~チャンミン~
「ああーーーー!!」
悲鳴に近い大声に、鍋をかき回していたお玉を放り出して、洗面所へ駆けつけた。
「どうした!?」
「チャンミンさん...どうしましょう...」
キャミソール姿の民ちゃんに、ドキリとした。
シャワーを浴びるために、洋服を脱ぎかけていたのだ。
頭を覆っていたネットが外され、髪があっちこっちくしゃくしゃになっている。
「どうしたの?」
民ちゃんの両眉が下がり、口角もぐっと下がった。
そして、くるっと僕に背を向けるから、訳が分からずにいた。
「頭を見てください」と、後頭部を指さしている。
これは痛いはずだ...民ちゃんの頭の傷は三又に分かれていて、10針近く縫われている。
周囲が丘のようにぽこりと腫れていて...。
「!」
「そうなんです...。
ハゲになってます...」
これだけの怪我をしたら、治療のために髪の毛を刈って当然だ。
「うっ、うっ...うっ」
しゃくりあげる民ちゃんの背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「ハゲですよ、ハゲ!」
いっそのこと短くしてしまえば目立たないよ、なんて提案はできない。
無理に女らしい恰好をしないけど、同時に無理に男らしい要素を取り入れたがらない民ちゃん。
髪を今より短くするのは嫌に決まってるから。
「帽子をかぶったら?」
「帽子は頭がムズムズするから好きじゃないんです。
それに...男度がアップします」
「うーん...」
キャップをかぶった自分の顔を思い浮かべて、なるほどそうかもしれない、と民ちゃんの指摘に納得する。
「そうだなぁ...」
「元通りになるのに、どれくらいかかりますかねぇ?」
「3か月くらい?」
「そんなあ...」
「そうだ!
K君に相談してみたら?」
「おー!
グッド・アイデアですね」
たちまち機嫌を直した民ちゃん。
「髪は僕が洗ってあげるよ。
一人じゃ、洗いにくいだろ?」
「そうですね。
...じゃあ、お言葉に甘えて」
ズボンの裾をたくしあげ、腕まくりをした僕は、シャワーの湯加減をみてから、民ちゃんを手招きした。
「おいで」
民ちゃんの手を引いて、空のバスタブの中に座らせた。
「首を伸ばして」
「はい。
濡らさないでくださいね」
窮屈そうに両脚を折り曲げた民ちゃんは、バスタブの縁から身を乗り出した。
「心配ご無用」
細い首からつながる背骨の凸凹が、女性らしく華奢だなと思った。
傷口にかからないよう、水量を弱めたぬるま湯で髪を濡らす。
「痛くない?」
「大丈夫です」
手の平でシャンプーをたっぷりと泡立てた。
民ちゃんの形のよい頭を、指先だけで注意深く、丁寧にマッサージするように。
民ちゃんは僕に頭を預けて、じっとしている。
こんな感じ、映画のワンシーンであったな。
外国の映画だった。
逃亡中の男女がいて、ホテルのバスルームで、男が彼女の髪を洗ってやっていた。
そのシーンがとても色っぽいと思ったことを覚えている。
ぴんと立った耳に泡がついていたから、そっと拭ってやる。
白いうなじと、僕と同じくせっ毛。
少しだけ...。
少しだけなら。
ほんの少しだけなら...。
民ちゃんの耳たぶにそっと、気付かれないようにそっと軽く唇を押し当てた。
胸がきゅうっと苦しかった。
昨夜は恋人のフリをするだなんて、大胆なことが出来たのに。
本腰をいれようと威勢のいいことを考えていたのに。
いざ、素に戻って民ちゃんを前にすると、肝心な言葉が出てこなくなる。
変わってしまうことが怖いから。
雰囲気が悪くなったり、拒絶されることが怖いから。
黙っていれば、今のままでいられる。
恋人のフリをした理由も説明できていない。
民ちゃんが僕のことを忘れたふりをした理由も、質問できていない。
リアとのいざこざを耳にしたはずの民ちゃんに、そうじゃないと誤解を解くこともできていない。
民ちゃんが話題に出すまで、黙っているつもりでいる僕は臆病だ。
無残な有様の、民ちゃんの後頭部を痛まし気に見る。
痛かっただろうな。
可哀想に。
「湯加減は?」
「ちょうどいいです」
丁寧に濯ぎ終えて、バスタオルでそっと民ちゃんの頭を包みこんだ。
押すようにやさしく水気をとってやる。
「チャンミンさん。
鼻に泡がついてますよ」
そう言って民ちゃんは、人差し指で泡を拭ってくれた。
(つづく)
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