「民ちゃ...」

 

民ちゃんの隣にユンがいた。

 

一気に不愉快になったが、先日のように大人げない振る舞いは控えようと、ムッとした表情になりそうなのをグッと堪えた。

 

 

(つづく)

 

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