(2)会社員-恋の媚薬-

 

 

「汚い店で悪いな」とチャンミンに謝る。

 

「『汚い店』だなんて、ひどいわね」

 

カウンターの中で、オーナー兼マスターのウメコが俺を睨みつける。

 

レトロな花柄シェードの照明がぶら下がるだけの、ムードづくりの度を超える暗さだ。

 

だから、かなり顔を近づけないと、隣のチャンミンの表情がうかがえない。

 

「あらぁ、ユノぉ。

だぁれ?

この可愛い子ちゃんは?」

 

カウンター向こうから身を乗り出すウメコに向かって、俺はしっしと手を振る。

 

「汚い顔を近づけるなって。

同僚なんだ。

チャンミンって言うの」

 

「初めまして。

チャンミンです」

 

とチャンミンは、いつもの上目遣いになって頭を下げる。

 

「ひどいわね。

よろしくぅ」

 

ウメコがくいくいと人差し指を曲げて、俺を呼んでいる。

 

「なんだよ?」とカウンター内に身を乗り出すと、

 

「あの子...ユノの『いい人』?」

 

ドキリ、とした。

 

「はあぁぁ?

違うって」

 

図星だったが、否定した。

 

チャンミンに聞かれたんじゃないかって、焦ったから。

 

ウメコは鋭い奴だから、俺のごまかしは通じないってことは分かってたけど。

 

「あらぁ、ホントに?

いよいよあんたも、目覚めたのかと思って、拍手喝采なのに」

 

「ホントに違うって!」

 

「ふぅん。

チャンミンくぅん」

 

「おい!

『くぅん』ってなんだよ!」

 

きょろきょろと周囲を見回していたチャンミンは、名前を呼ばれて「は、はい!」と答える。

 

「何飲む?

何食べたい?」

 

「え...っと、何でも」

 

「何でも、ってのが一番困るのよねぇ...」

 

「じゃあ...ビールで」

 

チャンミンはまるで迷子センターに連れられてきた子供のように、猫背でスツールに座り、グラスの中身をすすりながら、ちらちらと俺の方を見る。

 

上目遣い。

 

可愛いんだけど...。

 

可愛いんだけど、まくり上げた袖から伸びる腕が意外に筋肉質で、そのギャップにやられる。

 

「汚い店でびっくりしただろ?」

 

「ちょっと!

何度も『汚い』って言わないでよ!」

 

ウメコに頭をはたかれた。

 

「あの...メニューは?」

 

「うちにはメニュー表はないの。

食べたいものがあれば言ってね、作るから」

 

「え...と、それじゃあ」

 

遠慮がちな言い方なくせに、あれこれと注文するチャンミン。

 

ますます面白い奴だな、と思った。

 

「あら、大変。

卵を切らしたみたい」

 

冷蔵庫に首を突っ込んでいたウメコは、

 

「ユノ。

ちょっと卵を買ってきてくれないかしら?」

 

「はあ?

客に買い出しに行かせるつもりかよ?」

 

「同級生でしょう?

お願いよ。

卵がなくっちゃ、オムレツが作れないじゃなのぉ」

 

「う...」

 

「お願い。

近くにコンビニがあるでしょ?」

 

ド派手なマニキュアといくつも指輪をはめた手から、紙幣を握らされた。

 

「ついでにケチャップも買ってきてね」

 

「前もって買っておけよな!」

 

チャンミンを一人残していくのが心配になって、チャンミンに視線を向けると、

 

「行ってらっしゃい」としれっと言うじゃないか。

 

ゴリゴリの女装した男然としたウメコと、1対1になるんだぞ。

 

平気なのか?

 

もっと不安そうにしろよな。

 

チャンミンは、意外と肝が据わった奴なのか、それとも俗にいう「天然ちゃん」なのかのどちらからしい。

 

オフィスでは見ることができない、素のチャンミンをひとつ知れたみたいで嬉しかったのは事実だ。

 

 


 

ムッとするくらい暑い店から1歩出ると、ぴゅっと北風が吹き付けて、俺はコートの襟をかき合わせた。

 

オフィスのチャンミンは融通のきかないしっかり者で、事務作業を面倒がる俺の世話役となりつつある。

 

ところが、オフィスを離れたチャンミンは、封印していた伸びやかな素直さ、みたいなものを発揮し出してきた。

 

調子が狂う。

 

調子が狂うが、じんと胸の奥が温まる。

 

ウメコはハンサムな男が好きだから、早く戻らないと。

 

チャンミンの細くて長い指を撫でまわしていそうだから。

 

それにしても...さすがウメコ。

 

一発で見破ったか。

 

俺がチャンミンに気があることを。

 

「はぁ...」

 

通りを1本渡った向こうのコンビニエンスストアに向かって、俺は走り出した。

 

 


 

 

「買ってきたぞ!」

 

ウメコに買い物袋を突きつけて、俺はどかっとスツールに腰を下ろした。

 

「おかえりなさい」

 

行儀よく膝を揃えてスツールに座るチャンミン。

 

カウンターの上には、ビール瓶が1本空になっている。

 

ピッチが速すぎやしないか?

 

「あちー」

 

走ってきたから暑くて仕方なくて、むしるようにコートを脱ごうとしたら、背後にまわったチャンミンの手ずから、スマートに脱がされた。

 

「サンキュ」

 

チャンミンは俺のコートを丁寧にハンガーにかけると、壁のフックに引っかけた。

 

一連の行動にじわっと感激していたら、チャンミンは照れたように俯いてしまった。

 

チャンミンの日頃の仕事ぶりを見てきたから、こうした気の利いたことをさらっと出来てしまうのも不思議ではない。

 

甲斐甲斐しい感じがして胸がこう...キュッとときめいたのだ。

 

「これでオムライスが作れるわ」

 

楽しそうに歌うようにウメコは言って、買い物袋から卵とケチャップを取り出している。

 

「オムレツじゃなかったのかよ?」

 

「チャンミンくんがね、お腹がペコペコっていうからぁ。

米ものにすることにしたのぉ」

 

「はいはい」

 

ウメコから炭酸ジュースを手渡され、俺は一気飲みする。

 

すっかりくつろいだ風のチャンミンは、塩水にさらしてしんなりとさせた千切り大根を口に運んでいる。

 

手酌でビールを注いでいたから、チャンミンの手からそれを奪って彼のグラスになみなみと注いでやった。

 

「ありがとうございます」

 

チャンミンは小さく会釈をして、上目遣いでじっと俺を見る。

 

グラスをうやうやしく持つ揃えた指、短く切られた爪。

 

清潔な、神経質そうな指。

 

女の手のようで、でも男そのものの骨ばった手の甲。

 

この手が俺の...、俺の...。

 

おい!

 

何を想像してるんだ!?

 

「そうそう!」

 

ウメコが突然上げた大声に、俺は飛び上がる。

 

「いきなりデカい声を出すなって!」

 

弾みで倒してしまったチャンミンのグラスを、床に落ちる寸前でキャッチした。

 

「すみません、ユンホさん...」

 

チャンミンのスラックスがこぼれたビールで濡れてしまい、お手拭きで拭ってやる。

 

ビールの染みはチャンミンの脚の付け根あたりまで広がっている。

 

「染みになるかな...」

 

「あの...ユンホさん...自分でやりますから」

 

両膝をこすりつけるようにもじもじしているチャンミン。

 

「悪い!」

 

男同士とはいえ、股間の近くをゴシゴシやるのは恥ずかしいよな。

 

「あたしね、呪術に凝ってるってこと知ってるよね」

 

ウメコが、でかいタンブラーに注いだワインをがぶ飲みしながら言う。

 

「いつものか?」

 

うんざりした表情で俺は答える。

 

「新作が出来たの」

 

「ふうん」

 

俺は聞き流す。

 

ウメコは学生時代から魔術ものに目がない。

 

級友の俺は、その被害者第1号だ。

 

奇妙奇天烈な呪文やお供物はまだマシな方で、怪しげな(妖しい、じゃない。『怪しい』だ)液体や丸薬を作っては、俺を実験体にする。

 

「ユンホさん!」

 

腕を揺らされ、ハッとして横を見ると、チャンミンが目配せをしている。

 

ウメコの話をちゃんと聞け、という意味らしい。

 

アルコールのせいで、上気した頬がつやつやとしている

 

堅苦しかった雰囲気が、くつろいだものに変化していた。

 

「でね、出来上がったものがあるから、試して欲しいの」

 

ニヤリと笑ったウメコは、カウンター下から小瓶を取り出した。

 

そして、ショットグラスに満たされたのは、瑠璃色の液体。

 

何で出来ているのか想像はしたくないが、色だけは綺麗だ。

 

「飲んでみて」

 

「やなこった」

 

思い切り顔をしかめた。

 

「甘くて美味しいのよ」

 

「じゃあ、チャンミン君が飲んでくれる?」

 

俺に無視されたそのグラスを、ウメコはチャンミンの方へ滑らした。

 

「ウメコ!

チャンミンに不気味なものを飲ますなって!」

 

「じゃあ、ユノが試してみなさい」

 

「うっ...」

 

「あの!

僕も飲みます!」

 

「えっ!?」

 

隣を振り向くと、チャンミンは目を輝かしていた。

 

「やめとけチャンミン。

腹を壊すかもしれないんだぞ?」

 

「面白そうじゃないですか。

甘くて美味しいんですって」

 

「ね?」っというように、小首をかしげて俺をみるから、「う...可愛い」と心の中でつぶやく。

 

「そうよぉ。

カクテルだと思って、ね?

召し上がれ」

 

意固地になって拒絶し続けるのもカッコ悪いよな、と、俺はグラスをつかむと一気に煽った。

 

うす甘い液体が、喉をすべり落ちていく。

 

とろっとした喉ごしで、フルーティで、確かに美味い。

 

美味いが...。

 

「チャンミン君もどうぞ」

 

「いただきます」

 

ウメコに差し出されたグラスを受け取ると、チャンミンは両手を添えてくいっと傾ける。

 

ぴんと揃えた両指といった所作が、女っぽく色っぽくて、かといってカマっぽくなくて、ウメコの目も忘れて見入ってしまった。

 

伏し目にしたまつ毛の奥で、チャンミンの瞳が艶やかに光っている。

 

「美味しいですね。

何が入っているのですか?」

 

答えが知りたいと言った風に、ワクワクとした口調だった。

 

「ところで、『これ』はなんなの?」

 

知りたくはないが、お義理で俺も尋ねる。

 

ウメコは俺とチャンミンを交互に見る。

 

「二人同時に飲むと、相思相愛になるドリンク」

 

「はあぁぁぁ?」

 

とんでもないものを飲まされてしまった。

 

 

 

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