(最終話)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

ノック音に、ユノさんの帰りを今か今かと待ちわびていた私は、玄関ドアに飛びついた。

 

「...ユノさん?」

 

ユノさんの腕の中に、バスタオルにくるまれた『それ』はいた。

 

ユノさんの腕の中のものを覗き込んだ。

 

私の傍らで眠っていたタミーも、のそりと起き出してユノさんの足元へ寄ってきた。

 

バスタオルの隙間から肌色の鼻がのぞいていた。

 

指を近づけると、匂いを嗅ごうとひくひくとうごめいていた。

 

「赤ちゃんなの?」

 

「生後2週間だ。

毛布をもっておいで。

この子を下ろすから」

 

ユノさんの腕の中で『それ』はぷるぷると震えていた。

 

団扇のような耳、子豚のような鼻に4色の毛皮、短すぎる脚と尻尾。

 

まぶたを縁どる白いまつ毛の下、その瞳は焦げ茶色をしていた。

 

「...この子...どこに?」

 

鼓動が早かった。

 

「アルパカの檻にいた。

今朝の話だ。

...今度こそ、本当の話だよ」

 

「嘘みたい...」

 

「嘘みたいだけど、本当の話だよ」

 

「...夢じゃないよね」

 

「夢なものか。

さあ、名前は何て付ける?」

 

「私が決めていいの?」

 

「もちろん。

チャンミン、君への誕生日プレゼントだ。

っていう言い方も変だなぁ。

チャンミンのところに来たい、って突然現れたギフトだからね」

 

「...嘘」

 

私はそうっと腕を伸ばし、小さくか細いその子を抱き上げた。

 

渦を巻くおへその下の突起に、この子がオスだと知った。

 

「えっと...名前は...」

 

実は瞬時に思いついた名前はあったのだ。

 

でも、照れくさくて口に出すまでに数秒の間が出来てしまった。

 

「...ミンミン」

 

ユノさんったら酷い...子供みたいにお腹を抱えて「わーはっはっは」って笑い転がるだから。

 

「ミンミンは...消えたりしないよね?」

 

「消えないよ。

チャンミンはチャンミンだし、ミンミンはミンミンだ。

ずーっと俺たちと暮らすんだ。

チャンミンの弟なんだから」

 

「よかった」

 

ユノさんへの誕生日プレゼントはワイン色のセーターで、タミーへはクッキーの詰め合わせだ。

 

「私もね、ミンミンの為にあるんだ」

 

白の毛糸で編んだ帽子だった。

 

この帽子は両耳を覆い隠してくれ、顎の下で紐を結ぶと、温かな頬かむりになるのだ。

 

今のミンミンにはそれは大き過ぎて、ポンチョのようだった。

 

私はユノさんに頼まれなくても、ストーブからヤカンを下ろし、熱いお湯をバケツに注いだ。

 

ホットタオルでこの小さな生き物...ミンミンの身体を拭いた。

 

足先とお腹、尻尾についたウンチ汚れを拭き取った。

 

肋骨が浮き出るくらいやせ細っていて、頭ばかり大きく見えた。

 

ミンミンは気持ちよさそうに、まぶたを半分閉じている。

 

「ミンミンは君のことを気に入ったようだね」

 

「当たり前だよ。

だって私はこの珍獣にはとても詳しいの」

 

 

 

 

彼は13カ月、私たちと暮らした。

 

ふいに、たまらなく彼に会いたくなる。

 

そんな時は、胸に手を当てる。

 

空想の草原を、彼はのびのびと駆けまわっている。

 

私がちゃんとついてきているか、立ち止まり振り返る。

 

彼は心配性なのだ。

 

「大丈夫だよ!」

 

安心した彼は「僕についてこられるかな?」と、コビトカバ的お尻を振って先導していくのだ。

 

私はミンミンを連れて、現実の草原を走り回る。

 

ミンミンの団扇のような両耳は風にたなびき、大きなお尻が弾んでいる。

 

名前を呼ぶと、全速力で私の腕の中に飛び込んでくる。

 

私の手からミルクを飲んでいたミンミンは、スイカ1個分まで成長していた。

 

雪どけ後の地面はじくじくと水気が多く、ミンミンに飛びつかれた私のズボンは泥だらけになってしまった。

 

ミンミンと並んで地面に腰を下ろし、木柵にもたれて眼下の景色を眺めた。

 

魔法瓶につめてきた熱くて甘いお茶を飲んだ。

 

ねえ、ミンミン。

 

まだ君について知らないことばかりだよ。

 

街の彼方にあるであろう海に想いを馳せる。

 

ミンミンの肌色の鼻がひくひくとうごめいている。

 

山と街を越えてきた風から、潮の香りを嗅いでいるのだろうか。

 

「夏になったら皆で海に行きたいです」

 

「うん、行こうね」

 

「...ねえ、チャンミン」

 

ミンミンの前足が、私の手首にとん、と添えられた。

 

「なあに?」

 

「僕と君は...」

 

焦げ茶色の目で、私をじぃっと見上げている。

 

「ずっと一緒ですよね?」

 

瞳孔は漆黒で虹彩は深緑、とても不思議な瞳をしている。

 

視力があるのか疑ってしまうほどに美しい瞳だ。

 

「もっちろん!」

 

不安がるミンミンのために、私は何度でも「どこにも行かないよ」と繰り返す。

 

これから何度も撫ぜるであろう、ミンミンの頭を優しく撫ぜた。

 

まん丸な頭蓋骨から伝わるミンミンの体温が、じんじんと私の手の平を温めた。

 

「僕はこの通りチビ助ですけど。

僕とチャンミン...友だちですよね?」

 

「もちろん!」

 

日差しは温かいけれど、風はまだ冷たい芽吹きの季節。

 

黄緑色の細かな点々が、日に日に灰色の世界を埋め尽くしていくだろう。

 

私とミンミンは同じものを見て、各々にもの思いにふける。

 

私はいつか読んだ物語のシーンに似ていると思い、ミンミンは...何を思っているんだろうね。

 

同じ小鳥のさえずりを聴いて、私は過去を思い出して切なくなり、ミンミンは小鳥を捕まえようとジャンプする。

 

同じ風を頬に受けて、私にはちょうどよく、ミンミンは肌寒く感じている。

 

ミンミンは「ぶちゅん」とくしゃみをすると、垂れ下がった鼻水をずるんとすすった。

 

「そろそろ帰ろうか?

夕飯の用意をしなくっちゃ」

 

「僕もお手伝いします」

 

「味見係は間に合ってるから、ミンミンは外で遊んでいてよ」

 

私の言うことなんて聞きやしないミンミンは、既に家へと走り出している。

 

「僕についてこられるかな?」

 

「ミンミン、ずるい!」

 

ぬかるんだ地面と長靴履きで、走りづらいったら。

 

「ユノさんが帰ってきた!」

 

私たちに気付いたユノさんは、笑顔になって運転席から手を振っている。

 

赤いトラックに負けまいと、私もミンミンの白いお尻を追った。

 

優しいユノさんは、スピードを落として私たちに並走してくれる。

 

ユノさんへ抱く恋心に気付いたのは、それから数年後のことだった。

 

 

 

(おしまい)

 

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(34)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンの好きなところ。

 

風邪気味の時の鼻ちょうちん。

 

熟睡している時の白目。

 

威嚇の時の「くるるる」と鳴らす喉の音。

 

駆けっこが好きで、食い意地がはっている。

 

我慢強く、強靭な肉体の持ち主だということ。

 

床まで鼻水を垂らして大泣きするところ。

 

私のご機嫌とりがうまいところ。

 

悪戯を見咎められた時、悪戯をしたのはチャンミン自身なのに、きょろきょろと周囲を見回すのだ。

 

それから、頭も肩も落とし、白いボタン型の眉根を持ち上げる。

 

一目散にテーブルの下に隠れる時もあれば、近場にいい具合の隠れ場所がない時は、そろりと私に近づいてくる。

 

「まあまあ、お怒りなのはごもっともですが」と言わんばかりに、私の握りこぶしにとん、と前足を添える。

 

そのひやりとした肉球にもっと触れていたくて、私はそっぽを向いて機嫌を損ねたふりをし続ける。

 

反対にチャンミンの機嫌を損ねてしまった日、名前を呼んでも彼は聞こえていないふりをする。

 

私にお尻を向けてぺたりと床に伏せ、聞こえている証拠に彼の耳はぴくぴくと震えている。

 

チャンミンは強情っぱり屋なので、仲違いは夜まで引きずる日もある。

 

ユノさんにやたら甘え、彼の寝室についていってしまうのだ。

 

その後の予想がついていた私とユノさんは顔を見合わせ、苦笑する。

 

早くて1時間、ぎりぎり頑張って午前3時が限界だ。

 

寝室のドアは開けたままにしておいた。

 

マットレスが軋み、私の腕の下に丸々としたぬくもりがねじ込まれる。

 

私の意識は半分眠ったままで、チャンミンのお腹があるとおぼしき辺りを掻いてやる。

 

チャンミンの鼻息が、私の顎を湿らした。

 

この時の鼻息は憤りのものではなく、チャンミンが満ち足りた時に漏らす、低い響きをもったものだ。

 

性別は雄。

 

生後13カ月。

 

鳴き声は聞いたことがない。

 

団扇みたいに大きな耳。

 

子豚みたいに大きな鼻。

 

ロリスみたいに大きな目。

 

コビトカバみたいに丸く大きなお尻。

 

ダックスフンドみたいに短い四肢。

 

お尻の穴を隠すのがやっとの短い尻尾。

 

4色のまだら模様の毛皮。

 

前足は5本指、後ろ足は二股のひづめ。

 

世界の動物たちの寄せ集めみたいな、奇妙な生き物。

 

動物図鑑に載っていない、特別な生き物。

 

小さな喧嘩。

 

草原とトラック。

 

両耳をたなびかせ、どこまでもどこまでも追いかけてきた。

 

あの日の半べそかいた顔。

 

小さな冒険。

 

頬かむりをして、リュックサックに大人しくおさまっていた。

 

彼の命がすっしりと、肩に食い込んだ。

 

小さな才能。

 

ユノさんの革靴を綺麗に分解してしまった。

 

13カ月前。

 

私の手首をふにふにと、その小さな手で揉んでいた。

 

チュッチュチュッチュと一心にミルクを飲んでいた。

 

とても愛しい存在だった。

 

 

 


 

 

 

「チャンミン!」

 

私は飛び起きた。

 

胸に手を当てると、心臓がドクドクと打っている。

 

シーツに手を滑らせ、傍らを探った。

 

そうしなくても私には分かっていた。

 

チャンミンはここにはいない。

 

猛烈な寂しさに襲われるどころか、すとんと腑に落ちた清々しさがあった。

 

「チャンミン!」

 

この声は...ユノさんだ。

 

鋭いノックの後、ユノさんが部屋に入ってきた。

 

「...チャンミン」

 

ユノさんは全て、分かっているようだった。

 

私を力いっぱい抱きしめた。

 

「そろそろチャンミンって呼んでもいいか?」と尋ねた。

 

私は何度も頷いて、「はい」と応えた。

 

私の名前はチャンミン。

 

無くしかけていた名前を、やっとで取り戻すことができた。

 

 

 

「...アルパカの話は?」

 

朝食のテーブルでユノさんに尋ねた。

 

「適当にでっちあげた嘘だ」

 

「...ひどいよ、ユノさん」

 

「ごめんな」

 

「...『チャンミン』はいたの?

私だけの空想?」

 

「まさか!」

 

ユノさんは席を立つと、何かを手にして戻ってきた。

 

それは、取り外した洗面所の鏡だった。

 

「鏡を見てごらん」

 

2年ぶりに見る自分の顔だった。

 

自分の琥珀色の瞳を見つめていると、彼の瞳と心が溶け合った感覚を思い出す。

 

彼は確かに実体をもった生命体だった。

 

眉の上の傷跡を撫ぜた。

 

ユノさんが唯一の目撃者で証人だ。

 

そうでもないか...タミーも、その他の人間にも見られたんだから。

 

「...彼はどこから来たの?」

 

「仕事が終わって帰ろうとした時だ。

トラックの助手席にいた。

これは嘘じゃない、本当の話だよ」

 

「突然現れたの?」

 

「ああ。

最初は彼の正体は分からなかった。

助手席で震えて、俺を見上げる目でピンときた。

君と一緒にいる彼を見ているうちに、確信した」

 

「だから『チャンミン』だったんだ。

びっくりしたんだから」

 

「だって、その通りだろ?」

 

「...そうだけど...」

 

「彼は唯一無二の生き物だ。

図鑑に載っていなくて当然なんだよ」

 

「そっか...。

それにしても、不細工だったね」

 

「不細工だったかもしれないね。

...でも、愛おしかっただろう?」

 

「うん...可愛かった」

 

ユノさんは席を立ち、私の後ろでしゃがみ込むと、私と並んで鏡に顔を映した。

 

「どうして現れたんだろう...」

 

「君なら...チャンミンならその理由は分かるはずだよ」

 

笑顔になったユノさんと、鏡の中で目を合わせた。

 

鼻の奥がつん、とする。

 

 

私は胸に手を当てた。

 

大丈夫。

 

彼は私の中で息づいている。

 

彼は私自身で、私は彼自身だった。

 

彼にとって、私だけがママであり、親友であり...同士であった。

 

たった13年の人生で、彼と出逢えたことが奇跡だった。

 

私の心の中に、ここまで愛らしく、やんちゃで優しいものが存在していたなんて...彼と出逢うまで知らなかった。

 

彼を愛おしむごとに、縮こまった心が緩んでいった。

 

私自身気付いていなかった傷口を癒してくれた。

 

私の全てを肯定してくれた。

 

あの日、両親とともに腐敗したはずの...目にするのも耳にするのもおぞましい...名前と顔が帰ってきた。

 

「うっ...うーっ...うっ」

 

かれこれ30分以上も泣き続ける私に、ユノさんは慰めるどころか笑って言うのだ。

 

「チャンミンは男の子なのに泣き虫だなぁ」

 

「そうだよ、私は泣き虫なの」

 

同じような台詞を、彼も口にしていたことを思い出した。

 

ひっくひっくと嗚咽を漏らす私は気付くのだった。

 

彼はどこまでも無口な子だったなぁ、と。

 

 

 

「今夜は誕生日パーティなんだろ?

楽しみだなぁ」

 

ユノさんはお弁当の入ったバッグを肩に引っかけ、私の頭を撫ぜた。

 

「行ってらっしゃい。

今日こそお花を買って来てね」

 

「チャンミンが買いに行ったらどうかな?」

 

「......」

 

「チャンミンなら行けるよ」

 

「...分かった」

 

私はしぶしぶ頷いた。

 

ユノさんのトラックが雪原と空の境界線へと消えていく。

 

 

長靴を履いた私は、雪道を闊歩する。

 

街へ出ても古本屋とカフェ以外へ足を踏み入れたことのない私だった。

 

少しばかり勇気が必要だったけど、今の私なら多分...大丈夫。

 

私は胸に手を当てた。

 

大丈夫。

 

(つづく)

 

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(33)君と暮らした13カ月

 

~冬~

 

あの出来事が人生の最低点だと思えば、今の地点はなんと幸福なことだ。

 

人生はこうやって比較することで、幸せとか不幸せだとかを測っていくのかな。

 

「俺も手伝おうか?」

 

チョコレートを刻む私に、ユノさんは声をかけてくれる。

 

板チョコ3枚分。

 

「ユノさんはチョコレートを湯煎して」

 

「ゆせん?」

 

首を傾げるユノさんに、私はコンロの上の鍋を前に湯煎の仕方を教えてあげた。

 

今日の私は料理教室の先生なのだ。

 

ぎこちない手つきでチョコレートをかき混ぜるユノさんを横目に、私は得意げだった。

 

チャンミンは外で、タミーと遊んでいる。

 

チャンミンにプレゼントを渡す明日を想像し、私の頬はほころんだ。

 

「タミー!

チャンミーン!

おやつだよ」

 

大声で呼ぶと、雪まみれの彼らが家の中へと転がりこんできた。

 

失敗して焦がしたスポンジケーキがおやつだ。

 

タミーはひと口で、チャンミンは少しずつ大切に食べていた。

 

赤々と燃えるストーブの前で、午後3時のティータイムを楽しんだ。

 

こんな時が永遠に続いたらいいのに。

 

そう願った私は、何かを感じとっていたのだろう。

 

 

その夜のチャンミンは甘えん坊だった。

 

私の脇の下に鼻づらを突っ込み、全身を私の胸とお腹にぴたりと密着させて寄り添った。

 

チャンミンのまん丸い頭のてっぺんに、唇を押しつけた。

 

「僕はあなたが大事です」

 

チャンミンがそう言っているようだったから、「私もチャンミンが大事だよ」と心の中でつぶやいた。

 

私はよしよしと、チャンミンの背中を撫ぜた。

 

「明日はユノさんの誕生日だね。

ワクワクするね」

 

「僕とあなたの1か月遅れの誕生日でもありますね」

 

「私もチャンミンも、正確な誕生日が分からないなんてね。

確実に分かっているのはユノさんの誕生日だけ」

 

「それならば、ユノさんの誕生日を基準にしましょうか?

1か月遅れだなんて、中途半端です」

 

「いいね!

そうしよう」

 

「...となると、12歳のあなたは13カ月あったことになりますね」

 

「チャンミンもそうだよ。

13カ月で1歳だね」

 

「1歳ですか...赤ちゃんみたいで嬉しくないですね」

 

「ユノさんに教えてもらったことがあるの。

チャンミンを犬に例えると、1歳で中学校に上がる頃に成長しているんだって」

 

チャンミンの眉根にしわがよった。

 

「僕は犬じゃありません」

 

「分かってるよ。

それからね、これは本に書いてあったことなんだけど、13月が存在する暦もあるんだって」

 

「13月...神秘的な響きですね」

 

「他にもね、1月を13月、2月を14月とする暦もあるの。

それからね、月の満ち欠けでひと月とする暦もあってね、3年に一度閏月を作って日づけのずれを直してたんだって。

3年に一度、13月が登場するの」

 

熱心に話す私をよそに、チャンミンは大きなあくびをした。

 

「だからね、私とチャンミンのこれまでの1年はとても特別な年だったんだよ」

 

これが私が言いたかったことだった。

 

眠くて仕方がない証拠に、チャンミンの身体はほかほかに温かかった。

 

目はとろん、としている。

 

「私ね、自分の誕生日に興味がなかったの。

適当に決めた誕生日を祝ってもね...嬉しくない。

ユノさんはお祝いしたがってたけどね。

でも、チャンミンがうちに来てくれたおかげで、意地張ってないでお祝いされるのもいいかなぁ、って思うようになったの」

 

チャンミンの方をちらりと見ると、彼の上まぶたは間もなく下まぶたにくっついたままになりそうだ。

 

呼吸がゆっくり、穏やかになってきている。

 

「おやすみ」

 

「チャンミン、よく眠りなさい」

 

 

どちらが先に眠ってしまったのだろう。

 

夢を見た。

 

私はチャンミンの背中にまたがっていた。

 

チャンミンの首にしがみつき、お尻の下で彼の筋肉が躍動していた。

 

速かった。

 

草原の柵を軽々と飛び越え、街を駆け抜け、荒野を突っ切った。

 

そしてたどり着いた場所。

 

視界が180度開けた光景に圧倒され、突き出した崖の上に立っているみたいに心細くなった。

 

生まれてはじめて海を見た。

 

海なんて、写真で見るだけだった。

 

家の前に広がる草原なんて、ちっぽけな世界だと思い知らされた。

 

世界はなんと広いのか。

 

チャンミンと共に潮騒に耳をすます。

 

砂浜を洗う波は穏やかで、水平線はどこまでも遠かった。

 

朝なのか夕方なのか、時刻は分からなかった。

 

唇に温かい雫を感じた。

 

私は...泣いているようだった。

 

無性に寂しかった。

 

チャンミンから飛び下り、彼の首を掻いた。

 

気持ちよさそうに鼻を鳴らした。

 

鼻づらも撫でた。

 

チャンミンと同じものを私も見ている。

 

同じ匂いを嗅ぎ、同じ音を聴いている。

 

「チャンミン...ずっと私の側にいてね」

 

「一緒にいるじゃないですか?」

 

そう答えると、チャンミンはふん、と鼻を鳴らした。

 

チャンミンの首はすんなり伸びやかで、四肢もすらりと長かった。

 

大き過ぎた耳と鼻にふさわしい肉体に成長していた。

 

短い尻尾はそのままだった。

 

まだら模様の毛皮は、何とも美しいグラデーションを描いていた。

 

チャンミンは世にも美しい生き物へと生まれ変わっていた。

 

これがチャンミンの姿を目にした最後だった。

 

 

(つづく)

 

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(32)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

春だったか夏だったか秋だったか...冬じゃなかったのは確かだ。

 

ユノさんに引き取られたのが盛夏の頃だったから、初夏だった可能性が高いかもしれない。

 

記憶がおぼろげで、季節感が曖昧だった。

 

ある日突然、施設に預けられていた私を両親が迎えに来た。

 

病院に入院しているはずの母親の登場に、まず驚いた。

 

そして、何年も前に行方をくらましていた父親も一緒にいて、私は喜ぶよりも困惑した。

 

両親は私たち三人の住まいであるアパートへと、私を伴った。

 

長らく留守にしていたせいで、部屋の中はほこりとカビの匂いがした。

 

私たちが部屋に入るなり父親は、フライパンを叩きつけて、ドアノブを叩き落としてしまった。

 

換気のために窓を開けるどころか、窓々は木の板で塞がれていた。

 

私を迎えに行く前に、両親はこの部屋の用意を済ませていたようだ。

 

その理由が分からなかった。

 

彼らは何かを計画している。

 

そして父親はバッグの中から、白い錠剤が詰まった瓶を3本取り出した。

 

その中身を数回に分けて、水で流し込みながら飲んだ。

 

飲みなさいと、白い錠剤を手の平に山盛り握らされた。

 

父親は「ラムネだよ」と言っていたけど、それは嘘だ。

 

私は一旦は口に含んだそれを、彼らに背を向け部屋の隅に吐き出した。

 

初めて目にする両親の様子が気味悪かった。

 

飲み干した後、彼らはベッドへと私の手を引き、私を挟んで横になった。

 

「お父さんはお前たちを捨てたくて家を出たのではないよ」

 

「...手紙ひとつ寄こさずに?」

 

「手紙を出せない訳があったんだよ」

 

「借金取り?

それとも、牢屋に入っていたの?」

 

父親がいなくなったのは私が5歳か6歳の頃で、事情は全く分からなかった。

 

「お父さんはお前たちのことを忘れたことは、1秒もない」

 

「ねぇ、お母さん。

病気は治ったの?」

 

「治ったわ」と母親は答えた。

 

二人して、私の名を繰り返し呼んで髪を撫ぜた。

 

その回数はこの先、彼らから呼ばれるだろう一生分と、呼べずじまいだったこれまでの分を埋め合わせるに匹敵しただろう。

 

彼らにとりたてて可愛がられた記憶がないだけに、怖かった。

 

3人揃って暮らした記憶が遠すぎた。

 

私の両隣りでゆっくりと上下していた胸の動きも、やがて止まってしまった。

 

「お父さん、お母さん」と呼んだ声は、永遠に彼らに届かない。

 

家じゅうの窓に頑丈な板が打ちつけてあり、子供の力ではどうしようもなかった。

 

窓には新聞紙が貼られていて、それを透かして差し込む日光が唯一の照明だった。

 

彼らは白い骨になってしまうまで、誰も中に入れる気などないのだ。

 

食糧庫も冷蔵庫も当然、空っぽだった。

 

唯一、グミの袋が見つかった。

 

1粒1粒大切に噛みしめた。

 

蛇口をひねると、幸い水は出た。

 

母親が私を呼んだ。

 

後になって振り返ると、この時点での母親が声を出すことはあり得なかった。

 

既に彼女は溶けかけていたのだから。

 

耳をすましていないと聞き逃してしまう微かな声で、母親は私を呼んだ。

 

彼女の言葉を聞きとろうと、私は顔を近づけた。

 

私の名を呼ぶ彼女の最後の吐息が、私の鼻腔を刺激した。

 

生暖かいそれはぶわりと私の頬を撫ぜ、湿らせた。

 

鼻がもげそうな匂いに、私の顔は腐ってしまった。

 

両親の顔も身体も溶けてゆく。

 

鼻がもげそうな吐息で囁かれて、私の名前も腐ってしまった。

 

私は10日後に救出された。

 

刑期を終えた父親と余命間際の母親...子供だけ助かった。

 

いかにもな不幸なストーリーで、この一件はしばらくの間、巷を騒がす事件となった。

 

アパートの一室で起きたことを事細かに語る術を、私は無くしていた。

 

事件の真相など私にはどうでもいいことだった。

 

そもそも、事実を何倍にも膨らませ、こしらえられた作り話だったかもしれない。

 

新聞もラジオのニュースも噂話も全部、私の目と耳を素通りしていった。

 

さらに2週間後、遠い親戚筋にあたる者だとユノさんが名乗り出てきた。

 

正常な子供だったら、大きな傷を心に負い、トラウマとなって何年も苦しむ事案だと思う。

 

両親を亡くして悲しいことよりも、彼らによって酷い目に合わされた恨みの方が大きかった。

 

悲しくもなんともない、ひとりぼっちになって寂しいとも思わない。

 

この感情の処理は、13歳の私にはまだまだ手におえない難しい課題だ。

 

恐らく私の心はとても、ひねくれていて普通じゃないのだ。

 

「本当に」悲しくないのだ。

 

悲しくならない自分が悲しかった。

 

あの事件以来、初めてかもしれない...鮮明に当時のことが頭に蘇ったのは。

 

 

 

 

膝の上に乗せていたチャンミンを目の高さまで持ち上げ、彼の鼻と私の鼻とをこすりつけた。

 

チャンミンの鼻はふわふわに柔らかく、常に潤んでいて、ひんやりと冷たい。

 

「ねぇ、チャンミン。

私って心が冷たいのかなぁ?」

 

チャンミンは首を傾げた。

 

「悲しまないといけない、って誰が決めたのです?」

 

「...えっと...世の中の人みんな」

 

「その決まりごとに沿えなかったから、あなたは冷たい人間なんですか?」

 

チャンミンは私から目を反らさない。

 

「...冷たい人間なんだと思う。

二人がいなくなっても...私、平気なんだもの」

 

「悲しい気持ちにお手本があるのなら、反対に嬉しい気持ちだったらどうです?」

 

「嬉しい気持ち...?」

 

チャンミンは長い舌で、私の鼻先をちょんちょんとつついた。

 

「宝くじに当たったとします。

賞金がすごいのです。

大抵の人は大喜びです。

でも中には、無感動の人もいるでしょうし、絶望する人もひょっとしたらいるかもしれません」

 

「そんな人っているかな?

私だったら嬉しいな」

 

「ほらね。

絶望する人を想像できないでしょう?

でも、そういう人もちゃんと存在するし、喜べないからといって責められないでしょう」

 

「そうだね」

 

「宝くじとご両親の死を比較するのは乱暴でしたね。

あなたの場合は、悲しむべきものがご両親の死であるから、余計に縛られてしまっているのです」

 

チャンミンの言うことは難しすぎたし、実は一度聞いたことがある話だった。

 

「僕が見るところ、あなたは繊細なようで、鈍感でタフなところがあるようですね」

 

「繊細で鈍感?」

 

「はい。

両方あるから、心とは複雑で面白いのです。

あなたはあなたのままでいてよろしいのです」

 

「チャンミンったら、ユノさんと全くおんなじことを言うのね」

 

以前は理解できなかったユノさんの話が、今は分かったような分からないような...でも、ニュアンスは理解できたような気がする。

 

「凄いねぇ。

チャンミンは私の先生みたいだね」

 

チャンミンは得意げに、つんと顎を上げていた。

 

 

(つづく)

 

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【31】君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

あいつだった。

 

1年前、ユノさんにこの家から追い出された、あの男だった。

 

男はポーチの影から現れた私に気付き、驚いてみせた後、笑顔になった。

 

「あいつにいたずらされていないか?」

 

男はひとりじゃなく、連れがいた。

 

「声が出せないんじゃあ...可哀そうに。

お前じゃあ、あいつの好みじゃないから、それはないか?」

 

ぎゅっと唇を噛みしめた。

 

1年近くの間、この男に懐いていた自分が馬鹿みたいだった。

 

私の後ろでチャンミンが「くるるる」と喉を鳴らす音が聞える。

 

「噛みついてあげましょうか?」

 

「我慢して。

騒ぎになっちゃうから」

 

「なんだその不細工な犬は?」

 

私の中で何かがぷつん、と切れて、気付いたらスコップを振りかざしていた。

 

振り下ろそうとした間際で、私のジャンパーが後ろに引っ張られ、その勢いで私は尻もちをついた。

 

私の手から投げ出されたスコップは、傍らの雪の山に刺さった。

 

「あなたが手を出したら、騒ぎになりますよ」

 

私を止めたのはチャンミンだった。

 

今は不細工であっても、チャンミンは進化の途中なのだ。

 

今は例え不格好であっても、大人になれば...もしかしたら...美しい生き物に変化するのだ...きっと。

 

男は私に近づくと、私のあごを片手でつかんだ。

 

指が頬に食い込んで痛かった。

 

「相変わらず綺麗な顔をしている」

 

私は即座に顔を背けた。

 

顔を見られるのは...嫌いだ。

 

チャンミンの喉を鳴らす音がより大きくなったので、私は手を振って襲ったりしないよう彼を制止した。

 

男に負けるものか、と私は彼に向き直って、眼力を込めて睨みつけた。

 

男は私から手を離すと、私の狂暴な眼に怯んだ自身を隠すかのように、その場に唾を吐き捨てた。

 

もし私が大人の女の人だったら、ユノさんを「放っておかない」...大人の男の人だったとしても同様だと思った。

 

ユノさんを好きになる人は、いい人であって欲しいと思った。

 

車に乗り込んだ二人が雪原の彼方に消えたのを見届けた時。

 

チャンミンは見事なジャンプ力で貼り紙に飛びついた。

 

地面に着地すると、むしり取ったそれをむしゃむしゃ食べてしまった。

 

私は男が唾を吐いたあたりの雪をすくい、前庭の外へと投げ捨てた。

 

ユノさんを守った満足感でいっぱいだった。

 

チャンミンと顔を見合わせ、頷き合った。

 

ユノさんに守られているばかりでいられない。

 

私も強くならないと。

 

 

誕生日を翌々日に控え、私はその準備に勤しんでいた。

 

輪っかにした折り紙を繋いだもので、壁を飾り付けた。

 

ギンガムチェックのテーブルクロスにアイロンをかけた。

 

花はユノさんが仕事帰りに買ってきてくれる予定になっている。

 

去年まではここまでのことはしなかった。

 

ユノさんの為に編んだセーターも3日前には完成し、包装紙に包まれ私の部屋に隠してある。

 

チャンミンとタミーへのプレゼントも、ちゃんと用意してある。

 

今日やるべき用意は済んだので、私は読書の続きに戻ることにした。

 

主人公の娘が父親くらい年の離れた男性に恋をする物語に、私は胸をときめかしていた。

 

ページをめくるたび、チャンミンにポップコーンを放ってやる。

 

チャンミンは私の指先の動きに注視しており、ポップコーンを摘まむと同時に口を開ける。

 

5回に1回は意地悪をして、そのポップコーンは私の口に入ってしまう。

 

チャンミンはじつに恨めしそうな眼で、私をじぃっと見上げていた。

 

「あっ!」

 

チャンミンは私の靴下を引っ張り脱がすと、それを咥えて行ってしまう。

 

「こら!」

 

台所のシンクの下で、私の靴下をしゃぶるチャンミンを抱き上げた。

 

これまで何度、頬ずりしただろう。

 

チャンミンのお腹に頬を埋めた。

 

いつまでこうしていられるだろう。

 

裸足の足裏に、台所のタイル床は氷のように冷たかった。

 

 

チャンミンを抱っこしたまま窓辺に近づいた。

 

窓ガラスが白く凍りつき、外の景色を見渡せない。

 

ガラスを透かして雪灯が注ぎ込み、室内を薄明るく照らしていた。

 

人里離れたこの地の日中、動物たちはじっと身を潜めているか、もしくは冬眠してしまっている。

 

雪は音を吸い込んでしまうし、風が揺らすはずの草木の葉は秋のうちに落ちてしまった。

 

静かな午後。

 

静寂過ぎて、別荘地の川のせせらぎ音がここまで聞こえてきそうだった。

 

白々とした明るさに満ち、静まり返った室内にいると、思い出すことがある。

 

雪灯りにチャンミンの琥珀色の瞳は、ハチミツ色に透けていた。

 

「ん?」というように、チャンミンは私を見上げる。

 

白いまつ毛に縁どられた大きな大きな眼。

 

視力があるのか疑ってしまうくらい美しい瞳だ。

 

チャンミンに見つめられて、瞳の中に溶けてしまいそうだった。

 

鮮明に思い出しても、今の私なら平気だ。

 

2年前に起こったことを。

 

 

(つづく)

 

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