(2)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンを始めて見た者は、誰しも言葉を失うだろう。

 

あやふやな表情を浮かべるしかない。

 

ひと言で言い表せられない...不可思議な生き物だった。

 

 

窓ガラスに雪のつぶてがぱさぱさとぶつかる音、タミーのいびき、パチパチと木がはぜる音。

 

ユノさんはソファに横になって本を読んでいて、タミーはその足元でお腹を出して眠っている。

 

私とユノさんとは血のつながりはなく、遠い遠い親戚関係にあるだけ。

 

私の保護者となった経緯を話すと長くなってしまうが、一言で言ってしまうと私に両親がいないからだ。

 

それから、ある事件を引き起こしたせいもある。

 

保護者と呼んでいるけれど、ユノさんはまだ22歳なのだ。

 

実年齢よりも老成しているのは、10代にして家主となった責任感によるものだろう。

 

ユノさんの下で暮らすようになって、2年になろうとしていた。

 

テーブルにノートと教科書を広げ、私は単語の読み上げ練習をしていた。

 

「ユノさん...ここが分かんない」

 

声をかけるとユノさんは、背後から身をのりだして私が指さした単語を、素晴らしい発音で読み上げるのだ。

 

「もうそろそろ寝た方がいい」

 

「チャンミンは?」

 

「君がママなんだから、部屋に連れていきなさい」

 

そう言って、私のベッドの足元に急ごしらえの段ボール製寝床を作ってくれた。

 

その間、私はチャンミンを抱いていた。

 

私の腕はチャンミンの肋骨と背骨の凸凹を感じ取っていた。

 

力を込めたら、ポキンとへし折ってしまいそうな、小ぢんまりと細い骨だった。

 

毛布に鼻先を埋め、背中を丸めて眠るチャンミンを起こさないように、寝床に寝かせた。

 

朝までぐっすり眠りなさい。

 

沢山ミルクを飲んで大きくなりなさい。

 

ユノさんと私の家なら、安心して暮らせるからね。

 

 

カリカリいう音で朝方、目が覚めた。

 

太陽がほんのひとすじ顔を出した時刻で、室内は冷え込んでいる。

 

外はしんと静まりかえっており、吹雪はおさまったのだろう。

 

音の正体は、チャンミンがベッドをひっかいていたからだ。

 

後ろ立ちして背中を伸ばしても、小さなチャンミンの前脚はベッドの上まで届きっこない。

 

その上、チャンミンの四肢はダックスフントのように短いのだ。

 

「ごめんね、寒いんだね」

 

段ボールに古毛布を敷いただけの寝床じゃあ、寒さに震えても仕方がない。

 

そこまで気を配れなかった私は、チャンミンに謝るしかない。

 

チャンミンを抱き上げ、私の傍らに下ろした。

 

深刻な皮膚炎を起こしていたチャンミンの毛皮は、ところどころハゲになっていて、もっと寒かっただろうに。

 

よしよしと背中をこすってあげた。

 

私の体温で温もった布団をチャンミンの背にかけてやると、チャンミンの震えは次第にやんでいった。

 

私はチャンミンに顔を寄せて、じっくりと観察してみた。

 

チャンミンの特徴はまず、団扇のように大きな耳だ。

 

耳の先は尖っている(耳下の傷口は昨夜、ユノさんが軟膏を付けてくれた)

 

耳の裏っ側は黒い毛でおおわれている。

 

正面は真っ白な毛が周囲をぐるりと生えており、中はピンク色でつるつるしていた。

 

どんな音でも聞き漏らさないぞといった意志の感じられる、立派な耳だ。

 

豚とまでは言えないけれど、肌色の大きな鼻は濡れ濡れとしていて、始終ひくひくとうごめいている。

 

不格好なんだけど、どんな匂いも嗅ぎもらさないぞといった意志の感じられる、立派な鼻をしていた。

 

最も特徴的で、初めてチャンミンの全貌を目にした時、真っ先に吸い寄せられたのは眼だった。

 

不細工な顔の中で、チャンミンの眼ははっと息をのむほど美しかった。

 

大きな大きな眼だった。

 

あまりの大きさに、何かの拍子で目玉が落っこちるんじゃないかと、心配になるくらい大きな目をしていた。

 

密に生えた長いまつ毛に縁どられたまぶたに、目玉はおさまっていた。

 

さっきより顔を出した太陽と雪の反射で、窓の外は白くまぶしい。

 

窓から差し込んできた朝日の帯が、チャンミンの瞳を薄茶色に透かしていた。

 

チャンミンの瞳の瞳孔が、きゅっと小さくなる瞬間も見逃さなかった。

 

虹彩は緑がかった焦げ茶色だった。

 

目玉の表面は雫が滴りそうに潤っていて、ちゃんと私の顔が見えているのか疑わしいほどだった。

 

 

(つづく)

 

 

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(1)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンと出逢った時、私は12歳だった。

 

ある吹雪の夜、この家の家主であり私の保護者でもあるユノさんが連れ帰ってきたのだ。

 

ユノさんは動物園で飼育員をしていた。

 

仕事着である灰色のつなぎ姿は、いつもケモノ特有の匂いを漂わせていた。

 

ユノさんが動物を連れ帰ってくることは珍しいことではない。

 

母親から育児放棄されたワラビー、仲間外れにされたミーアキャット、喧嘩の末、羽を骨折したオオコウモリ...。

 

狂暴で懐かなくても、糞尿で匂っても、あくまでも動物園の檻の中へ戻せるまでの期間限定のことだったため、イベントのひとつとしてそのお世話を私は楽しんでいた。

 

餌やりや檻の清掃、大型動物の保定といった力仕事で、ユノさんの腕は太く逞しい。

 

そんなユノさんの腕の中に、バスタオルにくるまれた『それ』はいた。

 

ラグの上に寝そべって本を読んでいた私は飛び起きて、ユノさんの腕の中のものを覗き込んだ。

 

私の傍らで眠っていた雑種の老犬タミーも、のそりと起き出してユノさんの足元へ寄ってきた。

 

タミーは一日中眠っているのに、大好きなユノさんが帰宅するとパチッと目を開けて、長い尻尾をゆっさゆっさ振るのだ。

 

その夜は、よそのケモノの匂いがするものだから、尻尾の振りがいつもより早い。

 

バスタオルの隙間から肌色の鼻がのぞいていた。

 

指を近づけると、匂いを嗅ごうとひくひくと蠢いた。

 

「噛みつく?」

 

「噛みつくだろうね」

 

私は慌てて指を引っ込めた。

 

「まだ歯は生えていないから、噛まれても痛くないよ」

 

「赤ちゃんなの?」

 

「生後2週間だ。

毛布をもっておいで。

この子を下ろすから」

 

『それ』を見下ろすユノさんの目は優しい。

 

生命を持つものに注ぐユノさんの眼は、とても優しい。

 

私を見つめる目ももちろん、優しい。

 

「寒いのかな。

...それとも怖いのかな」

 

「両方だろうね」

 

ユノさんの腕の中で『それ』はぷるぷると震えていた。

 

「もっと薪をくべようか?」の声に、私はストーブに太い薪を詰め込んだ。

 

今回はどんな動物のお世話をするのか、私はわくわくしていた。

 

バスタオルがのけられた時、私は絶句した。

 

「今日から君がママだ」

 

言葉を発せずにいる私に、ユノさんは肩を叩いて繰り返した。

 

「この子のママは君だ」

 

「...自分が?」

 

「そうだ」

 

「...変なの。

ねぇ、ユノさん。

この子は何ていう動物なの?」

 

「それが分からないんだ」

 

ユノさんは困りきった顔をして肩をすくめた。

 

「動物園にいたんでしょ?

それなのに、分かんないの?」

 

「アルパカの檻にいたんだ、ある朝突然。

誰にも知られずに妊娠していて、ひっそりと産み落とされた子ってことはあり得ない。

アルパカは全頭雄だし、見ての通りこの子はアルパカじゃない」

 

「...そうだね」

 

「母親が分からないんじゃ、正しい檻に戻すこともできない。

飼育員部屋で世話をしていたんだが、警戒心が強くてね、満足にミルクも飲まない。

このままじゃ衰弱死してしまうから、連れ帰ったんだ」

 

遠巻きに見ていた私は近寄って、毛布の上でふるふる震える小さな生き物を近くから観察した。

 

タミーは興味津々で、『それ』の匂いをくんくん嗅いでいる。

 

タミーはよく出来た犬だから、吠えたり噛んだり絶対にしないのだ。

 

「飼育員のひとりが試しに、子ヤギを産んだばかりの母ヤギにあてがってみたんだ」

 

「どうだった?」

 

ユノさんは首を振り、『それ』の耳の下を指で指した。

 

血が滲んでおり、ヤギの親子に拒絶されたんだろうと、ユノさんの説明がなくても察せられた。

 

「何を食べるかも分からないの?」

 

「今はミルクだね。

大きくなったら何を食べるんだろうね」

 

「ユノさん、調べてくれないの?」

 

「ママになった君の仕事だよ。

この子は何が好きで、何が苦手なのか、注意深く観察して見つけるんだ」

 

「名前を決めないとね」

 

私は何てつけようかなぁと、視線を彷徨わせかけたとき、

 

「名前はもう決まってるんだ。

『あの子』や『それ』じゃ不便だったから、俺が付けた」

 

と、ユノさんは言った。

 

名付け親になりたかった私はがっかりした。

 

「この子は『チャンミン』だ」

 

「...チャンミン...」

 

「ああ。

いい名前だろう?」

 

ユノさんはニコニコとご機嫌で、ストーブの上でしゅんしゅん音を立てていたヤカンを下ろした。

 

「バケツを持っておいで。

それからタオルも」

 

私は雪が吹きすさぶポーチへバケツを取りに行き、バスルームからタオルを抱えてリビングへ戻った。

 

ユノさんはぐらぐらに沸いたお湯をバケツに注ぎ、ちょうどよい湯温になるまで水を加えるごとに、指で湯温を確かめていた。

 

「よし」と頷いたユノさんは、タオルをお湯に浸してゆるく絞った。

 

ホットタオルでこの小さな生き物...チャンミンの身体を拭いた。

 

足先とお腹、尻尾についたウンチ汚れを拭き取った。

 

お湯を取り換え、別の綺麗なホットタオルでチャンミンの頭と背中をごしごし拭いてやった。

 

肋骨が浮き出るくらいやせ細っていて、頭ばかり大きく見えた。

 

チャンミンは気持ちよさそうに、まぶたを半分閉じている。

 

「チャンミンは君のことを気に入ったようだね」

 

「そうかな?」

 

「飼育員の誰にも心を許さなかったんだ。

歯のない口で噛みついたり、唸ったりしてさ」

 

「そっか...チャンミンにはママがいないんだね。

自分が何なのかも分からないなんて...。

可哀想だね」

 

チャンミンの頭に手を置いた。

 

私の手の平に、チャンミンの真ん丸の頭蓋骨がぴったりとおさまった。

 

 

(つづく)

 

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(10)虹色★病棟

 

 

 

「ユノさんはその大事な人と居る時も、今みたいだったの?」

 

僕はユノのゴーグルとマスクを指さした。

 

人の洋服すら触れられないユノだ。

 

どうやってその大事な人とキスをしたり抱き合ったりしていたのか、疑問に思っていたのだ。

 

食堂の窓の桟にもたれてロータリーを見下ろしていた僕は、もたれることが出来ずに突っ立った背後のユノを振り返った。

 

今日は新入りは来ないようだ。

 

「俺は潔癖過ぎるところがある」

 

「潔癖中の潔癖の潔癖だよ」

 

ぷっと吹き出した僕を、ユノは睨みつけたのち、自嘲気に唇を斜めにした。

 

「その人となら平気だったんだ」

 

ユノの答えが意外で...いや、意外じゃなかった、そうだろうな、と。

 

「その人となら、マスクも手袋もいらない、消毒液で清めなくていい。

裸で抱き合えたよ」

 

「......」

 

「その人だけだよ」

 

僕はごくり、と唾を飲み込んで「そうなんだ...」とつぶやいた。

 

「じゃあ、その人は無菌でクリーンだと思えたから?」

 

「いいや、違う」

 

ユノはきっぱり否定した。

 

「その人は特別だったんだ。

俺がLOSTに逃げ込まざるを得なかったのは、その人が特別だったからだよ」

 

ユノは『特別』を繰り返した。

 

その人はよくて、僕は駄目なんだ。

 

僕は哀しくなった。

 

待って。

 

チャンミン、落ち着いて。

 

ユノとは出会ったばかりなんだよ。

 

素性の知らない、頭がおかしくなった男に、1日やそこらで気を許すわけないじゃないか。

 

でも...ユノと会話を交わし、共に日差しを浴び、ラムネを見て...僕に涙を見せて...。

 

ユノに近づけた気がしていたんだ。

 

落ち着いて、チャンミン。

 

たった1日で、心の防御が緩むはずないじゃないか!

 

ユノとの日々を重ねてゆけば、彼の大事だった人の記憶が遠のいていく。

 

その暁には、彼のテリトリーに入れてもらえるようになるかもしれないじゃないか。

 

ああ、やっぱり無理だ。

 

僕らは何かを育むために、LOSTに閉じ込められているんじゃないんだ。

 

ユノの言葉、『お前は面白い奴だ』に、僕は特別なんだと早合点して、鵜呑みにしていたんだ。

 

馬鹿な僕。

 

僕はユノの横顔ばかり見つめている。

 

落ち着いて、チャンミン。

 

心の小箱がガタガタと揺すっている。

 

僕は目をつむり、爆発しそうになるのを握ったこぶしに逃す。

 

大きく深呼吸を繰り返して、吐息と共に逃がした。

 

LOSTにいる理由と目的を、すっかり忘れてしまうところだった。

 

「...チャンミン。

大丈夫か?」

 

僕の異変に気付いたユノが、様子を窺っている。

 

「待ってて...すぐによくなるから」

 

手袋をはめたユノの手が、僕の肩を抱いてくれることはない。

 

哀しくなった。

 

 

 

 

翌日の午後。

 

僕は日課の昼寝をしていた。

 

さらさらと乾いたシーツに、寒くもない暑くもない丁度良い気温で、気持ちのよい昼寝をしていた。

 

窓からの風に頬を撫ぜられ、僕は目を覚ました。

 

窓の桟にひっかけた洗濯物が揺れるさまを、昼寝後のけだるさに浸った状態で見ることなく見上げていた。

 

「チャンミン!」

 

ドアをドンドン叩く音に、僕は飛び起きた。

 

「出て来い!」

 

ユノだ。

 

僕はため息をついて、大声で返事をした。

 

「今行くよ」

 

防御が厳しい男なのに、僕に対しては厚かましく強引なのだ。

 

「早くしろ!」

 

「急かさないでよ!」

 

下着1枚だけだった僕は、クローゼットの引き出しを開けた。

 

「ど、れ、に、し、よ、う、か、な」

 

虹色に並んだいろとりどりのパジャマを、順に指さしていった。

 

待てよ。

 

あのユノの様子じゃ、おやつを一緒に食べようとかトランプをしようといった平和なものじゃなさそうだ。

 

パジャマもワンピースも相応しくないと判断して、もうひとつの引き出しを開けた。

 

「まだか?」

 

「行く、今行くよ」

 

「部屋で待ってるぞ」

 

ベッドからずり落ちた毛布はそのままに、僕は部屋を出た。

 

「あ!」

 

廊下まで出て、部屋に引き返した。

 

マスクと手袋を装着するのを忘れていたのだ。

 

 

 

 

「お前はステーションからドライバーを借りて来い」

 

「え...?

ユノさん...何をする気?」

 

「模様替えだ」

 

文句も質問も一切受け付けないぞ、と言わんばかりにユノは宣言した。

 

ユノの部屋の前には、窓ガラスサイズのボール紙で包まれたものと、何本もの棒が結束バンドで留められて立てかけられていた。

 

模様替えの範疇を越えている!

 

「昨日注文したやつ?」

 

「ああ」

 

「何これ?

何の材料?」

 

「オリジナルは設計図を書かなきゃならんから、既製品の寄せ集めだ。

部屋に運べ」

 

「人使い荒いなぁ」

 

僕はブツブツ文句を言いながら、持ちかさばるそれらを室内に運び込んだ。

 

「中身を出してくれ」

 

「はいはい」

 

昨日までのしおらしかったユノはどこかへ行ってしまい、ジャイアンに戻ってしまっている。

 

パジャマにしなくて正解だった。

 

「お前...その方がいいぞ」

 

ユノは作業の手を止めて声をかけた。

 

「?」

 

「服」

 

「ああ、これね。

きっとユノは僕をこきつかうんじゃないかってね。

動きやすく汚れてもいい恰好にした」

 

僕は白Tシャツと黒パンツ姿だった。

 

ドライバーと共に借りてきたカッターナイフで梱包材に切れ込みを入れ、テープを剥がしていった。

 

この後、1時間ほどかけてユノの指示通りに動いた。

 

ドライバーひとつで組み立てられたものとは...。

 

ベッドの四方を取り囲んだ、透明アクリルの壁だった。

 

 

(つづく)

 

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(9)虹色★病棟

 

 

「ここだよ」

 

ユノを案内した先は、温室だった。

 

生きた植物どころか鉢植えひとつない、空っぽの温室だ。

 

ここは何のために建てられたのか分からない、大き過ぎるガラスの箱となっている。

 

曇った温室のガラスを透かして日光が斜めに降り注ぎ、地面には黒い骨組みの影を作っていた。

 

日の光に温められた熱気と植物が発散するはずの蒸しっぽさはない。

 

ガラスが割れたところから涼しい風が吹き込んでいて、案外快適な場所なのだ。

 

スニーカーの下で、粉々になったガラスがじゃりじゃりと音を立てる。

 

ゴーグルとマスク姿に戻ったユノは、砂まみれのコンクリートの上を爪先立ちになっている。

 

ユノは割れたガラスに、「凶器が散らばってるじゃないか」と指摘した。

 

「温室に入る者はいないよ。

それに...ここにいる人のほとんどが自分の中に閉じこもっている。

温室なんて視界に入っていないと思うよ。

回復してきた人はここを出ることしか考えていないし」

 

「なるほどね」

 

温室の隅に錆びついたガーデンテーブルがあり、そこに鳥籠はあった。

 

アンティーク専門店にありそうなくすんだ真鍮製で、鳥籠というより、バードケージと呼んだ方がふさわしい重厚さだ。

 

鳥の羽とフン、雑穀の殻がテーブルの上に散っていて、ユノじゃなくても近づくのに躊躇してしまう。

 

ところが、ユノは顔を近づけて、中を覗き込んでいる。

 

へぇ...小鳥は平気なんだ。

 

「餌は?」

 

「実は僕があげてるのだ」

 

毎朝の散歩の際、僕は小鳥に餌を与え、飲み水を新鮮なものに交換し、フンで汚れたトレーを掃除している。

 

厨房から貰ってきた野菜くずを手づからついばませることもある。

 

当の飼い主が不在になった今、僕が世話係となっているのだ。

 

「なんて鳥?」

 

「それが分からないんだ」

 

不思議な小鳥なのだ。

 

嘴は半透明のピンク色で、その太い嘴に何度突かれただろう。

 

「何だろうなぁ。

初めて見るよ」

 

「でしょう?」

 

「名前は?」

 

「ラムネ」

 

「そのまんまだな...」

 

「ぴったりでしょ?

僕が名付け親なのだ」

 

お腹の羽毛は青みを帯びたすりガラスのような色で、か細い脚はグロテスクな鱗に覆われている。

 

 

 

 

「飼い主はいなくなったって言ってたよな。

彼はどうしたんだ?」

 

透明ゴーグルの下のユノの視線は、ラムネを食い入るように注がれている。

 

かさついた肌、黒眼はみずみずしく潤んでいる。

 

噂を信じたユノはきっと、飼い主は死んでしまったと考えているのだろう。

 

「ここを出て行ったんだよ」

 

「それってつまり...?」

 

「文字通り出て行ったんだ。

ユノが想像しているところじゃないよ。

彼は元気になって、ここにいる必要がなくなったんだ」

 

「小鳥を置いて?」

 

「連れ帰るのは難しかったんじゃないの?」

 

僕らは温室を出た。

 

なぜ連れ帰るのが難しかったのか、僕の判断で詳細をユノに教えることはできない。

 

僕でさえ1年前に知ったんだ、ユノが知るにはまだまだ早い。

 

「この温室...何のためにあるんだろうなぁ」

 

「さあ...。

憩いの場?」

 

コの字型の建物の先端を見上げているユノの首は、喉仏ばかり目立っていた。

 

僕はユノの二の腕を押した。

 

ユノの真っ白なスニーカーが、たばこの吸い殻を踏みつけそうだったんだ。

 

「!」

 

僕を睨みつけるのは当然のことで、条件反射のようなもの...でも...小さく傷ついた。

 

「悪かった」

 

ユノは僕が傷ついたって、気付いたんだろう。

 

「あとでガウンを洗濯すればいいよ」

 

「悪かった」

 

「いいって」

 

「なんで吸い殻が落ちてるんだよ?

禁止されてるんだろ?」

 

「内緒で持ち込んだんだろうね。

ジャケットの裏に縫い付けた秘密のポケットに仕込んだりしてさ」

 

似たようなことを僕もしていた。

 

「ボディチェックまではしないんだ。

ね、案外ここはゆるいんだ」

 

「なんだ...惜しいことをした」

 

ここに入所する際の約束事をきっちり守ったユノは、真面目なんだなぁと可笑しかった。

 

 

「人の心とは、不可思議過ぎてぞっとする。

一昨日の俺と昨日の俺は違う。

はあ...疲れるよな」

 

帰りのエレベータの中で、ユノは独り言のように口を開いた。

 

「そうだね」

 

僕は3年前と2年前、1年前と今の違いしか分からない。

 

日々の変化には気付けない僕と違って、ユノはナイーブなんだろう。

 

「後を追うつもりだった。

俺の一部を無くしたんだから」

 

「...分かるよ」

 

辛いだろう。

 

辛くて辛くて仕方ないだろうに、僕と居る時は平気そうで、事情を知らなければ大事な人を失ったばかりの人には見えない。

 

夜は寝付けず寝返りを何度も打ち、涙を流しているんだろうな。

 

目の下の隈や、赤く色づいた唇は皮がむけている。

 

「だからだよ。

人の気持ちとは不可思議だって言ったのは」

 

「どういう意味?」

 

規定時間より30分も早く戻った僕らは、食堂の窓辺に立った。

 

「失意でどん底にいるはずなのに、別の部分では違う感情があるんだ。

ラムネを綺麗だと思ったりさ。

まるで心が2つも3つも、別にあるみたいだ」

 

「ひとつしかなかったら、心が壊れてしまうんじゃないかな?

僕の場合は、そのうちのひとつは小箱に仕舞いこんで、それ以外のいろんなのは外で自由に遊ばせてる。

同時進行なんだ...うん、そうだって」

 

「なるほど...。

お前といて面白いと思うのも、それが理由なんだな」

 

「......」

 

僕への褒め言葉、第二弾だ。

 

ヤッホーと飛び上がりたかった。

 

ぴょんぴょん跳ねたら、スタッフたちに記録されてしまう。

 

ユノの台詞にどう返答したらよいのか...そして、凄く照れてしまって、代わりに質問で返した。

 

「そうだ!

行きのエレベータで何か言いかけてたでしょ?

何?」

 

ユノはしばし考え込んでいた末、「ああ」と思い出したようだ。

 

「さっきお前が俺に質問したことと同じ内容だよ。

お前も辛かったんだな?」

 

「まあね...。

また教えてあげるよ。

まずはユノの心が丈夫になってからね。

僕の話はそれからだ」

 

「分かった。

お前の話はおいおい聞いてやるよ」

 

完全防備になるとユノは、僕のことを『お前』と呼ぶ。

 

 

(つづく)

 

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(8)虹色★病棟

 

 

「...ユノは...誰をなくしたの?」

 

顔を覆って嗚咽を漏らすユノを抱きしめてあげたい。

 

3年前の僕を抱きしめてくれる人はいなかったから。

 

ぎりぎりまで迷って、僕は傾けた半身を起こした。

 

僕のパジャマはユノにとってばい菌だらけなのだ。

 

ユノの肩の震えが止まるまで、僕は辛抱強く待った。

 

ユノの白いうなじとぽつんとあるホクロ、パサついた黒髪を眺めていた。

 

「...結婚していたんだ」

 

やっとのことで聞き取れる、掠れた小さな小さな声だった。

 

「...そっか」

 

覆っていた両手を下ろし、浅く微笑んだユノは悲し気だった。

 

ちょっとだけ胸のつかえがとれたかのような、すっきりとしているようにも見えた。

 

太陽光の下で見るとよく分かる。

 

ユノがどれだけ消耗した顔をしているかを。

 

削げた頬や、荒れた肌、腫れぼったいまぶた、目の下はたるんで黒ずんでいた。

 

そうであっても、ユノは女性的で繊細な容貌の持ち主だった。

 

まだ1か月だと言っていた。

 

死にもの狂いでここを探し出し、除菌アイテムを携えてここに飛び込んできただけでも、ユノは賢明だ。

 

ユノは弱虫じゃない。

 

大事な人をなくして絶望し、それでも生き続けたいと望んだんだ。

 

今が一番辛い。

 

よくなったかと思えば、ぶり返す喪失感に相当長期間苦しむだろう。

 

単なる隣人に過ぎない僕だけど、穴ぼこだらけのユノを放っておけなかった。

 

ゴーグルとマスクを装着して、失意の底に落ちているくせに、堂々とした足取りで現れたユノにノックアウトされたんだ。

 

とんでもない奴が登場したぞ、って。

 

僕はカウンセラーでも何でもないけれど、寄り添うだけならできる。

 

「なくしたって...事故、だとか?」

 

踏み込み過ぎた質問だったかもしれない。

 

「中庭...じゃなくて、裏庭だな」

 

案の定、ユノは僕の質問に答えず、呆れたように周囲を見回した。

 

中庭、と聞いて拍子抜けしたのだろう。

 

中央に噴水があり(神話の女神が抱え持ったカメから水が)砂利敷きの小路、深緑色のベンチ、蔓を模したフェンスにつる薔薇が絡まり、素焼き鉢から青や黄色の花が咲きこぼれ、藤棚の下にはテーブルセット。

 

...こんな光景を想像していたのだろう。

 

ユノじゃなくて、この想像図は僕のだった。

 

3年前、自室でじっとしていられなかった僕は、中庭をぐるぐると動物園の動物みたいに歩き回っていたんだ。

 

障害物が少なくてかえっていい、と思っていた。

 

ホコリで曇ったガラスの温室と、小さな池があるきりで、花壇も噴水もなかった。

 

レンガとレンガの間から雑草が顔を出し、入居者の誰かが捨てた菓子パンの袋が落ちていた。

 

僕らが座っているベンチも飲料メーカー名がプリントされたもので、それも日光で色褪せていた。

 

貧弱な庭であっても、外の空気は気持ちがいい。

 

 

 

 

見上げるとすかっと青い空。

 

視線を落とすと、僕らが暮らす階の部屋の窓が並んでいる。

 

入居者の誰かが、中庭を見下ろしているかもしれないし、自室のベッドで身を丸めているかもしれない。

 

隣のユノも天を見上げ、顔全体に太陽光を浴びているのは、紫外線殺菌しているからなんだろう。

 

「俺って変人だろ?」

 

「さあ、どうだろ。

最初はびっくりした。

でもね、ここにいるとユノ程度は大したことないよ。

もっと変な人も多いし、僕だって似たようなものさ」

 

「チャンミンの変わっているところといえば...ワンピースと白しか食わんところ?」

 

「実はね、他にもあるのだ」

 

「へぇ。

例えば?」

 

「たまに大暴れする」

 

ユノは「暴れる?」と、眉を持ち上げた。

 

「文字通り暴れるんだ。

スタッフ3人がかりに押さえつけられるの」

 

僕は肩をすくめてみせた。

 

「そんな風に見えないけれど?」

 

「だからここにいるんじゃないか。

はあ...。

人の本性なんて、普段の姿からはうかがい知れないものなんだよねぇ。

やり場のない感情、自分じゃとても処理しきれない感情。

心の奥にね、小箱があるんだ。

何重にも鍵をかけているのが、ある時鍵をぶっ壊すんだ。

箱の中にトラを飼っているのかもしれないし、灰色のスライムを押し込んでいるのかもしれない。

僕はその小箱のお守りをしているんだよ」

 

「......」

 

ずばりストレートに話せばいいのに、『小箱』だなんて例えをしてしまったのには理由がある。

 

知り合って日の浅い人物に...それも、応急処置を施しただけのユノに、自身の心の内を赤裸々に語るのはまだまだヘヴィだと思ったからだ。

 

少しずつ教えてあげればいい...ただし、ユノが知りたければ、という条件付きだけどね。

 

僕はと言えば、ユノの過去が知りたい。

 

沈黙をやぶってユノはつぶやいた。

 

「小さい箱だからいけないんじゃないのか?」

 

「え?」

 

「小さいから溢れるんだろう?

その箱をでかくしてやればいいじゃないか」

 

「ユノにも小箱がある?」

 

「う~ん...。

俺の場合は、箱とはちょっと違うなぁ」

 

ユノの視線はコの字を塞ぐフェンスの向こうに注がれていた。

 

あ...。

 

僕の話はやっぱり踏み込み過ぎていたようだ。

 

ユノの目尻から透明な雫がふくらんで、頬を伝った。

 

僕は慌てて除菌ティッシュを引っ張り出して、顎につたったユノの涙を押さえた。

 

手袋をはめたままのユノの指が、僕の手の甲に触れた。

 

「ごめん...」

 

拒絶だと受け取って引っ込めようとした僕の手は、ユノの指に捕らえられたままだった。

 

「ユノ...」

 

「はあぁ...。

独りでいたらどうにかなっていた」

 

ユノは僕から除菌ティッシュを受け取り、目頭を拭いた。

 

「お前は不思議な奴だ。

ここに居るのが勿体ない奴だな」

 

これは褒め言葉だ、そう受け取った僕は「えへへ」と鼻の下をこすった。

 

「そうやって漫画みたいな仕草とかさ。

子供みたいだな」

 

「そう?」

 

ここに居ると僕はどんどん子供っぽくなっていくと、自覚はあった。

 

「ユノだって、子供にかえっちゃうかもよ?」

 

「それは困る」

 

「ここの名前、知ってるでしょ?」

 

「いや...それどころじゃなかったから」

 

「『LOST』だよ」

 

「LOST...。

...ここで何かを失うのか?」

 

ユノの眼がぐらりと揺らいだ。

 

恐怖と期待が入り混じっていた。

 

こんなに真っ黒な眼、初めて見た。

 

「つまらない大人のプライドを失うのかもしれないし、辛くて仕方がない感情を失うのかもしれない。

ピュアな子供に還っていくのかもしれない。

それとも途方に暮れている僕らの姿かもしれない」

 

「つまり、どう受け取るかは俺次第ってことか」

 

「大丈夫。

ここに居れば、確実に楽になれるよ」

 

「おし!」

 

ユノは膝を叩いて、立ち上がった。

 

いつの間にか太陽が建物の陰から顔を出し、日光がユノの輪郭を縁どっていた。

 

「例の小鳥を見せてくれ」

 

「うん!」

 

 

(つづく)

 

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