(87)NO?

 

 

~チャンミン~

 

「ああーーーー!!」

 

悲鳴に近い大声に、鍋をかき回していたお玉を放り出して、洗面所へ駆けつけた。

 

「どうした!?」

 

「チャンミンさん...どうしましょう...」

 

キャミソール姿の民ちゃんに、ドキリとした。

 

シャワーを浴びるために、洋服を脱ぎかけていたのだ。

 

頭を覆っていたネットが外され、髪があっちこっちくしゃくしゃになっている。

 

「どうしたの?」

 

民ちゃんの両眉が下がり、口角もぐっと下がった。

 

そして、くるっと僕に背を向けるから、訳が分からずにいた。

 

「頭を見てください」と、後頭部を指さしている。

 

これは痛いはずだ...民ちゃんの頭の傷は三又に分かれていて、10針近く縫われている。

 

周囲が丘のようにぽこりと腫れていて...。

 

「!」

 

「そうなんです...。

ハゲになってます...」

 

これだけの怪我をしたら、治療のために髪の毛を刈って当然だ。

 

「うっ、うっ...うっ」

 

しゃくりあげる民ちゃんの背中をぽんぽんと優しく叩いた。

 

「ハゲですよ、ハゲ!」

 

いっそのこと短くしてしまえば目立たないよ、なんて提案はできない。

 

無理に女らしい恰好をしないけど、同時に無理に男らしい要素を取り入れたがらない民ちゃん。

 

髪を今より短くするのは嫌に決まってるから。

 

「帽子をかぶったら?」

 

「帽子は頭がムズムズするから好きじゃないんです。

それに...男度がアップします」

 

「うーん...」

 

キャップをかぶった自分の顔を思い浮かべて、なるほどそうかもしれない、と民ちゃんの指摘に納得する。

 

「そうだなぁ...」

 

「元通りになるのに、どれくらいかかりますかねぇ?」

 

「3か月くらい?」

 

「そんなあ...」

 

「そうだ!

K君に相談してみたら?」

 

「おー!

グッド・アイデアですね」

 

たちまち機嫌を直した民ちゃん。

 

「髪は僕が洗ってあげるよ。

一人じゃ、洗いにくいだろ?」

 

「そうですね。

...じゃあ、お言葉に甘えて」

 

ズボンの裾をたくしあげ、腕まくりをした僕は、シャワーの湯加減をみてから、民ちゃんを手招きした。

 

「おいで」

 

民ちゃんの手を引いて、空のバスタブの中に座らせた。

 

「首を伸ばして」

 

「はい。

濡らさないでくださいね」

 

窮屈そうに両脚を折り曲げた民ちゃんは、バスタブの縁から身を乗り出した。

 

「心配ご無用」

 

細い首からつながる背骨の凸凹が、女性らしく華奢だなと思った。

 

傷口にかからないよう、水量を弱めたぬるま湯で髪を濡らす。

 

「痛くない?」

 

「大丈夫です」

 

手の平でシャンプーをたっぷりと泡立てた。

 

民ちゃんの形のよい頭を、指先だけで注意深く、丁寧にマッサージするように。

 

民ちゃんは僕に頭を預けて、じっとしている。

 

こんな感じ、映画のワンシーンであったな。

 

外国の映画だった。

 

逃亡中の男女がいて、ホテルのバスルームで、男が彼女の髪を洗ってやっていた。

 

そのシーンがとても色っぽいと思ったことを覚えている。

 

ぴんと立った耳に泡がついていたから、そっと拭ってやる。

 

白いうなじと、僕と同じくせっ毛。

 

少しだけ...。

 

少しだけなら。

 

ほんの少しだけなら...。

 

民ちゃんの耳たぶにそっと、気付かれないようにそっと軽く唇を押し当てた。

 

胸がきゅうっと苦しかった。

 

昨夜は恋人のフリをするだなんて、大胆なことが出来たのに。

 

本腰をいれようと威勢のいいことを考えていたのに。

 

いざ、素に戻って民ちゃんを前にすると、肝心な言葉が出てこなくなる。

 

変わってしまうことが怖いから。

 

雰囲気が悪くなったり、拒絶されることが怖いから。

 

黙っていれば、今のままでいられる。

 

恋人のフリをした理由も説明できていない。

 

民ちゃんが僕のことを忘れたふりをした理由も、質問できていない。

 

リアとのいざこざを耳にしたはずの民ちゃんに、そうじゃないと誤解を解くこともできていない。

 

民ちゃんが話題に出すまで、黙っているつもりでいる僕は臆病だ。

 

無残な有様の、民ちゃんの後頭部を痛まし気に見る。

 

痛かっただろうな。

 

可哀想に。

 

「湯加減は?」

 

「ちょうどいいです」

 

丁寧に濯ぎ終えて、バスタオルでそっと民ちゃんの頭を包みこんだ。

 

押すようにやさしく水気をとってやる。

 

「チャンミンさん。

鼻に泡がついてますよ」

 

そう言って民ちゃんは、人差し指で泡を拭ってくれた。

 

 

(つづく)

 

 

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