~チャンミン~
民ちゃんのアパートは、この角を曲がってコンビニエンスストアを2軒通り過ぎた先。
実際に歩いてみると、僕の部屋と民ちゃんの部屋とを隔てる距離の近さに、笑えた。
小走りだと5分もかからない。
こんなに近いのに、今日になるまで訪ねていかなかった僕も僕だ。
ストーカーまがいに近所に引っ越してきたりしてさ。
門扉を抜けて建物を見上げたが、民ちゃんの部屋は反対側で、明かりが灯っているかはここからは分からない。
3つ並んだドアの一番端が、民ちゃんの部屋だ。
「よかった...」
ドアノブにひっかけておいた紙袋がなくなっていた。
「ふう...」
緊張で早い鼓動をおさめようと息を整えた僕は、インターフォンのボタンを押す。
最初に何を言おうか。
「こんばんは」と挨拶して、「元気そうだね」と言って。
迷惑そうな顔をするかな。
それとも、「わあ、チャンミンさん」って笑ってくれるかな。
民ちゃんは部屋にあげてくれるかな...玄関先の会話で終わってしまうかもしれないな。
でもいいや、民ちゃんの顔が見られるなら。
こんな気持ち...10代以来じゃないだろうか。
民ちゃんを前にすると、僕は思春期に戻ってしまうのだ。
胸の鼓動はますます速くなっていくばかりで、僕は何度も深呼吸をした。
「?」
反応がない。
ドアの横の窓はバスルームのもので、室内に明かりが灯っているかどうかは確認できない。
一旦帰宅してから、また出かけたのだろうか。
もう一度、インターフォンを鳴らしたが、応答はない。
訪ねてきたのが僕だと知って、居留守を使っているんじゃないだろうな、とインターフォンのカメラのレンズを睨みつける。
民ちゃんは僕に会いたくなくても、今夜の僕は、何がなんでも民ちゃんに会うのだ。
待て。
訪ねていく前にまずは電話だろう?
初歩的なことに今になって気付いた。
秋半ばの夜、かじかむ指、緊張で震える指、民ちゃんのアドレスをタップする。
早鐘のように心臓は胸を叩く。
着信音が7回鳴ったところで、『チャンミンさん?』と民ちゃんの声。
「......」
言葉が出てこなかった。
50日間、聞きたくてたまらなかった、女性のものにしては低い男のものにしては高い声だ。
ところが...。
『チャンミンさん!!』
民ちゃんの怒鳴り声に、僕は携帯電話を耳から離してしまった。
『どういうことですか!!!』
「...民ちゃん?」
民ちゃんが怒ってる。
会いたくないからさっさと帰れと、部屋の中から言っているのだろうか。
「ごめん...民ちゃんはどうしてるかな、と思って...」
『どうもこうもしてますよ!!!』
「急にごめんな...迷惑だったね。
すぐに帰るから」
民ちゃんは『帰るって?』と、きょとんとした言い方をしたから、外出中なんだろうと思った。
よかった。
「あっちいけ」と部屋の中から拒絶している訳じゃなかった。
「今、民ちゃんちの前にいるんだ」
『はあぁぁぁ?
なぜですか!』
「えっと...。
それは...」
照れや臆病さが前面に出そうになったが、ぐっと腹に力をこめた。
「...民ちゃんに会いたかったから」
すうっと息を吸う音が、耳元から聴こえる。
「民ちゃんに会いに来たんだ。
急でゴメン。
でも、今すぐ会いたかったんだ」
『......』
僕は固唾を飲んで、民ちゃんの返事を待つ。
「今から...会える、かな?
あ、でも出かけてるんだよね?
先約があるんだよね。
ごめん。
電話すればよかったね。
突然、ごめん。
ほら、民ちゃんと一緒に部屋を決めただろ。
だから、住所を知ってるんだ。
部屋まで来てごめん。
じゃ...帰るから。
ホントにゴメンな」
緊張を隠すため、僕は矢継ぎ早に謝罪と言い訳の言葉を重ねる。
『チャンミンさんの...』
押し殺したような民ちゃんの声。
「うん?」
『馬鹿!』
「!!!」
『チャンミンさんの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!!』
民ちゃんが怒る理由がわからず、僕は彼女の大声にタジタジとなっていた。
『今すぐ帰りますから、そこに居てくださいよ!』
「う、うん」
『帰ったら駄目ですよ!』
「もちろん」
『一旦、切りますよ。
そこを動かないでくださいね』
「分かった」
民ちゃんの剣幕にタジタジだった。
民ちゃんの怒鳴り声は初めてだ。
乱暴な言い方なのに、可愛らしかった。
民ちゃんが何に腹を立てているのか、さっぱり分からなかったけれど、僕はほっと深く息を吐く。
「ふう...」
玄関ドアに付けた背中をずりずりと滑らせて、廊下に座り込んだ。
このため息は、さっきまでの不安をおさめるものじゃなくて、幸せに満ちた吐息だ。
(つづく)
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