(18)僕を食べてください★

 

だらしなく下半身をさらした僕は、しばらくの間、馬鹿みたいに呆けていた。

 

自分のしでかしたことに、茫然としていた。

 

頬を涙で濡らしたキキは、枯草の上で横たわったままだった。

 

罪悪感に浸る前にすることがあるだろう?

 

むしりとるようにして脱がせたキキの下着を拾い上げ、彼女の脚に片方ずつ通してやった。

 

キキの白い脚は力が抜けていて、まるで人形のようだった。

 

脚のつけ根から、僕が放った精液がたらりとこぼれる。

 

拭きとってあげたかったが、適したものを何も持ち合わせておらず、申し訳なくてたまらない僕は仕方なく手の甲でぬぐった。

 

黒のパンツは細身だったため、履かせるのに苦労したが、その間キキは僕にされるがままで、その表情もうつろだった。

 

キキが欲しくてたまらなかった僕は、手中におさめるために、キキを貶めた。

 

キキの獲物だった僕が、キキを獲物にしてしまったのだ。

 

「?」

 

 

キキの様子が変だ。

 

まぶたを半分落とし、軽く開いた唇も紙のように真っ白だった。

 

「キキ?」

 

肩をゆさぶったら、見下ろす僕と目を合わせ、「...チャンミン?」とぼそりと言った。

 

「具合が悪いのか?」

 

「少し休めば、大丈夫だ」

 

キキの額に手を当てると、ぞっとするほど冷たい。

 

「病院。

病院に行こう!」

 

キキの首の後ろに腕を通して、抱き起す。

 

首が座っておらず、頭がぐらぐらと揺れた。

 

キキのうつろな眼は、さっき流した涙で潤み、碧く澄んでいる。

 

黒髪に青い瞳の組み合わせが人形めいていて、非常事態なのにも関わらず、胸をつかれるほど美しかった。

 

 

周囲を見渡す。

 

朝日が昇りかけており、見上げた木立の枝葉の間から白い光が差し込んできた。

 

それでも山中のここは薄暗く、ひんやりとした湿気に満ちている。

 

キキを抱いて林の中を抜けるのは難しい。

 

傾斜もきつく、地面から不意打ちに突き出た木の根に足をとられて、転倒する恐れがあった。

 

抱き上げかけたキキを、そっと地面に下ろす。

 

同じ場所に戻ってこられるよう、周囲の風景を記憶に刻む。

 

所有地の境界を印す蛍光ピンクのリボンがあそこに2本、木の幹に赤いスプレーでマークされた数字。

 

「キキ!

待ってて。

人を呼んでくるから」

 

「待て」

 

Tシャツの裾が引っ張られ、立ち上がりかけた僕は、キキの口元に耳を寄せた。

 

「どうした?」

 

「医者はいらない」

 

「いらないって...?

こんな状態で何を言ってるんだよ!?」

 

「チャンミン...」

 

 

「っつ!!」

 

 

耳朶にズキッっと痛みが走り、とっさにかばった指先がぬるりと濡れた。

 

「何するんだよ!」

 

耳朶をキキに噛まれたのだ。

 

デニムパンツで指を拭ってキキを叱りつける。

 

キキの唇が僕の血で赤く染まっている。

 

なまっちろい肌に血が付着したキキの顔が...映画やドラマで観たことがある光景...殺人被害者のようで、背筋がそくりとした。

 

 

まるで、僕がキキを殺したかのようで。

 

「!」

 

僕の手首がぎゅっとキキの手によって握りしめられた。

 

手首の骨がきしむほどの力だった。

 

半分閉じられていたキキの眼がかっと見開き、僕を射るように見据えられた。

 

あの時と同じだ...キキと出逢った日...キキに突き倒されて、あの時と同じように暗い墨色の目が僕を見上げていた。

 

一瞬の間、僕は金縛りにあったかのように、キキの瞳に囚われていたが、頭を振って現実に引き戻す。

 

「こんな時にふざけるなって!」

 

キキの手を振り切ろうと、手首をひいたらあっさりとその力は緩む。

 

「とにかく、人を呼んでくるから。

ここで待ってろ」

 

「......」

 

キキは視線をゆるめると、ぷいと僕から目を反らした。

 

まぶたが完全に閉じてしまった。

 

「すぐに戻って来るから!」

 

僕は素早く立ち上がると、一度だけ振り返ってキキの存在を確かめた後、斜面を下りて行った。

 

ここを真っ直ぐに下りると、確か処理場の裏手に出るはずだ。

 

ばあちゃんちと廃工場、処理場の位置は三角形を描いている、

 

棘草や笹の鋭い刃先が僕の腕を傷つける。

 

キキを失ってしまう恐怖心と焦燥、それから肉欲に目がくらんでいた僕は、キキを見ていなかった。

 

多分...昨日、河原へ行った時だ。

 

あの時から、キキは僕の力にあっさりと屈していたような気がする。

 

河原を出てからも、家へ帰れと言うキキの言葉を無視していた。

 

泣いてキキに取りすがった。

 

自分のことしか考えていなかった。

 

人間離れしたキキなら、僕のお願いを聞くことくらい大したことないと甘えていた。

 

 


 

最後の藪を突っ切って、半ば転げ落ちるようにして平坦な地面に下り立った。

 

鉄格子の中には、焦げ茶の獣がうずくまっている。

 

小さな黒い目と目を合わせないように、檻の前を通り過ぎた。

 

建物の表に回るとトラックが横付けしてあり、僕は安堵する。

 

Sおじさんがいた。

 

「おじさん!」

 

「おお!」

 

荷台へ荷物の積み下ろしをしていたSおじさんは、息せき切って駆けてくる僕に驚いた表情を見せた。

 

「どうした?

こんな朝っぱらから。

俺か?

なかなか罠にかからないから、米ぬかを追加しようと思ってな...」

 

「助けてください!」

 

僕の必死の形相に、Sおじさんの様子も真剣みを帯びてきた。

 

「チャンミン...お前、酷いぞ

それはお前の血か?」

 

Sおじさんの視線の先を見てギョッとした。

 

襟ぐりが血で汚れていた。

 

キキに噛まれた耳朶の傷から流れた血だ。

 

「えっと...枝をひっかけたんだと思います」

 

「助けて欲しい、って?」

 

Sおじさんに促された僕はここまで来た経緯を、荒い呼吸を整えながら説明したのだった。

 

 

キキが居る場所の説明をすると、近辺の林中に詳しいSおじさんは見当がついたらしく、僕に先んじて林の中に踏み入っていった。

 

僕はSおじさんを見失わないようについて行くのに必死だった。

 

厚く降り積もった杉葉は、スニーカー履きには滑りやすいし、半袖Tシャツといった軽装の僕は、来た時と同様にあちこち擦り傷を作った。

 

 

いた。

 

茶色い地面に、ぐったりと伏せたキキがいた。

 

生きているようには見えないくらい、全身の力が抜けてしまっていた。

 

「チャンミンは、落ちないよう後ろから支えてくれ」

 

Sおじさんがキキをおぶり、僕はキキの背中を手で支えながらの下山となった。

 

「なあ、チャンミン。

この子は、大学の友達だって?」

 

「う、うん」

 

まさか、本当のことは言えない。

 

「そうか...」

 

山歩きに慣れたSおじさんの足取りは頼もしく、処理場に着く頃には僕はただ後を追いかけるだけだった。

 

「おじさん!」

 

処理場内のステンレス台の上にキキを寝かすSおじさんの無神経さに、僕は驚愕して大声を出した。

 

くたりと横たわったキキが、まるで解剖を待つ死体のようだった。

 

「病院に連れて行かないと!

電話をかけないと!」

 

「電話はひいていないんだ」

 

「キキを車に乗せてってよ。

病院へ運ぼう!」

 

「チャンミン...」

 

Sおじさんが僕の名前を、低い落ち着いた声で呼んだ。

 

「こんなところに寝かすなんて!」

 

扇形に広がった羽のようなまつ毛だとか、目の下のどす黒い隈だとか、整った小さな鼻だとか、ステンレス台に広がる枯れ葉のついた長い髪だとか...何度もヤリまくった身体なのに、遠い存在に見えて、

 

キキが死んでしまう恐怖がせり上がってきた胸が、苦しくて仕方がない。

 

Sおじさんの表情が不気味だった。

 

小さいころから可愛がってくれて、両親の事故の時生き残った僕に涙した人とは別人だった。

 

「お前は家に帰れ...と言っても無理か。

そうだよな...」

 

「当たり前だ!

意味わかんないよ。

いいよ、僕が連れて行くから」

 

キキに飛びつく僕を、Sおじさんはがっしりとした腕で制止した。

 

「チャンミン、待て」

 

つぶやいたSおじさんは、しばらくの間宙をにらんで考えを巡らしていた。

 

「この子は、お前の何なんだ?」

 

「え...?」

 

「ただの友達か?」

 

「......」

 

「昨日一緒にいたが、向こうでもそうなのか?」

 

キキとは数日前に知り合ったばかりだ。

 

僕は首を左右に振った。

 

「こっちに来て仲良くなった...」

 

Sおじさんは僕の答えを聞くと、うーんと唸った。

 

「痛い目には、あっていないんだな?」

 

Sおじさんの言っている意味が理解できない。

 

「痛い目って...?

全然」

 

「ならいいんだが...。

お前も随分と、厄介なことに巻き込まれたな...」

 

「え?」

 

「この子に惚れたのか?」

 

一瞬で身体が熱くなった。

 

僕の言葉を聞くまでもなく、Sおじさんは僕の反応で理解したようだった。

 

「うーん...そうか。

そうなると、仕方がないな...」

 

「?」

 

パチンと、Sおじさんが急に大きく手を叩いたので、僕はビクッとした。

 

 

「『毒を食らわば皿まで』だ!

チャンミン、気を確かに持てよ。

この子を助けたいんだろ?」

 

「うん」

 

なんだかよくわからないが、必死だった僕は大きく頷いた。

 

 

不思議だらけのキキだった。

 

首をかしげることも多く、でもそれらの疑問は脇に置いていた。

 

謎めいていて不気味なことを一切無視できてしまうくらい、僕はキキに夢中だったからだ。

 

不思議が多いほど、キキの魅力が増していったから。

 

 

「逃げ出すなよ?

絶対に、だ」

 

「もちろん!」

 

 


 

 

その夜、僕はキキと交わっている夢を見た。

 

最初から夢だと分かっていた。

 

はるか彼方まで小金色の名前の知らない草が、小麦畑のように広がっており、その中にぽつんと池があった。

 

陽光眩しくて、水面は白く反射している。

 

手ですくうと、指の間から黄金色の水がゼリーのようにしたたり落ちた。

 

舐めると、メープルシロップのような甘い味がした。

 

粘性の高い、とろっとした液体が満ちたその池を、僕は全裸で泳いでいた。

 

ひとかきすると、腕や肩に温かいぬるみが肌を滑って気持ちがよい。

 

急に足首をつかまれ、僕はずぶずぶと池の底に引きずり込まれた。

 

口の中にとろとろのゼリーみたいな池の水が流れ込んで、僕はあっという間に窒息しそうになる。

 

このままでは溺れてしまうのかと覚悟していたら、いつまでたっても苦しさを感じない。

 

この蜜のような液体で僕の肺は充たされて、僕は呼吸をする必要がなくなった。

 

僕はこの蜜に取り込まれて、この池と一体となったのだ。

 

池底ではキキが、沈んでくる僕を待っていた

 

僕が底に着地すると、仰向けになった僕の上にキキは覆いかぶさった。

 

どちらからともなく、互いの唇を合わせ、貪るような深いキスを交わす。

 

僕らの口の中は池の水でいっぱいに満たされ、キキのキスも甘くて美味しい。

 

僕らの肌が密着してこすれあうと、ゼリーが肌の間を滑ってよだれを垂らしそうになるくらい気持ちがいい。

 

僕の上で裸のキキが、腰を揺らして踊っている。

 

池の水も温かく、キキの中も温かい。

 

キキの腰をつかんで真下に突き落とそうとすると、僕の手のひらがぬるりとキキの肌の上をすべる。

 

キキの方も両手を伸ばし、僕の両胸の上を往復させる。

 

キキの手のひらが何度も僕の乳首を刺激するから、僕はそのたびに喘ぎを漏らす。

 

キキの中で、僕のモノが膨れて固くなったのがよく分かる。

 

ああ、なんて気持ちがいいんだろう。

 

中も外もとろとろで、温かくて、これぞ恍惚の世界なんだ。

 

水中では腰を激しく早く動かせないから、グラインドさせて奥の奥、行き止まりまでぐりぐりと攻める。

 

キキの中から引き抜いた僕のものは、最後キキの小さな手でやや強いくらいにしごかれて、彼女の手の中で僕は果てた。

 

僕を見下ろしていたキキは、僕から手を離すとその姿が小さくなっていく。

 

キキの身体が水面にむかって上昇していっているのだ。

 

慌てて僕もキキの後を追う。

 

ふわりと浮くから、大した苦労もせずぐんぐん上昇していける。

 

とろっとした水面から頭を出すと、沈む前に見たのとは景色が違っていた。

 

 

辺りは薄暗く、見上げた空が灰色の雲に覆われている。

 

空気は鳥肌がたつほど冷えている。

 

キキの姿が消えていた。

 

先ほどまでの、幸福と快楽で満ち足りていた僕の心が、しんしんと冷えていき、胸が詰まりそうな怯えが這い上がってきた。

 

濡れた顔を両手で拭って、その手を目にして僕の喉から声にならない悲鳴が漏れた。

 

両手が真っ赤だった。

 

水面から出た僕の腕や肩、胸をみると、真っ赤な水で濡れていて、一瞬のうちに恐怖で凍り付いた。

 

おそるおそる指先の匂いを嗅いで、ひと舐めしてみる。

 

鉄さび味を予想していたら、この赤い液体も甘く、フルーティだった。

 

 

この味は...ザクロか。

 

ザクロの果汁がたたえられた池で僕は、まるで真っ赤な血を頭からかぶったかのように、赤をまとって、その池から上がったのだった。

 

 

(つづく)

 

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(17)僕を食べてください★

 

~キキ~

 

 

全ては私が全部、悪い。

 

チャンミンがあそこまで、のめりこむとは想像もしていなかった。

 

軽い気持ちのはずだった。

 

性に未熟なあの子を夢中にさせてから、目的を果たす、はずだった。

 

私は元来、冷血な性質の持ち主。

 

利己的で冷酷な言葉も嘘も平気で吐ける。

 

目的を果たすまでは、残酷さは封印して優しい言葉を、吹き込む。

 

何も知らない子。

 

私の身体に夢中になってしまって...可哀そうに。

 

この先、どうなるのかも知らないで。

 

堅く勃ちあがった彼の先端に吸い付くと、瞬時に反応して上ずった喘ぎ声をたてる。

 

私の下で、上で腰を揺らして恍惚の表情を浮かべるチャンミンを見て、ほくそ笑んでいた。

 

怯えて恐怖の香りを発散させたかと思うと、私の放つ香りに我を忘れたり。

 

私の口の中で彼の高まりがどくどくと大きく脈打つのを感じて、この子は温かい魂の持ち主であることを思い出させる。

 

あの時の子供がチャンミンだったとは、橋の欄干で告白されるまで気付かなかった。

 

当時は顔をじっくりと見る余裕がなかったから。

 

チャンミンの顔を汚す真っ赤な血に、顔を背けていたから。

 

あの子を見つめると、真っ直ぐな眼差しが返ってくる。

 

動揺したのを悟られまいと、私は目力をこめて見つめ返した。

 

耳を当てなくても、皮膚の下でどくどくと温かい体液が全身を巡る音が聴こえる。

 

快楽によってゆがんだ唇から漏れるかすれた声。

 

潤んだ瞳は切なげで、必死で私を求めている。

 

何を求めているの?

 

私から何を引き出そうとしているの?

 

あの時の、チャンミンの手探りのような愛撫は優しかった。

 

ゆるゆるとした愛撫は、ゆっくりと私を高めてくれた。

 

事の最中は冷静でいるはずの私が、身体の芯に火がついた。

 

繋がる身体に夢中になり、のしかかった身体に抵抗できなかった。

 

ウエストを引き寄せられ、そそりたったものに強く深く突き上げられて、目の前が真っ白になった。

 

耳に吹き込まれたのは、チャンミンの温かく湿った息と、「好きだ」の言葉。

 

私にはなくて、チャンミンにはある「心」って、こういうものなのか。

 

チャンミンの「好きだ」の言葉にたじろいだ。

 

困惑する。

 

密着してこすれ合う肌から伝わる、チャンミンの体温は熱くて火傷しそうだった。

 

気付けば私は彼にしがみつき、これまで出したことのない嬌声を上げていた。

 

愉楽に歪む顔を見られたくなくて顔を背けても、顎をつかんで視線を合わせてくる。

 

怖気付いたかと思えば、心中に湧いた疑問に蓋をして取りすがって来る。

 

ここまでは思惑通りだったが、目がいけない。

 

行き止まりに追い詰め、恐怖におののく姿を楽しむはずだったのが、私の方が追い詰められた。

 

立ち上がった途端、眩暈に襲われて膝から崩れ落ちた。

 

こぶしが小刻みに震えている。

 

失神したチャンミンをここまで運ぶのがやっとだった。

 

この数日、チャンミンにかまけていたら、このザマだ。

 

チャンミンに付きまとわれるのは、今の私にとって邪魔でしかない。

 

苦労して見つけた住まいを離れるか、骨の髄まで恐怖で凍り付かせて、追い払うか。

 

遊びのつもりが、深みにはまった。

 

チャンミンを傷つけたくない。

 

マットレスに横たえたチャンミンを見下ろした。

 

 


 

~チャンミン~

 

 

僕の部屋に、大きな箱が届けられた。

 

脚を折り曲げれば僕の身体が収まるくらいの巨大な箱だ。

 

まるで棺のようだ。

 

何が入っているのか、何故だか分かっていた。

 

包装紙を乱暴に破る。

 

幾重にもかけられた梱包紐に苛立ち、厳重に貼られたガムテープをはがす。

 

勢いよく引いたカッターナイフが、勢い余って指を切った。

 

ぷくりと膨らんだ血を口に含み、急く気持ちを整えるために深呼吸をした。

 

蓋を開ける手が震えていた。

 

人形が収められていた。

 

短く切りそろえた前髪の下で、扇形にまつ毛を伏せた小さな顔。

 

陶器のような、生気に欠けた肌。

 

言葉で言い尽くせないほどに美しい人。

 

人形のようなキキが収まっていた。

 

箱の中に腕を差し入れて、キキを抱き起す。

 

閉じられた瞼がぱちりと開いた。

 

抱き起すたび、くるくると目の色が変わる人形のように、キキの瞳も墨色だったり、群青色だったりするんだった。

 

僕は絶句する。

 

どこにも視点が結ばれていないその瞳に、色がなかった。

 

1対の冷たく透明な瞳は、僕の魂を吸い込みそうに底なしに深くて、どれだけ覗き込もうと、その深淵には感情の揺らぎが一切なかった。

 

僕は辺りを見回した。

 

僕の指先からこぼれた血が黒い。

 

そこで初めて僕は、モノクロの世界にいることに気付いた。

 

白と灰色、黒色の景色がにじんでいき、目を開けているのか閉じているのか分からなくなった。

 

意識がふわりと浮上していく。

 

夢だったのか。

 

身体の感覚が、質量を取り戻した。

 

ここは...。

 

目だけを動かして、周囲を見回す。

 

見上げると、太い鉄骨の梁、外の光を透かしている波板トタン。

 

キキの廃工場だ。

 

僕は、真っ白なマットレスの上にいた。

 

濡れたデニムパンツが脚に張り付いて気持ち悪い。

 

辺りは薄暗く、夜明けなのか日暮れなのか。

 

怖気だった記憶が僕の心をかすった。

 

夜の谷川での出来事だ。

 

水中に沈んだキキは、呼吸が止まり、脈も感じられなかった。

 

それなのに、ぱちりと目を開けた。

 

「怖いでしょう?」って。

 

不思議なことに、恐怖は感じなかった。

 

ただショックが大きかっただけだ。

 

僕の予感が的中してしまった、と。

 

意識を集中させて、どこか痛むところはないか全身をスキャンする。

 

手も足も問題なく動く。

 

起き上がろうとしたが、すぐさま身体をマットレスに沈めた。

 

廃工場内のプレハブのような小部屋の方から、物音がしたからだ。

 

元事務所だったそこにはデスクが置かれていて、キキが揃えたと思しき真新しい収納ケースが積まれていた。

 

埃で曇った窓越しにキキが見える。

 

キキが小部屋を出てくる足音がして、僕は慌てて目をつむった。

 

足の運びが不規則で、地面を引きずる足音が不自然だった。

 

キキが足音を立てるなんて珍しい。

 

薄めを開けて、キキの行き先を見守る。

 

黒い長袖シャツを羽織り、細身の黒いパンツを履いていた。

 

長い髪もポニーテールにしていた。

 

いつもワンピースを着ていたキキだったから、「おや」と思った。

 

どこへ行くんだ?

 

キキがこちらを振り返りそうだったから、僕は顔の筋肉を緩めて眠りこけるふりをする。

 

キキのX5のエンジン音がするかと耳をすましていたが、よかった、車は使わないんだ。

 

僕は跳ね起きると、マットレスの下に揃えて置かれたスニーカーを履いた。

 

開いたままのシャッターへ走る。

 

地面にビニール袋から飛び出たサンドイッチとペットボトルが散らばっていた。

 

右ひじをさすると、擦り傷がかさぶたを作っていた。

 

夜の出来事は、夢じゃない、現実だ。

 

暗闇の中で僕の腕がひっかけたものは、テーブルドラムに置かれていた水筒のようだった。

 

地面に転がるそれを目にして、胃の腑がせり上がってきたが、ごくりと唾を飲み込んで堪える。

 

シャッターをくぐって外へ出る。

 

ひんやりとした澄んだ空気と、空の色から明け方だと分かった。

 

廃工場から山道を見下ろしたが、キキの姿はない。

 

小枝が折れる音を振り向くと、笹藪の陰に黒いものがちらついた。

 

山の中に入っていくようだ。

 

X5の陰にしばらく身を潜めたのち、砂利を踏むスニーカーが音を立てないよう小走りで斜面を駆け上がる。

 

うっそうとした下草をかき分け、林の中まで足を踏み入れた。

 

木立が朝日を遮って薄暗い。

 

黒づくめのキキが、両腕で身体を抱きしめるような姿勢でふらふらと歩いている。

 

具合が悪そうだ。

 

それに、どこへ行くつもりなんだ。

 

頭上で鳥のさえずりがする。

 

木の幹に隠れながら、キキを追う。

 

降り重なった杉葉は柔らかく、足音を吸収してくれた。

 

キキは振り返る素振りを見せない。

 

足音を立てずに僕に近づける敏捷なキキらしくなかった。

 

脚をもつれさせ、ふらふらな身体で、キキには行きたいところがあるようだ。

 

額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。

 

キキを追いかけながら、僕は川水に身を浸しながら聞いたキキの言葉を反芻していた。

 

僕はキキについてこられないし、キキも僕についてこられない、と言っていた。

 

愛情の熱量の差を言っているのだろうか。

 

僕に好きと言われて嬉しい、でも応えられない、と言っていた。

 

僕のことを嫌いになった、とは言っていなかった。

 

我ながら自分に都合のよい解釈の仕方だけれど、肝心な部分を避けて語られた言葉だったから、具体性に欠けていた。

 

結局のところ、「僕と離れたい」と言いたかったようだった。

 

 

僕は納得しない。

 

 

僕のどこがいけなかったのだろう。

 

キキはドライな関係を望んでいたのだろうか。

 

一方の僕は、物欲しげにキキの元を訪ね、言葉を交わす間も惜しんでキキに抱き着いていた。

 

短時間姿を消しただけでパニックを起こし、涙まで流してしまった。

 

昨日、僕は心を込めて(おかしな言い方だけれど)、キキを抱いた...抱いたつもりだった。

 

僕の未熟なテクでは、キキを満足させてあげられなかったかもしれないが、あの時のキキは気持ちよさそうにしていた。

 

うっとうしがられるほど「好きだ」と繰り返して、キキの頭にダイレクトに伝わるよう耳元でも囁いた。

 

絶頂の最中、キキが頷いたのは僕の錯覚に過ぎなかったのかもしれない。

 

「!」

 

考え事をしているうちに、先を行くキキとの距離を縮め過ぎていた。

 

 

それでもキキは気付かない。

 

 

僕はキキを追っていた。

 

 

キキの不調の原因を探りもしなかった。

 

 

案じさえしなかった。

 

 

手負いの小動物を追い詰める、捕食者の気持ちが僕の心を侵食していった。

 

 

僕から離れていくなんて許さない。

 

 

どこまでも食らいついていく。

 

 

キキに飛びかかった時、曲げた指に鋭い爪が生えているかのような幻影が見えた。

 

 

その爪がキキの両肩に食い込む。

 

 

逃げるなら、捕まえるまでだ。

 

 

ひっとキキの喉が鳴り、見開いた瞳に恐怖の色が浮かんだのを、はっきりと捉えていた。

 

 

僕に押し倒されて仰向けになったキキに、馬乗りになった。

 

 

「チャンミン...!」

 

「......」

 

キキのシャツをたくし上げて、あらわになった乳房に食らいつく。

 

乱暴にもみしだいて、乳首を強く吸う。

 

「チャンミン...やめて...!」

 

抗議の声を、唇で塞ぐ。

 

無理やり唇をこじ開けて、キキの舌を頬張り吸う。

 

「んん...!」

 

キキの抵抗する両手首をまとめてつかんで、頭の上で押さえつける。

 

抵抗されて、僕の欲が煽られた。

 

舌打ちをしながら、もたつく片手でボタンを外して、キキのパンツを下着ごとまとめて引きずり下ろした。

 

「やめて...」

 

さらされた白い裸身に、僕の肉欲に火がついた。

 

身体をよじらせるキキの力は弱い。

 

「僕から離れるな!」

 

デニムパンツをずらして、怒張したものを開放する。

 

キキの両足を肩に担ぎ上げ、濡れていないキキの中へ一気にねじ込んだ。

 

「やめ...」

 

狂ったように腰を動かした。

 

キキの奥底まで、何度もぐいぐいと突き立てた。

 

がくがくと揺さぶられているキキは、僕から顔を背けている。

 

キキの小さな顎をつかんで僕を見上げさせると、半分落ちたまぶたから空色の瞳が覗いていた。

 

キキの瞳はくるくると色を変えるが、ここまで明るい色は見たことなかった。

 

キキがますます「人形」に近づいた。

 

温かい粘膜に包まれても、僕の心は満たされない。

 

僕の身体は、背筋を貫く快感の波を何度も浴びているというのに、まるで他人事だった。

 

「頼むから、離れないで」

 

嗚咽交じりに繰り返した。

 

両脚を大きく開かせ、その中心に僕のものを深くうずめて引き抜く。

 

肌を叩く音、粘膜をこする音、粘液がたてる音、そして僕のうめき声。

 

キキは唇を引き締めたまま、何も言わない。

 

がくがくと僕に揺さぶられるがままだ。

 

 

僕は獣、だ。

 

 

「僕から離れるな!」

 

 

閃光のような快感と痙攣が下半身を襲った。

 

しばらくキキの頭をかき抱いていた。

 

「はあはあはあ」

 

身体を離して、僕は我に返る。

 

僕は絶望感の大波にさらわれた。

 

木立の元、落ち葉にまみれたキキの白い身体が横たわっている。

 

青白い肌をして、下まぶたから頬にかけて大きな赤黒い隈が広がっていた。

 

いつからこんなにひどい顔色をしていたんだ?

 

思い出せない。

 

キキを抱くのに夢中になるあまり、キキと繋がることした頭になかった僕は、キキの変化にまで注意を払っていなかった。

 

車内で「調子が悪い」と言っていたが、まるで聞いていなかった。

 

 

「......」

 

僕はなにを...した?

 

 

キキの目尻から、つーっと涙がこぼれ落ちた。

 

 

僕は獣に成り下がった。

 

 

僕は最低だ。

 

 

 

(つづく)

 

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(16)僕を食べてください★

 

 

僕は跳ね起きた。

 

僕は暗闇にすっぽりと包まれていて、天井近くの窓から注ぐ光が、太陽から月に変わっていた。

 

肌に触れたら、衣服をなにひとつ身に着けていない。

 

僕は眠っていたらしかった。

 

「!」

 

隣で横になっていたはずのキキがいない。

 

思い出した。

 

キキとのセックスに夢中になってしまい、2回果てた僕は疲労困憊になって、気を失うかのように眠ってしまったんだ。

 

キキがどこかへ行ってしまわないようにと、キキを後ろ抱きにしていたんだった。

 

キキがいない。

 

すっと血の気が引くのが分かった。

 

「キキっ!」

 

マットレスの下に投げ捨てた洋服を手探りで拾い集める。

 

闇雲に伸ばした手が何かに当たって倒れ、地面に転がり落ちてからんと音を立てた。

 

昼間、最初に脱いだTシャツは見つからなかった。

 

山中の気候は、日中は暑くても夜間は気温が下がって涼しい

 

全身にかいた汗が冷えて、寒気が襲う。

 

キキがいないことにパニックになった僕は、暑いとか寒いとかどうでもよかった。

 

「キキ!」

 

僕の声が、廃工場の高い天井に反響する。

 

僕はそろそろと足を交互に出し両腕を突き出して、入り口シャッターを目指す。

 

と、数歩目で何かにつまづいて、つんのめった。

 

前方に倒れ、とっさにかばった片腕がかっと熱くなる。

 

つまずいてしまったものの正体を手探りで確認すると、フィルムに包まれたサンドイッチがいくつかと、水滴がついたペットボトルだった。

 

買ってきたばかりだ、ペットボトルは冷たい。

 

キキは近くにいる。

 

はやる気持ちをおさえて、注意深く前進する。

 

シャッターは僕の腰のあたりまで開いており、月光の淡い光がぼんやりと地面を照らしていた。

 

シャッターをくぐった僕は、大きく深呼吸をして、虫とカエルの鳴き声に包まれた

 

「キキ!」

 

足元は真っ黒な闇に沈んでいるが、月光のおかげで周囲の景色をだいたいは判別できる。

 

建物に沿って裏手へ回る。

 

キキのX5が停められていて、僕の心は軽くなった。

 

ボンネットに手を当てると、温かい。

 

キキはどこかへ出かけて行って、戻ってきたばかりのようだ。

 

「キキ!」

 

メガホンのように両手で囲って、大声でキキの名前を叫んだ。

 

 

谷川に面した工場裏に動くものがあり、キキの姿だと分かった。

 

「キキ!」

 

「チャンミン...」

 

「キキ...」

 

蔓延るつる草に足元をとられるのに構わず、僕はキキの元まで駆け寄った。

 

キキの白い顔が暗闇の中にぼうっと浮かんでいる。

 

「心配したんだ」

 

「サンドイッチを買ってきた。

チャンミン、食べておいで」

 

「......」

 

「そっか...。

暗いね。

車のキーを渡すから、エンジンをかけて。

車の中で食べておいで」

 

「腹は減っていない」

 

「チャンミン、怖い顔をしないで。

水浴びしてくるから、少しの間待っていてくれる?」

 

「水浴び?

こんな時間に?」

 

確かにキキはバスタオルのようなものを抱えていた。

 

「ええ。

おかしいことかしら?」

 

「真っ暗だよ?」

 

「ここにはお風呂がないの。

知ってるでしょ?

中で待ってて。

すぐに戻るから」

 

谷川の方へ歩き出したキキの手首を、僕はとっさに捕らえた。

 

捕らえた途端にぬるりと滑って、僕の手の中からキキの手首が引き抜かれた。

 

僕の手を濡らしたものの正体を確かめたくても、暗くて見えない。

 

「仕方がないわね」

 

鼻先にかざしていた僕の手が、キキの手と繋がれた。

 

「チャンミンも一緒にいかが?」

 

僕の手を引いたキキは、草をかきわけ谷川までの急な坂を迷いなく下りていく。

 

視力を奪われると、匂いと音に敏感になる。

 

生臭い匂いが漂うのは、夜の草木が放つ呼吸のせいか、辺り一帯に潜む大量のカエルのせいか。

 

 

「ここに足をかけて...そう、ゆっくり」

 

足元がおぼつかない僕を、キキが誘導してくれる。

 

「棘があるから」と。僕に当たりそうになった小枝を押さえてくれた。

 

岩のひとつを飛び降りて、スニーカーの底が砂地に沈んだ時、よろけた僕をキキは力強い腕で僕を支えた。

 

 

川の流れが立てるせせらぎの音が、間近から聞こえる。

 

闇に塗りつぶされた茂みの中で、カエルが鳴いている。

 

月の光に照らされた川面がキラキラと揺れていた。

 

「冷たくて、気持ちがいいわよ」

 

僕の手を離したキキは、手早く服を脱ぐとザブザブと川へ入っていく。

 

「チャンミンもいらっしゃい」

 

「う、うん」

 

スニーカーを脱いで、どうしようか迷ったけれどデニムパンツのまま、川の流れに足先をつけた。

 

冷たくて足を引っ込めたけれど、川べりでキキを待っていたくなかった。

 

ごろごろ突き出た川石につまづかないよう、慎重に歩を進めていると、見かねたキキが引き返してきた。

 

「あと2メートルで一気に深くなるから、気を付けて」

 

僕の腰に腕を回して誘導してくれる。

 

真っ暗闇で、どうしてキキは迷いなく動けるんだ?

 

疑問が浮かんだ。

 

キキが言ったように、数歩目で僕は胸のあたりまで水に浸かった。

 

ずきっと右ひじに痛みが走って、転んだ際に擦りむいていたことを思い出した。

 

穏やかな流れに身を浸して立ち尽くす僕をよそに、キキはすいすいと僕の周りを泳いでいる。

 

ごつごつとした岩の間をしぶきをあげる急な流れから、取り残されたかのように流れが凪いだ箇所があって、小さなプールのようになっている。

 

そこに僕らはいた。

 

映画のシーンで観たことがあったかもしれない。

 

人里離れた川で、無人島だったっけ?

 

無人の夜のプールだったっけ?

 

恋人同士が裸で泳いでいるんだ。

 

そう、今みたいに。

 

ちゃぷちゃぷと、水が肌をたたく音がぎょっとするほど近くに聞こえる。

 

キキを見失って、やみくもに両手を振り回した。

 

指先がキキの身体の一部に触れて、僕は迷わず両腕で囲い込む。

 

 

捕まえた。

 

「あははは」とキキは笑い声をあげた。

 

キキの冷えた身体を抱きしめる。

 

きゅっと引き締まっていて、濡れてつるつるした肌が人形のようだと思った。

 

しかし、僕の手のひらを押し返す弾力からは、生命を感じる。

 

キキの腰を高く抱え上げると、両脚を僕の腰に巻き付けさせた。

 

キキの顔を包んで、唇を割る。

 

そうなんだよ。

 

口の中は温かいんだよ。

 

喉の奥まで届くまで舌を伸ばして、窒息させんばかりにキキの口内を僕の舌で満たす。

 

「ふ...んん...」

 

僕らは互いに粘膜を貪り合う。

 

「はあ...」

 

闇に包まれて視界を奪われ、感じるのはキキと繋がる唇の感触のみ。

 

感覚が研ぎ澄まされている。

 

「あっ...」

 

股間に手が押し当てられて、驚いた僕は腰を引く。

 

 

「駄目だっ...無理だ...」

 

今日一日で、4度も達していた僕にはもう、勃つ余力がない。

 

 

「そうでしょうね。

こういうのはもう、止めにしましょう。

あなたは私に、ついてこられない」

 

 

僕の耳元に顔を寄せて、キキはゆっくりと発音した。

 

 

「もう終わりにしましょう」

 

 

「え...」

 

 

キキの言葉が理解できない。

 

「終わりにしましょう」

 

「どういう...意味...?」

 

 

「思わせぶりなことをしてきて、ごめんなさい。

チャンミンは、私にはついてこられない。

私もあなたについていけない」

 

「急に...なんだよ」

 

「こんなタイミングに、ごめんなさいね」

 

「別れるってことか?」

 

「別れるも何も...付き合ってもいなかったでしょう?」

 

付き合って、いない...?

 

この数日間の僕らは何だったんだ?

 

「そんな...。

僕のことを気に入ったって、そう言ってたじゃないか!?」

 

 

「チャンミンの顔も身体も、気に入っているのは本当よ。

チャンミンと抱き合えて、とてもよかった。

あなたも楽しんだでしょう?」

 

「...うん...」

 

その通りだ。

 

僕はキキに触れられ、目も眩むほどの快楽を知り、酔いしれていた。

 

ずぶずぶとキキの中に侵入し、溺れて、そのまま僕は恍惚の沼の底に沈んだままだ。

 

 

「確かに、楽しんだよ。

でも、僕はその場限りなんて嫌なんだ。

僕は、これから先もキキに会っていたい」

 

「『好き』という言葉をもらえて...嬉しかったわ。

...でも、よく考えてみたの。

私はあなたの気持ちに応えてあげられない」

 

 

「...そんなっ!

応えてくれなくても...いいから。

キキのセフレでもいいから!

お願いだ、そばにいさせて...」

 

「チャンミン...。

そういうところに、私はついていけなくなったの」

 

「嫌だ!」

 

キキの肩をつかんで、キキを前後に揺さぶった。

 

「チャンミン、私のことは諦めて」

 

説き伏せるように低くてしんとした声音で、キキは僕に言った。

 

キキが僕に別れを告げようとしている。

 

「嫌だ...

僕は君から離れられない」

 

「チャンミン...」

 

キキの顔が全然見えなかったけど、激しく首を横に振る僕を、哀しそうな、憐れむような表情で見ているのだろう。

 

「僕は納得なんかしないから!

僕を捕まえたのはキキ、君の方じゃないか!?

僕が美味しそうだからって。

僕を無理やり引っ張ってきておいて、今さら忘れろって...

都合がよすぎるよ!」

 

「チャンミン...」

 

「どうせなら、僕を全部食べてしまえよ!

僕が美味しそうだったんだろう?

食べてしまいたいって言ってただろう?

僕はキキのことが好きになったんだ」

 

ここまでの激情を誰かにぶつけたことは初めてだった。

 

キキを失ったら、死んでしまうとまで思った。

 

ここまで切迫した気持ちにかられる理由が、僕にも分からない。

 

パニックだった。

 

今のキキからは、あの甘い香りはしない。

 

 

「それじゃあ」

 

キキの小さな両手が、僕の頬を包んだ。

 

 

「チャンミンの方から、離れていってもらうしかないわね」

 

 

「んっ」

 

キキに唇を塞がれ、僕らは水中に沈んだ。

 

カエルの鳴き声が消え、ごーっという音に包まれた。

 

「んっ...!」

 

僕の口からこぼれる泡がごぼごぼと音を立てる。

 

僕の両頬は鋼のようなキキの手に挟み込まれている。

 

息が苦しい。

 

首を激しく振ってキキの両手から逃れて、水面に顔を出す。

 

僕の肺は大量の空気を必要としていた。

 

肩を大きく上下させて、息を吸って吐いた。

 

呼吸を整えながら、周囲を見回していた。

 

 

「キキ...?」

 

 

キキがいない。

 

月明かりに照らされた川面が白く揺らめき、ひたひたと僕の胸を叩く音だけが妙に大きく感じられる。

 

 

「キキ?」

 

川岸に目をこらしても、動くものはいない。

 

両手を振り回しても、手に触れるものは何もない。

 

「キキ!」

 

 

潜ってみたけれど、もっと暗くて何も見えない。

 

酸素を求めて川面へ顔を出し、再び潜る。

 

何度も繰り返した。

 

ここには、いないのか?

 

石にすねや爪先を何度もぶつけながら、川岸へ戻ってみたが、いない。

 

あそこに沈んでいるのか?

 

パシャパシャと水を蹴散らし、元の場所へ向かった。

 

 

水深が一気に深くなって、胸の高さまで沈んだとき、膝にとんと、柔らかいものがぶつかった。

 

 

「キキ!」

 

水中に浮かぶ身体を引きずり上げた。

 

「キキ!」

 

氷のように冷たい頬を叩いた。

 

キキの口元に耳を寄せた。

 

呼吸の気配が何もしない。

 

沈んでいたのは、どれくらいの時間だった?

 

5分か?

 

10分?

 

もっとか?

 

耳の下に指をあてる。

 

 

脈動が一切感じられない。

 

 

「嘘だろ...!」

 

 

 

早く水から出て、心肺蘇生を施さないと。

 

キキを肩に担ぎあげようとしたとき、僕の二の腕がギュッとつかまれた。

 

「!」

 

月明かりがキキの白い顔を照らして、キキの瞳が赤く光った。

 

「どう?

恐ろしいでしょ?」

 

僕は気を失った。

 

 

 

(つづく)

 

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【15】僕を食べてください★

 

 

チャンミンの言葉に応えず、キキはしばらく黙り込んだまま運転を続けていた。

 

己の信じる愛とは何かを言及するうち、互いの相違が浮き彫りになった。

 

チャンミンの心中に、じわじわと焦燥感が侵食されていく。

 

「キキの言う『愛』に応えるから、キキの家に戻ろう」

 

チャンミンはシフトレバーに添えたキキの手を握った。

 

「今日は、無理」

 

間髪入れずに答えたキキは、チャンミンの手の下から手を引き抜き、ハンドルの上へ移してしまった。

 

「どうして?」

 

こんな些細な行動さえ、チャンミンの不安を煽った。

 

「僕の身体が好きなんだろう?

僕もそれに応えるから」

 

「今日は、無理なの」

 

「嫌だ」

 

「やることが沢山あるのよ。

それに...少し、気分が悪くなったから」

 

キキの顔は漂白した紙のように真っ白だったが、フロントガラスから降り注ぐ日光に誤魔化されていて、チャンミンは気付かなかった。

 

キキの眼の下の隈が、殴られたかのように頬の上まで青黒く拡がっていたが、サングラスで隠れていたせいで、チャンミンはそれを窺い見ることはできなかった。

 

「ヤラなくていいから、キキの側にいるだけでいいから。

キキは横になっているだけでいいから」

 

「駄々をこねないで、お願い」

 

「どこにもいかないって約束して。

明日会いに行って、もぬけの空だったなんてことは、絶対に嫌だから。

お願いだから、側にいさせてよ」

 

チャンミンはキキの肩を揺すって哀願していた。

 

「事故るから、手を離して」

 

キキはコンビニエンスストアの駐車場にX5を乗り入れると、停車させた。

 

「行かないから」

 

チャンミンの切羽詰まった口調に折れたのか、キキはため息交じりに答えた。

 

単なる早とちりだったが、この朝経験したぞっとした感覚はチャンミンにとって相当なものだった。

 

キキと何度も繋がったのに、チャンミンは不安だった。

 

「どこにもいったりしないわ」

 

と、キキは答え、「今のところは」とキキは心中で付け加えた。

 

(チャンミン...

こんな展開になるとは思いもしなかった。

引きずり込んだ私が悪い。

今の私は、これ以上貴方と過ごすのがキツくなってきたよ)

 

「本当に?絶対に?」

 

チャンミンの目が必死に訴えていた。

 

(連れて帰らなければよかった。

まさかあの時の坊やだったとは。

あの時、食べてしまえばよかった)

 

「ええ。

だから今日は、帰って、ね?お願い」

 

キキはサングラスを外すと、薄墨色の瞳でチャンミンを正面から覗き込み、言い聞かせるようにゆっくりと発音した。

 

「嫌だ」

 

チャンミンはきっぱり拒絶して、キキを睨みつけた。

 

「...チャンミン。

私を困らせないで」

 

(僕を置いていってしまう。

僕が信じる愛と、キキが信じる愛が乖離していることが浮き彫りになった今、

がっかりしたキキが、僕を捨ててしまうかもしれない。

キキに置いていかれるかもしれない。

キキに捨てられるかもしれない。

残された僕は、どうにかなってしまう)

 

キキにまつわる不思議はすべてすっ飛ばして、キキを失ってしまうのではないかという恐怖に支配されていた。

 

「わかったわ」

 

キキはチャンミンに気付かれないよう深く息を吐いた。

 

チャンミンが放つ恐怖の香りが、キキを苦しめた。

 

ハンドルを切って方向転換すると、二人の乗ったX5は元きた道を引き返した。

 

 


 

 

処理場に繋がる道から下りてきた1台トラックと、二人の乗ったX5が三差路で鉢合わせになった。

 

2台の車がすれ違えない道幅で、キキはX5を退避場まで後退させた。

 

すれ違いざま、トラックの運転手は高級車の助手席に座るチャンミンに気付いて、停車した。

 

荷台には4匹の猟犬を閉じ込めた4台の檻と、イノシシ用の箱罠、何かが入ったポリタンク、鎖などの物騒なものが載せられている。

 

猟犬たちは、柵の隙間から鼻づらを出して歯をむき出して唸ったり、唾を飛ばしながらチャンミンたちに向かって吠えたてていた。

 

「おお、チャンミン!」

 

サイドウィンドウが開いて、Sがチャンミンに声をかける。

 

運転席のキキに気付くと、Sは驚愕の表情を見せたが、瞬時にそれを消した。

 

Sの問うような表情に気付いたチャンミンは、「キキのことを、なんて紹介しよう」と逡巡しているうちに、

 

「同じ学校に通っています」とキキは如才なく答えた。

 

Sはしばらくチャンミンとキキを交互に見ていたが、「じゃあな」と手を挙げて発車させた。

 

クラクションを鳴らすと、吠え喚く猟犬の乗せたトラックは走り去っていった。

 

Sとキキの視線が、一瞬意味ありげに絡んだことに、チャンミンは気付かなかった。

 

 


~チャンミン~

 

僕の背後に音もなく忍び寄れるのだから、野生動物のような俊敏さを持っているはずだ。

 

けれど、今のキキは動きにキレがなく、気怠そうだった。

 

ところが、「お手並み拝見」。

 

廃工場に着くなり、そう言ってキキはワンピースも下着もさっさと脱いでしまった。

 

「今日はもう、ヤラないんじゃ...」

 

キキに添い寝しながら、たわいもない会話を交わすつもりでいた。

 

「疲れているんだろ...だから、やめておこう...」

 

高い位置から差し込むオレンジ色の夕日に、キキの白い身体が照らされて、息をのむほど綺麗だった。

 

肩からウエスト、腰へ流れる曲線、柔らかそうな二つの乳房や、太ももに挟まれた翳りなど、全身がきゅっと引き締まっていて、理想的なパーツを組み立てたらこうなるんじゃないだろうか。

 

そういえば、明るい日の下でキキの裸を見るのは初めてだった。

 

呆けてしばらく、見惚れていた。

 

彼女が綺麗過ぎて、欲情がわいてこなくて、焦った。

 

キキに倣って僕も、Tシャツもデニムパンツも、下着も全部脱いだ。

 

僕のその気がない振りも、こんな程度だ。

 

数日前まで知らなかった愉悦の沼に足を浸けてしまった僕。

 

僕の中に天秤があって、片方に心という名の分銅が、もう片方に肉体という名の分銅が乗せられていて、その場の雰囲気で容易に揺れる。

 

両方がつり合っている時間が極めて短い。

 

今の僕の天秤が、どちら側に大きく傾いているかは言わずもがな。

 

もちろん、キキとの精神的な繋がりを欲している。

 

小学生の僕とキキは会っていた。

 

墜落寸前の事故車から僕を救い出してくれた。

 

キキの年齢のことや、くるくる変わる瞳の色のことや、不思議が沢山つまった彼女のことをもっと知りたい。

 

もしかして、キキは人間じゃないのでは?

 

シリコン製の人形のように温かみのない肌を持っている。

 

怪我をしたのかしていないのか、現実と夢も分からなくなってしまった。

 

きっとそうだ。

 

故郷に着いたあの日、僕はエアーポケットみたいな所に迷い込んでしまった。

 

そこで、僕は綺麗なお人形と戯れているんだ。

 

街へ帰らなければならない2日後に、気付いたら駅のロータリーにいたりするんだ、きっと。

 

それならそれで、いい。

 

いや、その方がいい。

 

白昼夢の世界にいるのなら、不思議は多いほどよい。

 

キキの裸を前にしても、僕のものはわずかに顔をもたげた程度で、僕は焦った。

 

しごいても、反応がない。

 

「くそっ」

 

僕はキキが信じる愛に応えなければならないのに。

 

刺激すればするほど、僕の手の中でそれは惨めに小さくなっていくばかりだ。

 

情けない僕は、全裸でマットレスに腰掛けたキキの肩を押して仰向けにさせると、彼女に身体を密着させた。

 

横抱きにしたキキの首に顔を埋めて、「ごめん」と謝った。

 

さらさらとこすれるキキの肌が冷たくて気持ちがいい。

 

僕も疲れているみたいだ。

 

キキの耳に「好きだ」と囁いた。

 

今の僕は、キキの信じる愛に応えられないから、僕の信じる愛を言葉で伝える。

 

(僕がここにいられるのは、あと2日。

それも、明後日の午前中にはここを発たなければならない。

時間がない)

 

キキの身体に刻みつけなければ。

 

キキのみぞおちに広げた片手を乗せた。

 

柔らかく押し返す弾力の心地よさを味わいながら、手の平で触れるか触れないかの距離で、そうっと下へ撫でおろした。

 

その間、半開きにしたキキの瞳から目をそらさない。

 

キキの瞳の色が、瑠璃色だった。

 

やっぱり、キキは人形だ、と思った。

 

僕の手はキキの太もものつけ根まで到達し、下へ忍び込む。

 

僕は初めて女性のそこに触れた。

 

なんて柔らかいんだろう。

 

人差し指と中指でそっと押し開く。

 

キキの肩に鼻先を押しつけて、僕は吐息を漏らす。

 

柔らかな襞をかき分けて、中指を奥へと侵入させる。

 

キキの腰がぴくりと震えた。

 

僕の中指を温かく包み込む、深い穴。

 

指の付け根まで沈めたら、指先で内壁に圧力を加えながら、ゆっくりと指を出し入れさせた。

 

キキの表情と身体の震えに神経を注ぐ。

 

どうやればいいか分からないけれど、キキを気持ちよくさせたい。

 

指を手前に引いて、曲げた指先でそこをタップするように刺激した。

 

キキの顎が上がって、半開きにした唇からかすかに声が漏れた。

 

じわっとぬるりとした粘液が溢れてきて、これが愛液か、と思った。

 

よかった、感じてくれてる。

 

僕はもう片方の手でキキの顎をつまむと、深く口づけた。

 

指で傷つけてしまいそうで、僕の動きが慎重すぎたのか、「もっと」と、キキに小さく訴えられた。

 

薬指を増やして、2本の指でキキの中を探る。

 

奥から手前へ指を引いていくと、ざらりとした箇所があって折り曲げた指先で優しく刺激した。

 

キキの腰が浮いて、膝が小さく痙攣した。

 

キキの甘い吐息を飲み込む。

 

嬉しくなった僕はキキの舌をからめて、ぐるりと上あごを舐め上げた。

 

僕の指の動きに合わせて、キキのなだらかで白い腹が揺れる。

 

キキの手が僕の手首を押さえたが、僕は無視をした。

 

本気で嫌なら、キキに手首をを折られているだろう。

 

僕の手はどんどん濡れていく。

 

僕の身体も火照ってきて、その熱はキキの肌に吸い込まれていった。

 

この数日、イってばかりの僕のものは半勃ちにしかならない。

 

僕のもので駄目なら、僕の唇で。

 

両膝を大きく押し開き、僕はキキの両ももの間に顔を埋める。

 

舌全体を使ってぺろりと舐め上げ、尖らせた舌先を挿し込み、押し当てた唇を滑らした。

 

キキの入り口も中も、ふっくらと腫れてきた。

 

キキを舌で刺激しながら、指も侵入させた。

 

もう片方で太ももを優しく撫でさする。

 

唇はもちろん、僕の鼻先からあご先までキキの愛液にまみれて、僕は手探りでキキを愛した。

 

キキの足先が伸びて、小刻みに腰が震えている。

 

 

いける。

 

力の抜けたキキの腰を引き寄せた。

 

硬さを取り戻した僕のものに手を添えて、ゆっくりと挿入した。

 

「は...あ...」

 

僕のものは中へ引きずり込まれ、キキの中がうごめいて狭い。

 

「あ...」

 

なんて気持ちがいいんだろう。

 

最初は緩く大きくスライドしていたけど、駄目だ、余裕がなくなってしまう。

 

「はっ...はっ...」

 

キキにぶち当てるように、激しく腰を打ち付ける。

 

肌同士が叩く音が響く。

 

「好きだ、キキ、好きだ」

 

もっと深く、深く、キキの中に入りたい。

 

仰向けだったキキの腕を引っ張って起こすと、僕の膝にまたがらせた。

 

真下からキキの中を突き刺す。

 

「あっ...はっ...」

 

腰を大きく突き上げる度に、キキの身体は踊って、小さな乳房も揺れた。

 

「好きだ」

 

胸先を口に含んで、舌で転がし、強く吸った。

 

唇をはなして、僕は喘ぎと共にキキに問う。

 

「好き?

僕のこと、好き?」

 

キキを知りたい。

 

キキの身体を通して、彼女の心を探ろうとしても、

言葉で通じない代わりに、身体で愛を注ごうとしても、

彼女から快楽以外のものを引きずり出せない。

 

「好き?」

 

「...好きよ」

 

キキが言う通りだ。

 

抱き合っている間は、互いのことしか考えていない。

 

キキと繋がっているという行為に興奮し、全身を震わす快感に夢中になり、そしてキキの心も欲しいと願う。

 

身体を離した後も、繋がっていたいと願う。

 

でも、キキはそうじゃないらしい。

 

つまり、僕はキキとずっと身体を繋げていないといけないんだ。

 

 

もっと話がしたいのに、結局交わり合うことに終始してしまうのは、そのためなのか?

 

キキとの精神的な繋がりを求めれば求めるほど、

 

 

かえって僕が溺れていくだけだった。

 

 

(つづく)

 

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(14)僕を食べてください★

 

 

「チャンミンのことを気に入っているって言ったでしょ?」

 

額の上に手をかざしてひさしを作ったキキは、僕の隣にしゃがんだ。

 

 

「チャンミンの顔も身体も声も匂いも、全部好きよ。

特に、あなたが喘ぐ声が好き。

あなたのペニスが好き。

それじゃ駄目かしら?」

 

「セフレってことか?」

 

「どうしてそんな発想になるのかな。

好きじゃなければ、あなたのを舐めたりしないし、挿れさせない。

私の気持ちは伝わっていなかったのかな?」

 

 

そういうことか。

 

キキは僕の顔と身体を気に入って、それを恋だと勘違いをしているのかもしれない。

 

肉体の愛。

 

互いの身体に舌を這わせ、指をなぞらせ、性器を接触させる行為そのものを、彼女は愛と思い込んでいる。

 

僕はとっくの前に、彼女に夢中になっているというのに。

 

キキの身体を求めてしまうのは、股間を熱くさせてしまうのは、肉体の繋がりこそがキキの信じる愛なんだということを、僕は察していたのだろう。

 

僕の身体に触れることが、イコール、僕への愛情。

 

キキに触れられて漏らす恍惚の喘ぎが、イコール、キキへの愛のささやき。

 

身体の繋がりなしに僕らの関係は成立しないのか。

 

生まれてはじめての、脳みそまで痺れてしまうほどの愉楽を知った。

 

僕も僕だけど、キキもキキだ。

 

今さら、心同士の繋がりを育てていくことは可能なのだろうか?

 

「僕は好きな人とヤリたいよ」

 

と、キキの手が伸びて僕が制する隙もなく、デニムパンツのボタンが外された。

 

「やめろ!」

 

続けてファスナーが下ろされ、下着から萎えた僕のものが引っ張り出された。

 

「やめ...ろ!」

 

キキは僕の股間に顔を伏せ、柔く小さくしぼんだ僕のものを口に頬張った。

 

「ひぃっ...」

 

キキの肩を押して抵抗したけど、それは形ばかりのものに過ぎない。

 

口で愛撫されてしまったら...もう...僕は。

 

「ああぁ」

 

敏感に反応してしまう、自身の浅ましさときたら...。

 

キキの口の中で、あっという間に勃起する。

 

亀頭を咥えながら、根元からカリの部分まで、ゆるく握った手でしごかれた。

 

最初は機械的なリズムで、ゆっくりと上下にしごかれる。

 

カリのくぼみをちろちろと舐めまわされ、唇でひっかけられた。

 

「あっ...」

 

裏筋が吸い上げられながら、小刻みに舐められる。

 

快楽の泥沼の底に沈んでいく。

 

僕は黄金色の沼に沈んだままだ。

 

恍惚の沼の底に横たわって、光きらめく水面を見上げていた。

 

黄金色の蜜がとろとろと揺らめいている。

 

綺麗だった。

 

僕はもう浮上できない。

 

「ひっ...」

 

たっぷりの唾液でぬるぬるになって、キキの口内で舌が踊って、僕は天を仰いで恍惚の世界を漂う。

 

「あぁ...っ」

 

深く咥えこまれ、喉奥で圧迫された。

 

「ひっ」

 

 

かすれた悲鳴が漏れた。

 

きつく握られていた根元が解放された。

 

 

緩く早く、柔くきつく刺激されて、僕は達する。

 

キキの喉が動いて、放出された僕の濃厚な吐精がごくりと飲み込まれた。

 

これがキキの好意の証か。

 

顔を起こしたキキは、唾液でつややかに濡れた唇を手の甲で拭った。

 

「わかった?」

 

サングラスをかけていない、明るい日差しの下のキキの顔。

 

眉毛の上でパツンと切りそろえた前髪が、川風にさらわれおでこが露わになった。

 

「眩しい。

返して」

 

 

かけたままだったサングラスを、僕は外した。

 

 

僕の瞳は、色彩と光、現実世界を取り戻した。

 

 

「キキ...」

 

 

順光にさらされたキキの紺碧色の瞳と、初めて真正面から目が合った。

 

 


 

 

目を何度こすっても、視界は赤く染まったままだった。

 

ぬぐった手の甲が真っ赤だった。

 

これは、血...?

 

耳がおかしくなったみたいだ。

 

無音世界だった。

 

ダークグレーのマットに四つん這いになっていた。

 

膝が痛くて体重移動させると、ぐらりと地面がかしいだ。

 

黒く濡れたマットに、ワインレッドのバッグが転がっていた。

 

母の誕生日に父が贈った、おろしたてのバッグだ。

 

助手席のシートの真下のそれを引き寄せた。

 

シートによじのぼったら、ガクンと傾いた。

 

ヘッドレストにしがみついて、窓を力いっぱい叩いたのに、誰も来てくれない。

 

僕は閉じ込められた。

 

パニックに陥ってもおかしくないのに、僕は叫び声ひとつあげなかった。

 

鈍い音とともに、ガラスのかけらが僕に降り注ぐ。

 

シートに散らばる透明で四角い粒が、おはじきみたいで綺麗だった。

 

二の腕を力強くつかまれたかと思うと、窓枠の外へ引きずり出された。

 

セミの鳴き声が、わんわんと五月蠅い。

 

何者かに抱きかかえられた僕は、火傷しそうに熱いアスファルトの上に下ろされた。

 

その人は膝を折って、僕の目線に合わせた。

 

お人形さんかと思った。

 

蝋のように青白いおでこをしていた。

 

目の縁だけが赤く色づいている。

 

赤くつややかに濡れた唇を、手の甲で拭った。

 

そして、人形のような青い目と真正面から目が合った。

 

 

 


 

 

 

「僕は...」

 

 

喉にひっかかって、思うように言葉が出てこない。

 

 

「...君を知っている」

 

 

キキは僕の手の中のサングラスを取り戻すと、すかさずかける。

 

キキの目元が、再びサングラスに覆われた。

 

 

「君に会っている」

 

 

僕の口の中が渇いていた。

 

 

「事故のとき」

 

 

セミの音も清流の音も、遠のいた。

 

 

「僕を...助けてくれて」

 

小学生だった僕が見た彼女と、24歳になった僕の隣に座るキキが、同じだった。

 

「僕は...子供だった」

 

しわひとつない顔。

 

「君は...」

 

今の僕と同い年にしか見えない。

 

 

「いくつなんだ?」

 

「女性に年齢はきくもんじゃないよ」

 

 

僕はキキに助けられた。

 

耳をつんざく轟音に驚いて振り返ると、僕を閉じ込めていた車が消えていた。

 

アスファルトにぺたりと座り込んだ僕の、手の平をじんじんと焼くアスファルトの熱さを、今も覚えている。

 

「若作りをしているだけさ」

 

僕の髪をくしゃっと撫でたキキは、立ち上がった。

 

「帰ろうか」

 

キキは僕を残して、すたすたと歩き去った。

 

「置いていかれたくないんでしょう?」

 

梯子の途中で、キキが大声で僕を呼んだ。

 

 


 

 

キキは僕の恩人だった。

 

墜落間際のつぶれた車から、僕を助け出してくれた。

 

母のバッグを抱きしめた僕を、カワヤナギの陰に寝かせた。

 

近づく悲鳴や怒号、サイレンの音に、キキは立ち去った。

 

しばらくの間、僕は無言だった。

 

キキも前方を睨みつけていて、助手席の僕をちらとも視線を向けなかった。

 

「僕を覚えていた?」

 

「あの河原で、チャンミンの話をきいて思い出した。

あの時は、旅の途中でたまたま通りかかった」

 

「そうだったんだ」

 

「あの時の、可愛い坊やだったんだって。

大きくすくすく育ったんだね」

 

あの時のキキは、若くて綺麗なお姉さんだった。

 

今のキキも若い。

 

エアコンがききすぎていて、鳥肌のたった二の腕をさすっていたら、「寒い?」とキキは風量を弱めた。

 

気にかかっていた一件を思い出した。

 

「変なことを聞くけど...僕って、怪我してたっけ?」

 

顔を前方に向けたまま、サングラス越しのキキの目がこちらを向く。

 

「怪我って、どこ?」

 

「腕なんだ。

血が出ていなかった?」

 

傷一つない、日に灼けた二の腕を撫ぜながらキキに尋ねる。

 

「いいえ。

怪我だなんて、大丈夫なの?」

 

初耳のようなキキの様子に、僕の頭に困惑の渦が巻いた。

 

(嘘だろ?

僕の気のせいだったのか?)

 

鋭いトタン板が切り裂いた瞬間の激痛を、覚えているのに。

 

血がにじむ傷口をキキに晒して、下半身が重く痺れた感覚を覚えているのに。

 

 

訳がわからない。

 

吐き気がした。

 

額に手を当てて考え込む僕の二の腕に、キキの指先が触れた。

 

「気分が悪いの?

家まで送ろうか?」

 

僕は首を横に振った。

 

冷たい肌を持った、年齢不詳のキキの側を離れたくなかった。

 

僕をばあちゃんちの前に降ろしたら、キキのX5はうんと遠くまで走り去って、二度と戻ってこないのではという恐怖があった。

 

2日前、キキと初めて食事をしたファミリーレストランの前を通り過ぎた。

 

 

「河原で話していたことの続き」

 

キキが淡々と話し始めた。

 

「チャンミンの言わんとすることは、なんとなく分かっているよ」

 

膝にのった僕のこぶしにキキの冷たい手がのった。

 

「チャンミン、『好き』だなんて言葉を簡単に口にするものじゃないよ。

まだ私の身体のことを、知らないでしょ。

あなたったら、ただ挿れて出すだけじゃないの」

 

 

羞恥で僕の身体が熱くなった。

 

「チャンミンは経験がないから、仕方がないよね。

 

だから、

私の身体をすみずみまで見て、触って、感じる前に、『好きだ』なんて早すぎるんじゃないかしら?」

 

キキの言う通りだ。

 

僕のセックスは、挿れて出すだけだ。

 

自分が気持ちよくなることしか、考えていなかった。

 

恥ずかしい。

 

 

「好きだ」とささやくだけでは、キキには不十分だった。

 

 

キキが信じる愛は、互いの身体を繋げること。

 

「キキ!

 

連れて行って!

 

キキの家へ。

 

キキを抱きたい」

 

キキへ「好き」を伝えるために、僕はキキの身体を愛撫する。

 

「キキを愛したいんだ」

 

 

(つづく)

 

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