会社員
恋の媚薬編
俺の友人の一人に、やたら呪術に詳しい奴がいる。
そいつの名前はウメコと言うが、男だ。
高校生の時、ふざけてつけたあだ名が定着してしまい、脱サラして始めたバーの名前も「ウメコ」だ。
仕事帰りの一杯に、初めてチャンミンを誘い、こうして今、『ウメコ』のカウンター席についている。
店を入って右手に3メートルほどの長さのカウンターがあるきりの、こぜまい店だ。
だから自然と、並んで座るとチャンミンと肩が触れ合わんばかりの距離になる。
「なんだか...ワクワクしますね」
物珍しそうに店内を見回し、正面の棚にずらりと並ぶ酒瓶の種類に目を輝かせている。
その中にトカゲやらヘビやらが漬け込んであるのを見つけて、チャンミンの表情が曇った。
オフィスに居る時には見られないチャンミンの表情。
眉を上げたり下げたり、口をぽかんとしたり、唇をゆがめたり。
まるで百面相だ。
しわひとつないシャツ、よく磨かれた革靴。
アイロンをかけたハンカチで額の汗を拭いている。
この店は暖房がきき過ぎていて、暑い。
俺もチャンミンもスーツのジャケットを脱いで、ワイシャツ姿になっていた。
清潔に折り目正しく身なりを整えたチャンミンは、きっちりと刈り上げた後ろ髪や7:3に分けて撫でつけたヘアスタイルのせいで、どこか野暮ったく見える。
女子社員たちは、こんな堅物そうなチャンミンを誰も相手にしていない。
几帳面に書類棚を分類し、誤字脱字にうるさいチャンミンを、陰で馬鹿にしている奴もいるくらいだ。
でも、俺は...。
カウンターに乗せられた、神経質そうな細い指に自身の指を絡めたいと、思っていた。
整髪料で濡れたように光るこの髪が...洗いっぱなしの髪になって、秀でた額を覆うのを見てみたい、と思った。
小さく吹き出したら、「ん?」と横を向いたチャンミン。
カウンター上で揺らめくロウソクの炎が、チャンミンの顔の凹凸をなめるようにゆらゆら照らす。
俺が笑っている理由が分からずきょとんとしたチャンミンの、幼さない印象を与える丸くて大きな目から、目が離せずにいた。
俺はこの男が好きだ...と、この夜はっきりと確信した。
この春、配属された課でチャンミンと出会った。
課員の前で自己紹介した際、一番後ろに立っていたのがチャンミンで、やたら綺麗な顔をしてるなと、まず最初にそう思った。
俺より背が高いくせに、それが癖なのか覗き込むように上目遣いなんだ。
俺は営業スタッフで、一日の大半が外回りだ。
一方、チャンミンは営業事務で、オフィスで俺たち外回り隊のサポートに回っている。
得意先からの連絡を正確に聞き取り、見積書の数字の間違いを見つけ、俺の書きなぐった受注書の解読が得意だった。
商品名と品番をすらすらと諳んじられるチャンミンは、課内の生きるデータベースだった。
チャンミンから業務連絡の電話がくるのを心待ちにしている俺がいた。
そう。
つまり俺は、チャンミンにいつの間にか恋をしていた。
どこに惹かれたのだろう。
この時だ、とはっきり言えない。
いつの間にか、と言った方が正確だ。
・
アポイントメントがドタキャンされ、午後からの予定がすっかりなくなった俺は、半日早くオフィスに戻った。
細い上半身を折り曲げ、猫背になって何か書き物をしていた。
俺の気配に気づいて、顔を上げた。
後ろに流した前髪の一筋が、はらりとチャンミンの額に落ちた。
たったそれだけで、目元に憂いを作った。
この時だったかな?
瞬時に、こいつの素の顔を見てみたい欲求が生まれたんだ。
会社では垢抜けない堅物君を装っているが、プライベートでは違うのかもしれない、と。
気付かないうちに、俺はチャンミンのことを日々観察していたらしい。
毎日、判を押したようにネイビーのスーツに白シャツ姿なのに、ネクタイが毎日異なっていることに気付いていた。
(俺は、ファッションには割とうるさい方だから)
課の者たちの目は節穴なのか?
男の俺から見てもほれぼれするほど、いい男なのに?
・
昼前に帰社した俺に、チャンミンは上目遣いで
「ユンホさん。
早いですね」
と言った。
歳はほとんど変わらないのに、チャンミンは俺のことをさん付けで呼び、敬語での話し言葉を決して崩さない。
「堅苦しいんだよ。
もっとくだけた話し方はできないのか?」と言ったことがあった。
そうしたら、
「ここは職場です。
社会人たるもの、最低限のマナーは必要です」
と、言い切った。
あまりに自信たっぷりな言い口に、「了解」と答えるしかなかった。
内心、「面白い奴だ」と見直した。
出張土産に菓子を配った時、課員には1つずつ、チャンミンにはジョークのつもりでひと箱まるごとくれてやった。
「僕は甘いものは苦手なんです」
「そっか...」とがっかりした顔をしたら、俺の手からそれをもぎとった。
「ユンホさんの好意を無駄にするわけにはいきませんから」
「でも、甘いものは嫌いなんだろ?」
「嫌い、とは言っていません。
どちらかというと辛い物が好きなだけです。
頂戴します」
そう言って、休憩時間に丁寧にドリップしたコーヒーとともに(給湯室にチャンミン専用のコーヒーメーカーがあるんだ。ウケるよ)、もぐもぐと俺がくれた菓子を頬張っていて、その後ろ姿を可愛いと思った。
チャンミンに近づきたくても躊躇してしまうのは、男同士だからだ。
事務椅子に腰かけたチャンミンの膝が内股気味で、「そっち系かな?」と、嬉しがる自分がいた。
「ユンホさん。
この得意先、売掛金が3か月溜まっているみたいです」
「え、マジで!?」
「はい。
経理に確認してみましたから。
だから、注文は受け付けない方がいいかも、です」
ファックスで届いたばかりの発注書をひらひらとさせた。
どれどれと内容を確認しようと身をかがめた時、同じタイミングで頭を下げたチャンミンと額をゴツンとやってしまった。
「いてて」と額をさすりながら顔を上げた時、やはり同じタイミング俺を見たチャンミンと間近で目が合った。
真ん丸になった目から目を反らせないままでいると、
「ユンホさん...なんですか?」
すっと視線を落として、
「ジロジロみないでください」と頬を赤くした。
・
俺がチャンミンに惹かれ出した頃の話は、この辺にしておこう。
俺が提出した書類の不備をいち早く見つけ、「どこ?訂正するよ」と慌てると、「僕が直しておきました」とくる。
礼を言うとついと視線を反らして、つかつかと自分のデスクへ戻ってしまう。
その後頭部の髪がはねていたり、ワイシャツの裾がはみ出していたりと、抜けている一面を見つけてしまったりして。
俺が言いたいことは、チャンミンが気になる存在だ、ということ。
おでこゴッチン事件を契機に、チャンミンは俺と目が合うたび耳を赤くする。
「ユンホさん!
字が汚すぎます!」
「悪い。
書き直すよ」
手を伸ばすが チャンミンは手渡さない。
「僕が直しておきましたから。
ユンホさんの字を読めるのは、僕だけですね」
「え?」
「毎日見てたら、自然とそうなるに決まってるじゃないですか!」
「......」
「なんですか?
何か変なコト、言いましたか?」
「いいや、全然」と首を振った。
変なコトどころか、嬉しいコトだよ。
そして俺は、誘っていた。
「今夜...飲みに行かないか?」
実はその日、朝から誘うタイミングをはかっていたんだ。
「面白い店があるんだ。
あ...もしかして飲めない、とか?
今夜だなんて急だよな、予定有るよな?
いいよ、また今度で」
無言で突っ立ったままのチャンミンの様子に、耐えきれなくなって俺はそそくさと結論づけてその場を立ち去ろうとした。
同僚を飲みに誘う程度のことで、どうしてここまで緊張するんだよ。
意識しすぎだろ。
「悪ぃ、今夜は無理だわ」「じゃ、またな」なんてやり取り、当たり前のことじゃないか。
第一印象通り、チャンミンはどちらかというと内向的なキャラで、声が大きく賑やかな営業部内で浮いている。
オンオフのけじめをはっきりつけてそうなキャラだと判断していた。
プライベートな時間まで、顔を出したら駄目か...と諦めた。
「行きます」
「え?」
予想もしない返事に、俺はゆっくりと振り返った。
「いいの?」
「もちろんです」
小首をかしげたチャンミンが、可愛らしく見えた。