(96)NO?

 

 

~チャンミン~

 

民ちゃんのアパートは、この角を曲がってコンビニエンスストアを2軒通り過ぎた先。

 

実際に歩いてみると、僕の部屋と民ちゃんの部屋とを隔てる距離の近さに、笑えた。

 

小走りだと5分もかからない。

 

こんなに近いのに、今日になるまで訪ねていかなかった僕も僕だ。

 

ストーカーまがいに近所に引っ越してきたりしてさ。

 

門扉を抜けて建物を見上げたが、民ちゃんの部屋は反対側で、明かりが灯っているかはここからは分からない。

 

3つ並んだドアの一番端が、民ちゃんの部屋だ。

 

「よかった...」

 

ドアノブにひっかけておいた紙袋がなくなっていた。

 

「ふう...」

 

緊張で早い鼓動をおさめようと息を整えた僕は、インターフォンのボタンを押す。

 

最初に何を言おうか。

 

「こんばんは」と挨拶して、「元気そうだね」と言って。

 

迷惑そうな顔をするかな。

 

それとも、「わあ、チャンミンさん」って笑ってくれるかな。

民ちゃんは部屋にあげてくれるかな...玄関先の会話で終わってしまうかもしれないな。

 

でもいいや、民ちゃんの顔が見られるなら。

 

こんな気持ち...10代以来じゃないだろうか。

 

民ちゃんを前にすると、僕は思春期に戻ってしまうのだ。

 

胸の鼓動はますます速くなっていくばかりで、僕は何度も深呼吸をした。

 

「?」

 

反応がない。

 

ドアの横の窓はバスルームのもので、室内に明かりが灯っているかどうかは確認できない。

 

一旦帰宅してから、また出かけたのだろうか。

 

もう一度、インターフォンを鳴らしたが、応答はない。

 

訪ねてきたのが僕だと知って、居留守を使っているんじゃないだろうな、とインターフォンのカメラのレンズを睨みつける。

 

民ちゃんは僕に会いたくなくても、今夜の僕は、何がなんでも民ちゃんに会うのだ。

 

待て。

 

訪ねていく前にまずは電話だろう?

 

初歩的なことに今になって気付いた。

 

秋半ばの夜、かじかむ指、緊張で震える指、民ちゃんのアドレスをタップする。

 

早鐘のように心臓は胸を叩く。

 

着信音が7回鳴ったところで、『チャンミンさん?』と民ちゃんの声。

 

「......」

 

言葉が出てこなかった。

 

50日間、聞きたくてたまらなかった、女性のものにしては低い男のものにしては高い声だ。

 

ところが...。

 

『チャンミンさん!!』

 

民ちゃんの怒鳴り声に、僕は携帯電話を耳から離してしまった。

 

『どういうことですか!!!』

 

「...民ちゃん?」

 

民ちゃんが怒ってる。

 

会いたくないからさっさと帰れと、部屋の中から言っているのだろうか。

 

「ごめん...民ちゃんはどうしてるかな、と思って...」

 

『どうもこうもしてますよ!!!』

 

「急にごめんな...迷惑だったね。

すぐに帰るから」

 

民ちゃんは『帰るって?』と、きょとんとした言い方をしたから、外出中なんだろうと思った。

 

よかった。

 

「あっちいけ」と部屋の中から拒絶している訳じゃなかった。

 

「今、民ちゃんちの前にいるんだ」

 

『はあぁぁぁ?

なぜですか!』

 

「えっと...。

それは...」

 

照れや臆病さが前面に出そうになったが、ぐっと腹に力をこめた。

 

「...民ちゃんに会いたかったから」

 

すうっと息を吸う音が、耳元から聴こえる。

 

「民ちゃんに会いに来たんだ。

急でゴメン。

でも、今すぐ会いたかったんだ」

 

『......』

 

僕は固唾を飲んで、民ちゃんの返事を待つ。

 

「今から...会える、かな?

あ、でも出かけてるんだよね?

先約があるんだよね。

ごめん。

電話すればよかったね。

突然、ごめん。

ほら、民ちゃんと一緒に部屋を決めただろ。

だから、住所を知ってるんだ。

部屋まで来てごめん。

じゃ...帰るから。

ホントにゴメンな」

 

緊張を隠すため、僕は矢継ぎ早に謝罪と言い訳の言葉を重ねる。

 

『チャンミンさんの...』

 

押し殺したような民ちゃんの声。

 

「うん?」

 

『馬鹿!』

 

「!!!」

 

『チャンミンさんの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!!』

 

民ちゃんが怒る理由がわからず、僕は彼女の大声にタジタジとなっていた。

 

『今すぐ帰りますから、そこに居てくださいよ!』

 

「う、うん」

 

『帰ったら駄目ですよ!』

 

「もちろん」

 

『一旦、切りますよ。

そこを動かないでくださいね』

 

「分かった」

 

民ちゃんの剣幕にタジタジだった。

 

民ちゃんの怒鳴り声は初めてだ。

 

乱暴な言い方なのに、可愛らしかった。

 

民ちゃんが何に腹を立てているのか、さっぱり分からなかったけれど、僕はほっと深く息を吐く。

 

「ふう...」

 

玄関ドアに付けた背中をずりずりと滑らせて、廊下に座り込んだ。

 

このため息は、さっきまでの不安をおさめるものじゃなくて、幸せに満ちた吐息だ。

 

 

(つづく)

 

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