(89)NO?

 

 

~チャンミン~

 

翌朝、朝食のテーブルを僕と民ちゃんは囲んでいた。

 

「携帯電話を盗まれてしまったので、今日、新しいものを買いに行ってきます」

 

「ないと不便だよね」

 

「バッグもなくなっちゃいましたね」

 

「何か貸そうか?

そうだ!

あげるよ、僕のものでよければ?」

 

「ありがとうございます。

でも、エコバッグがあるので、それで十分です」

 

「財布も新しいものがいるよね」

 

「そうなんですよねぇ。

中身よりお財布の方が高かったんですよ。

買わないといけませんね...」

 

民ちゃんのその言葉に、お財布を贈ろうと心に決めた。

 

次の休みに、民ちゃんを連れだして好きなものを選んでもらおう。

 

民ちゃんに何かを贈りたいとずっと思っていたから、いい口実ができたと喜んだのもつかの間。

 

あ...!

 

次の休みと言えば、民ちゃんの引っ越しの日じゃないか。

 

もう、その日が来てしまうんだ。

 

民ちゃんは僕の家を出て行ってしまうのか。

 

ここにいるのもあと2日しかないのか。

 

のん気に財布を贈ろうなんて、計画している場合じゃない。

 

 

 

 

「ユン...じゃなくてユンさんは、どんな風だ?」

何かいやらしいことされていないか?」

 

夕食後のTVタイム。

 

僕はビール、怪我のためアルコールがNGな民ちゃんはマンゴージュースを飲んでいた。

 

話したいことは本当は別にあるのに、口火を切るきっかけが作れない僕は、ユンのことを尋ねていた。

 

「まさか!」

 

僕の突然の質問に、きょとんとした顔だ。

 

ユンが民ちゃんの顎に触れたあの指、計算づくの行動だと分かった。

 

民ちゃんは気付いていないだろうけど、ユンは民ちゃんに気があるんだよ。

 

ユンは多分、男もいける口だから、民ちゃんなんか恰好の餌食なんだよ。

 

でも。

 

ユンの気持ちもよく分かる、と思った。

 

ぱっと見は男そのものなのに、思考や話し言葉、仕草が女で(民ちゃんは女の子だから当然だけど)、それなのに、カマっぽいのとは違うんだ。

 

民ちゃんは自分に似合うものをただ着ているだけだし、女っぽくみせようと無理もしていない。

 

のびやかに自然体なんだ。

 

ところが、不意打ちに無意識の色気を出してくるから、それにあてられる。

 

「ユンさんは、どんな人?」

 

「えーっと...よく分かりません...」

 

「どういう意味?」

 

「びしっと決めた外の顔しか見たことがありませんから。

だから、大人で成功していて、才能がある人だとしか言えません」

 

同じような台詞を前にも聞いたことがあった。

 

「年上の人が好きなの?」

 

曖昧にぼかして尋ねてみた。

 

「そんなつもりはないのですが。

私を、ありのままの私を褒めてくれた人が、たまたま年上の人だったってことで。

褒められてすぐにその気になっちゃうなんて、つくづく単純ですね」

 

民ちゃんは今、誰を思い浮かべて語っているのだろう。

 

上司であるユンのことなのか、それとも『例の彼』のことなのか。

 

どちらについて語っているのか分からなかった。

 

民ちゃんが突然、パチンと手を叩くから驚いて飛び上がった。

 

「はい!

ユンさんの話はこれでおしまいです!

そんなことより!

私...チャンミンさんに聞きたいことがいっぱいあるんです」

 

「きたか」と覚悟した。

 

民ちゃんが何を尋ねたいのか、わかっていた。

 

「聞きたいことって、何?

何でも答えるよ」

 

「チャンミンさんは私に説明する義務はありませんし、

そのことをチャンミンさんに質問する権利は私にはありません。

単なる私の子供っぽいヤキモチなんです」

 

「民ちゃんがヤキモチ?

どうして?」

 

少し嬉しくてとぼけたフリをした。

 

民ちゃんに質問されるまま、全部説明しようと考えたのだ。

 

民ちゃんのことだ、細かく質問してくれるだろう、と。

 

ところが。

 

「チャンミンさん。

今日も頭を洗ってくれてありがとうございます」

 

話題が変わってしまった。

 

「大したことないよ。

民ちゃんがここに来る時に、Tから任されていたから。

やるべきことをやったまでだよ」

 

僕が言いたいのはそんなことじゃないのに。

 

「チャンミンさんとの『恋人ごっこ』楽しかったですよ」

 

「僕も楽しかったよ」

 

「これが現実だったら、すごいなぁと思いました。

チャンミンさんが本当の彼氏だったら、楽しいだろうなぁ、って。

どうしてなのか...チャンミンさんはわかりますか?」

 

「それは...」

 

民ちゃんの顔が今にも泣き出しそうで、うろたえてしまった僕はうまく言葉が紡げない。

 

「でも、そういう訳にもいきませんし、ね?」

 

「え...」

 

「チャンミンさんにはリアさんがいるし、リアさんのことを大事にしなくちゃならない時ですよね?」

 

「違うんだ」

 

普段のんびりとした話し方の民ちゃんが、口をはさむ隙のない早口だった。

 

「チャンミンさんはリアさんのことを大事にしなくっちゃ!

リアさんのことを放っておけませんよね?」

 

民ちゃんは透き通った美しい1対の目で、まっすぐ僕を見ていた。

 

ここは頷くべきなのか。

 

リアは浮気をしていたこと。

 

妊娠騒ぎも僕が関与しないことだったこと。

 

はっきりと否定して、民ちゃんの誤解を解くべき時だったんだと思う。

 

どんな言い方であれ、責任逃れの言葉に聞こえてしまったとしても。

 

でも、一瞬の間に浮かんだ「無責任な男には思われたくない」との思いが、絶好の機会を失わせてしまった。

 

民ちゃんが与えてくれた、言い訳のチャンスを僕は自ら逃してしまったのだ。

 

後になって、この時の自分を悔やんだ。

 

心の底から。

 

 

(つづく)

 

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