保護中: 水彩の月★

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【81】NO

 

 

「驚き過ぎです。

私たちは恋人同士なんでしょ?」

 

唇を尖らせた民が、チャンミンの方へずいっと顔を寄せた。

 

「んーー」

 

「待って、民ちゃん。

ここは病院だよ。

そういうことは控えた方がいいよ」

 

(これは以前、僕が勘違いしてしまった『キスできますか?』じゃない。

正真正銘の『キスして下さい』だ!)

 

「んー」

 

チャンミンを無視して、民はもっと顔を近づけた。

 

(ふふふ。

チャンミンさんはどうするかな?)

 

チャンミンの至近距離に、目をつむった民の白い顔が。

 

まつ毛が長いな、などと冷静に観察してしまうチャンミンだ。

 

(目を閉じるとよく分かる。

民ちゃんって...本当に綺麗な顔をしてる..)

 

「まだですか?」

 

(ど、どうしたらいいんだ。

民ちゃんはすっかりその気になってる。

僕が衝動的についた嘘が、現実のことになってきてしまった。

...ええい!)

 

チャンミンは民の両肩を引き寄せる。

 

(ひー!

チャンミンさん、『病室でそういうことは止めようね』を貫いてくださいよ!

ダメだって、拒否してくださいよ!

ホントのホントに、キスしちゃうんですか?

どうしてこんな流れになっちゃったの?

あ。

私のせいだ。

私がふざけたことを言っちゃったから...。

どうしよう、苦しい...胸が苦しい...)

 

チャンミンは民の唇目指して、顔を傾けた。

 

「そろそろ消灯時間ですよ!」

 

「!!」

「!!」

 

カーテンが勢いよく開いて、看護師が咎めるように二人に言い放つ。

 

二つの同じ顔に振り向かれて、看護師はぎょっとした顔をした。

 

そして、『双子同士の恋...禁断の恋だわ...』と思ったのであった。

 

チャンミンが慌てて立ち上がった勢いで、折りたたみ椅子が床にバタンと倒れた。

 

「静かにしてください!」

 

「すみません!

今すぐ帰りますから」

 

(助かった...)

 

チャンミンは倒れた折りたたみ椅子を壁に立てかけ、シャツの胸元をつかんで仰いだ。

 

(暑い。

興奮と緊張と動揺で、全身が燃えそうに暑い)

 

「明日、また来るね」

 

チャンミンが帰ると聞いて、民は心細い気持ちになる。

 

「明日...多分、退院だと思います」

 

「それはよかった。

...でも、帰りは?

Tが迎えに来るのか?」

 

「お兄ちゃんは仕事があるので。

一人で大丈夫です。

一人で帰れます」

 

「怪我をしたばかりなのに、それは駄目だよ」

 

「大した事ないです」

 

「うーん...。

よし!

僕が迎えに行くから」

 

「でも...チャンミンさんもお仕事でしょう?」

 

「大丈夫。

ちょうどひと段落ついた時だから。

有休もたまってるし。

迎えに行くから、安心して」

 

「いいんですか...?」

 

「うん。

だから、僕に任せて」

 

「あ!」

 

「どうした?」

 

「お洋服が...ないかも...です。

靴もありません」

 

流血でTシャツは汚れている。

 

スニーカーも現場で落としてきたのか、片方が行方不明だった。

 

「適当に見繕って持ってくるよ。

ほら。

民ちゃんは僕と住んでるんだよ」

 

「そうでした...ね、そう言えば」

 

「なんでもいいよね?」

 

「服は何でもいいです。

クローゼットの引き出しの一番上にあります」

 

「了解。

...ん?」

 

カーテンの向こうへ歩を進めかけたチャンミンの脚が止まった。

 

(引き出しの一番上?)

(しまったー!!!)

 

チャンミンは振り返る。

 

民は両手で口を覆っている。

 

「!!」

「!!!」

 

ふっと枕元灯が消え、足元の常夜灯だけになった。

 

互いの表情が見えなくなる。

 

「消灯時間ですよ」

 

先ほどの看護師がまた顔を出し、チャンミンの背後に回って退室させようとした。

 

「すみません」

 

チャンミンはぺこぺこと頭を下げる合間に、民の方を何度も振り返った。

 

(民ちゃん!)

(チャンミンさん!)

 

(恥ずかしー!!

僕らは今まで、何をやってたんだ?)

 

(恥ずかしー!

チャンミンさんの顔をもう見られない)

 

 

(つづく)

 

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(4)甘い甘い生活★

 

 

ふざけたチャンミンに、ベッドの上に放り投げられるかと思った。

 

ぽーいって。

 

 

「ひどい!」と憤慨した私に、「びっくりしました?」ってチャンミンは、おどけた笑いをしてみせそうで。

 

 

だってチャンミンは、たまーに不意打ちに、悪戯心を発揮して私を驚かす人だから。

 

 

(あれ?)

 

ところが、真っ白なシーツの上に、お尻、脚、背中、頭と順にそっと、ゆーっくり下ろされて。

 

 

その時、私の心にずんと、チャンミンの愛情が響いた。

 

ずっと我慢してきたんだろうな。

 

時間がかかってごめんね。

 

 

チャンミンと関係を深めることに罪悪感を抱え、自分が決めたのではない良識に縛られて、チャンミンが差し出した手を素直に握れなかった。

 

チャンミンと初めて会ったあの時も、心も体もガチガチに強張らせていた。

 

そして、今もそうだったの。

 

チャンミンの穏やかだけと、芯の熱い愛情にほぐれていったの。

 

 

私を包んでいたバスタオルがそろりとはがされた。

 

 

チャンミンは仰向けになった私の上に身を伏せた。

 

両膝で体重を逃しながら、ぴたりと肌と肌とを密着させた。

 

チャンミンの斜めに傾けた顔が真上に迫る。

 

 


 

 

全身のすべての窪みに、チャンミンの細くて長い指が滑り込み、手の平で撫でられると、じんとした痺れが走る。

 

私の反応を確かめながらの愛撫は、決して急がない。

 

全身くまなく、ついばむように吸われると、うずいて思わず声が出る。

 

「可愛い声ですね」

 

小さく笑うと、チャンミンの手が私の肌をさわさわとかすめながら、触れるか触れないかのタッチで下りていく。

 

反射的に両膝を閉じた。

 

「駄目です」

 

チャンミンの手によって、膝を左右に開かされる。

 

チャンミンの繊細な指のうごめきに合わせて、震えた腰が浮き上がった。

 

私の中を探りながら、内ももに口づける。

 

指と唇だけの愛撫だけじゃ物足りなくなってきたとき、私の耳元に唇を寄せて「いい?」と、彼は囁いた。

 

 

許可なんていらないのに。

 

私はもう、彼とひとつになりたくて仕方がないのに。

 

じれったくなるほどゆっくりと、チャンミンの熱くて硬いものが入ってきた。

 

私の中まで奥深くまで届くと、その圧迫感に悲鳴のような喘ぎがこぼれる。

 

チャンミンの首に力いっぱいしがみついた。

 

腰の動きは最初はゆったりと、次第に速度を増す。

 

ゆるゆると動かしていたのが、深く突き立てられた時、私の目の前は真っ白になった。

 

 

チャンミンの背中に私の爪がくいこむ。

 

 

チャンミンも気持ちよさそうで、私の心は幸福で満たされた。

 

 

彼の熱くて湿った吐息が喉元にかかる。

 

 

大きく動くたび、彼の喉からかすれた呻きが漏れた。

 

 

背中にまわした手が、彼の汗で滑る。

 

 

チャンミンの腕にぐいっと引っ張られ、あぐらをかいた彼の上にまたがるように乗せられた。

 

 

チャンミンと向き合う格好になり、今度は真下から突き上げられる。

 

 

汗で濡れた互いの肌が、ぬるぬると滑り、吸い付くように密着した。

 

 

チャンミンの念入りな愛撫と、緩急つけて揺さぶられて、息ができない。

 

 

今度は、私の背後にチャンミンが覆いかぶさった。

 

 

私の中がチャンミンで満たされる。

 

 

ああ、酸素が足りない。

 

 

この人が好きだ、と心の奥底から思った。

 

 

私はもう、とろとろです。

 

 

私の背中に覆いかぶさっていた彼のしなやかな腰がぶるりと痙攣したのち、

 

汗まみれの熱々な横顔が、私の肩に降ってきた。

 

 


 

 

「ミカさん...タフですねぇ」

 

私の隣で胸を大きく上下させたチャンミンが、乱れた呼吸の合間に

 

「僕は...2回が...限界です...」

 

と途切れ途切れ言った。

 

 

「『恥ずかしい恥ずかしい』って連呼してたくせに...ギャップが凄いです」

 

 

「......」

 

 

恥ずかしくなった私はを鼻の上までシーツに埋もれる。

 

 

「今までの僕は、いろいろと遠慮してましたからね。

忘れてませんか?

僕らは『婚約中』なんですよ」

 

 

天井を仰いでいたチャンミンは、ごろりと肘枕をして横向きになった。

 

「...そう言えば...!」

 

 

正直に言って、「プロポーズ」イコール「結婚」とまで結び付けていなかった。

 

 

私の過去もあーちゃんも、全部ひっくるめて受け止める覚悟を、プロポーズという形で見せてくれた。

 

 

その心意気が後ろ向きな私の心に喝を入れ、カサカサな心に深い愛情が注ぎこまれたおかげで、この恋に向かう姿勢を前向きにした。

 

今はまだ、実感がないだけ。

 

 

「ひどいなぁ」

 

チャンミンの指が伸びて、私の鼻をつまんだ。

 

「イヤ。

ブスな顔になるからやめて」

 

「嫌々ばっかり言っていないで。

イチャイチャしてるんですよ、ホントは楽しいんでしょ?

もっと...素直になりましょう」

 

今度は、両ほほをにゅうっと左右に引っ張られて、私の顔はきっともっとブスになってる。

 

 

「今どきこんなカップルは滅多にいませんってば。

僕らときたら、全くもって...奥ゆかしいですよね」

 

 

チャンミンは私の頬から手を離して、クスクスと笑った。

 

「あーちゃんがいるから、こんな風にゆっくりイチャイチャできませんからね。

あ、誤解しないでくださいよ。

あーちゃんが邪魔って意味じゃないですから!」

 

 

「わかってる」

 

 

「たまにしかできないから、こういう時間は貴重です。

ま、今夜が初めてなんですけどね」

 

 

チャンミンは身体を起こすと両脚を床に降ろし、ベッドに横たわったままの私を振り向いた。

 

 

「全くもって...貴重です」

 

しみじみとした言い方が可笑しかった。

 

 

私の目前にさらされたチャンミンの背中に、見つけてしまった。

 

私が爪立ててしまった、夜の気配漂うひっかき傷。

 

内緒にしておこう。

 

シャワーが沁みてヒリヒリしたら、どれだけ私が満足していたのかを知ってニヤニヤしてね。

 

 

「喉が渇きましたね。

貴女も喉がカラカラでしょ?。

いっぱい声を出しましたからね」

 

「ちょっと!」

 

ははっと笑ったチャンミンは立ち上がると、床に落ちたバスタオルを腰に巻いた。

 

首から肩までのなだらかなラインや、ぎゅっと引き締まった細い腰に私は熱い視線を注ぐ。

 

そっか、この人はこんなにも美しい人だったんだ。

 

その後ろ姿にあらためて、惚れた。

 

 

「...どうやら僕はコーヒーを淹れるのが、下手みたいです。

ミカさんが淹れてくれたコーヒーが、毎朝飲みたいです」

 

ベッドに滑り込んできたチャンミンは、私のお腹に腕をまわし脇腹に鼻を押しつけた。

 

「代わりに、僕がお弁当を作ってあげますから」

 

私の脇腹に唇を押しつけたまま喋るから、くすぐったくてしかたがない。

 

「気が向いたら、海苔で名前を書いてあげますよ、あの時みたいに。

あーちゃんは嫌がるでしょうね、絶対に」

 

鼻にしわを寄せて、目を三日月形に細めた笑顔で私を見上げた。

 

綺麗な歯並びと一緒に、少しだけ歯茎ものぞいた、とってもかわいい笑顔なの。

 

「泣きたい時があったら、また僕の胸を貸してあげますね」

 

チャンミンは、こぶしでとんと胸を叩いた。

 

「ただし。

あの時の僕とは違うから、襲いますけどね」

 

膨れ上がった涙で、チャンミンの顔がゆらゆら揺れる。

 

「あーもー。

言ったそばから、もう泣いてるじゃないですか」

 

 

私の首の下にチャンミンの腕が滑りこんで、ちょっと強引に口づけられた。

 

 

「もう一回、襲わせて...」

 

こじあけられた隙間からチャンミンの舌が侵入し、私は再び息ができなくなる。

 

力強い腕でウエストを掴まれて、ひっくり返された私は仰向けになったチャンミンの上に乗った。

 

 

「僕は幸せです」

 

 

チャンミンの目が潤んでいた。

 

私はこの人が大好き。

 

 

チャンミンの火照った頬を、宝物を扱うかのように優しく包みこんだ。

 

甘い甘いキスを、ありったけの愛情を込めてキスをした。

 

 

 

未来からのチャンミンのメッセージを受け取らなければ、彼からのプロポーズに「NO」と答えていた。

 

どんなからくりを使って、私の耳元に囁きにこられたのか。

 

不思議なことは、不思議なままにしておこう。

 

 

私も幸せ。

 

 

私とあーちゃん、

 

そして大好きなチャンミンとの甘い甘い生活が、

 

これから始まるの。

 

 

(おしまい)

 

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(2)甘い甘い生活★

 

~星屑コーリング~

 

あーちゃんがいなくなった。

 

ある日曜の朝、友達と遊びにいくと出かけて行ったきり、夕方の5時になっても帰宅しない。

 

​母親のミカさんは真っ青になって、警察に連絡すると取り乱した。

 

心当たりがあった僕は、ミカさんをなだめて、あーちゃんを探しに行くことにしたのだ。

 

あーちゃんは、気難しい。

 

事を大げさにするとヘソを曲げて、また家出をするかもしれない。

 

 

​目指すは、電車で2駅先にある図書館だ。

 

あーちゃんは、まだ9歳のくせに小難しい本をいつも読んでいた。

 

読書家で小難しい言葉を使う、ちょっと(いやかなり)小生意気な少女だ。

 

 


 

 

1階の貸し出しカウンターの前を横切り、絵本コーナーの横の階段を昇る。

 

雑誌や新刊本、実用本が集められた2階も通り過ぎて、2段飛ばしで駆け上がる。

 

あーちゃんは、3階にいるはず。

 

日焼けを防ぐため、ブラインドが下ろされた3階は、薄暗くひなびた匂いが漂う。

 

​並ぶ本棚を順番に見ていくと、やっぱり居た。

 

​床に足を伸ばして座り込み、分厚い本に熱中していた。

 

​「あーちゃん!」

 

小声で、彼女に呼びかける。

 

​「な~んだ、チャンミンか」

 

あーちゃんは生意気な子だから、僕を呼び捨てで呼ぶ。

 

キッと僕を睨みつけると、立ち上がった。

 

紺地に白い水玉のスカートのお尻を払うと、読んでいた本を僕に押し付けた。

 

「来るのが遅いよ。

クリームソーダが飲みたい」

 

​​「一緒に帰ろうか」

 

​​やれやれと僕はため息をつき、あーちゃんが借りたやたら重い本を抱えて外へ出た。

 

 


 

近くのカフェに入って、クリームソーダとコーヒーを注文すると、窓際の席に座った。

 

​その間、あーちゃんはずっとだんまりだ。

 

あーちゃんが家出をするのは、今回が初めてではない。

 

​​何か面白くないことが起きると、プチ家出をする。

 

​それを迎えに行くのは、いつの間にか僕の役割になっていた。

 

​母親に言えないことを、他人の僕になら話せることもあるのだろう。

 

注文したものが揃ったので、カウンターへ受け取りに行き、席に戻る。

 

「...何か、あったの?」

 

​バニラアイスをスプーンでぐちゃぐちゃに混ぜるあーちゃんに、問いかける。

 

​​「別に...」

 

​「僕に話すだけでも、気持ちが楽になるんじゃないかな?」

 

​あーちゃんは、大きな瞳で僕をじっと見つめる。

 

​「チャンミン」

 

​​「うん?」

 

「チャンミンは、ママとセックスした?」

 

 

「ぶっは!」

 

​僕は派手に、吹き出してしまった。

 

​「な、何を、突然!」

 

​「ママとセックスしたか、って聞いてんの!」

 

​かーっと全身熱くなる

 

「しー!

あーちゃん、声が大きい!」

 

僕はあーちゃんの口をふさぐと、周囲をキョロキョロ見回す。

 

 

「...『まだ」なんだ...ふうん」

 

「あーちゃん、そういう言葉は使っちゃいけないよ」

 

「どういう言葉なら使っていいの?

クラスの男子なんて、バンバンに使ってるよ」

 

​「うーん...」

 

​僕は9歳の子供にからかわれてる。

 

​「チャンミン。

ママ、引っ越しの準備してるよ」

 

「そう、みたいだね」

 

 

「次のおうちは、寝る部屋でしょー、居間でしょー。

あたしは、居間で勉強するの。

それから、台所とお風呂とトイレでしょー。

いいの、チャンミン?」

 

「......」

 

「チャンミンがお泊りしたくても、できないよ。

あたし、おじさんと同じベッドで寝るなんてヤダからね!」

 

「あーちゃん...」

 

僕とミカさんは交際している。

 

ミカさんは離婚したばかりで、一人娘のあーちゃんと二人暮らしだ。

 

輸入食料品店に併設したカフェで開催されていた『おいしいコーヒーの淹れ方』ミニ講座にて、僕とミカさんは出会った。

 

コーヒーの淹れ方を教えてくれたのがミカさんで、

 

気恥ずかしくて気がすすまなかったけど、あまりに熱心にすすめられて「それなら、ちょっとだけ」と参加することにしたのだ。

 

ペーパーフィルターの折り方を間違え、コーヒー粉の分量を間違え、お湯を注ぐ手がぶるぶる震えていたのは、僕が不器用なせいなだけじゃない。

 

手を添えて根気よく指導してくれる彼女との距離が近くて、ひどく緊張していたせいだ。

 

 

そう。

 

一目惚れに年齢は関係ないんだなと、心底驚いた。

 

30過ぎのお疲れ気味サラリーマンの僕以上に、ミカさんも疲労の影が漂っていた。

 

かさついた肌や充血気味の目をしていたけれど、不良生徒の僕にイラつくこともなく丁寧に教えてくれた穏やかな声音や、「分かりましたか?」って僕を見上げた時の問いかけるような笑顔にぐらっときた。

 

僕が平均以上に背が高すぎるせいもあったけど、真横に立った彼女があまりに小柄で、抱きしめたらどんな風なんだろうって、淹れたてのコーヒーを飲みながら思った。

 

独り暮らしなのに、1日何杯飲むつもりなんだ?レベルのコーヒーを買って帰った。

 

 

それ以来、『コーヒーの美味しさにはまったんだけれど、淹れ方が分からず、それでもコーヒー道を極めたいサラリーマン』を装って、彼女の勤めるお店に足しげく通った成果が、これだ。

 

さりげない好意の示し方じゃ伝わんない相手だな、って察した僕は、あからさまにアピールした。

 

お店のスタッフさんたちは、僕が訪れる度に「また来たよ、このお客は」って顔をしてたけど、ミカさんは赤くなりながらも嬉しそうだったから、脈ありかなって自信が湧いてきた。

 

かなり早い段階で、僕は彼女に告白をしていた。

 

久しぶりの恋だった。

 

 


 

 

「チャンミンは、あたしたちと一緒に住まないの?」

 

あーちゃんは僕に問う。

 

「住みたいよ」

 

僕はすかさず答える。

 

「じゃあ、なんで?」

 

「一緒に住む前にきちんとしなくちゃいけないことが沢山あるんだよ」

 

僕と交際することだけでも躊躇していたミカさんだ。

 

別れてわずか3か月もしないうちに、新しい男を作った女性に対して、第三者が抱くイメージの想像は容易につく。

 

僕は当事者だから、そんな輩の視線なんか全く気にしないし、彼女に対してそんなこと露ほども思わない。

 

僕も頭が固い方だから、彼女が気にしているものが何なのかよく分かる。

 

彼女には小学生の女の子がいた。

 

恋に浮かれる姿を、多感な子供の前にさらすことに躊躇するのも分かる。

 

彼女たちの暮らす部屋に突如出入りするようになった男の登場に、同じマンションの住人たちはどう見ていたのか、想像がつく。

 

 

これらのこと全部、よく分かっていたから、僕は彼女たちを驚かさないよう、少しずつ少しずつ距離を縮めていくことに尽力した。

 

1歩1歩手順を踏んで、性急にことを進めないようにって。

 

彼女の家に泊まったことはないし、外泊もしたことはない。

 

大人の恋愛において、今どき珍しいほどの『清き関係』だ。

 

おマセなあーちゃんが指摘していたのが、この関係性のことだ。

 

ミカさんは結婚という関係性を終わらせたばかりで、疲労困憊なのだ。

 

男を信じられなくて、当分はこりごりだったんだろう。

 

新たな人間関係を結ぶには時期早々だと考えていたのに、「付き合って欲しい」という僕の告白に頷いてくれた。

 

あーちゃんが僕に懐いてくれたことが、ミカさんの背中を押したんだろうと分析している。

 

 


 

 

「チャンミン、弱すぎ。

もっとママを押して押して、押しまくらないと!」

 

「そうは言ってもね、ミカさんは真面目な人だから」

 

あーちゃんはずずずっと音をたてて、クリームソーダーをストローで吸い込んだ。

 

「今のままじゃチャンミン、断られるよ」

 

 


 

 

先週、僕はプロポーズをした。

 

承諾してもらえる確率は50%だろうと見込んでいたくらい、確信が持てない博打のようなプロポーズだった。

 

「僕はこれくらい真剣なんですよ」って、僕の覚悟を見せたかった。

 

単なる独身者同士の恋とは違う。

 

彼女の笑顔の側にいるには、彼女の過去もあーちゃんも全部ひっくるめて受け止めなくちゃいけないのだ。

 

もちろん僕にだって、この年まで生きていれば当然、きれいじゃない過去がある。

 

僕が彼女たちの暮らしに転がり込んでくるような、そんな同居にはしたくなかった。

 

正々堂々とした同居にしたかった。

 

「考えさせてください」

 

これがミカさんの答えだった。

 

予想が半分当たった。

 

イエスと答えるのを邪魔しているもの...それは、ミカさんが勝手に抱いている「負い目」だってことは、僕は全部わかっているんだよ。

 

僕は、ミカさんもあーちゃんも全部ひっくるめて大事にしたいんだよ。

 

僕を信じて、寄りかかってよ。

 

 


 

 

「このままじゃ、ホントに断られるよ。

あたしたち、引っ越しちゃうよ」

 

あーちゃんの言う通りだ。

 

プロポーズにノーと言われそうだった。

 

僕もカップの中身を飲み干した。

 

ミカさんが淹れてくれたコーヒーの方がずっと美味しい、と思った。

 

 

「魔法をかけてあげるから、行こう!」

 

そう言ってあーちゃんは席を立って、ぽかんと口を開けたままの僕を置いてカフェを出て行ってしまう。

 

「あーちゃん、どこ行くの!」

 

僕は慌ててあーちゃんの後を追い、

 

「ミカさんが心配するから早く帰ろう」という僕の言葉を無視して、あーちゃんが導いたのは団地の裏手にある小さな公園だった。

 

 

「ママに電話して。

あたしたちはご飯食べてから帰るって」

 

「えっ?えっ?」

 

「早くして!」

 

あーちゃんの言う通りにした僕は、芝生の上にあぐらをかいたあーちゃんの隣に座った。

 

3月の夜の訪れは、まだ早い。

 

辺りは真っ暗で、団地の窓から何百もの光が灯る。

 

「これはね、ママがドクシンだったときに履いてたスカートをお直ししたものなの」

 

あーちゃんは、水玉模様のフレアスカートをひらひらさせた。

 

「よく似合ってるよ」

 

「いっぱい本を読んで調べたの」

 

あーちゃんは図書館で借りた分厚い本を膝に広げ、僕はスマホの灯りでページを照らした。

 

「欲しい女がいたら、ズルいことしてもオーケーなの」

 

「ズルいことって?」

 

あーちゃんが何をたくらんでいるのか全然分からない。

 

 

「チャンミン!

あたしはママが大好きなの。

ママはチャンミンのことが大好きなの。

ママったら、チャンミンのことばかり話してるんだよ」

 

 

「あーちゃん...」

 

 

あーちゃんは、ゴシゴシと目をこすった。

 

 

「ママは頑張りすぎる人なの。

チャンミンがママを守ってくれなくちゃ。

あたしは子供だから、

ママのことをセットクできないの。

 

チャンミン、お願い。

チャンミンに頑張ってもらいたいの」

 

 

「うん、頑張ってるよ。

今までも、これからも」

 

僕はあーちゃんの頭を撫ぜた。

 

「もっと頑張らなくちゃダメなんだってば」

 

あーちゃんはしゃがんだ僕の背後に立った。

 

空を見上げると、濃紺の空に無数の星屑が散らばって、そのいくつかが頼りなげに瞬いていた。

 

空気が冷たい。

 

「チャンミンに魔法をかけるから」

 

「魔法?」

 

子供らしい言葉に吹きだすと、あーちゃんは僕の頭をパシッと叩いた。

 

 

「あたしは大マジメなの!

コソクなシュダンを使うんだから。

キケンな魔法だよ」

 

「わかったよ」

 

「ママのシンソーシンリにハタラキかけるんだよ」

 

(深層心理?)

 

「難しい言葉をよく知ってるんだね」と茶化したら、また頭を叩かれた。

 

「絶対に、自分のショータイをバラしたら駄目だからね」

 

「うんうん」

 

あーちゃんはごにょごよと呪文を唱えだした。

 

紺色のスカートに散った白い水玉が、夜空の星みたいだと思った瞬間、

 

「あっちでもママを助けてあげてね」

 

あーちゃんの凍えた小さな手が、僕の両眼を覆った。

 

 


 

 

出会って日が浅い僕の力だけじゃ、閉じたミカさんの心を動かせなかった。

 

固い大人の心を説得するには、幼い子供の拙い言葉だけじゃ力不足だった。

 

9歳の女の子がかけた魔法に、僕は見事にかかった。

 

 

 

目を開けた時、僕は1DKの小さな部屋にいた。

 

整頓されてはいたが、どこか荒んだ空気をはらんだ部屋だった。

 

 

すぐに分かった。

 

 

ここはミカさんの部屋だ。

 

 

ガチャっと鍵が開く音がして、現れたのは亡霊のような疲れ切ったミカさんだった。

 

 

僕と出会う前のミカさんに会った。

 

 

20代のミカさんの目の前に立つのは、20代の僕の姿。

 

 

あーちゃんが生まれる、ずーっと前のミカさんが目の前にいる。

 

 

「おかえりなさい」

 

僕はミカさんの手から、バッグを取り上げ、彼女のジャケットを脱がせた。

 

突如現れた僕の存在に、驚かないほど彼女は疲れ切っているらしい。

 

「くたくたでしょう」

 

紺色のスカートをふわりとさせて、倒れこむようにミカさんは座り込んだ。

 

顔色が悪くても、ぱさついた髪をしていても、ミカさんは綺麗だった。

 

 

あーちゃん、僕に任せて。

 

あーちゃんが言う通り、ミカさんのシンソーシンリにハタラキかけるから。

 

まずは、弱ったミカさんの心身を癒やしてあげないと。

 

お風呂の湯加減を確かめながら、僕はよし、と大きく頷いた。

 

 

 

(おしまい)

 

 

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(1)甘い甘い生活★

 

 

脚をひきずるようにして帰宅したある夜、部屋に彼がいた。

 

「おかえりなさい」

 

ソファの上で膝を抱えて座っていた彼は、立ち上がると私のバッグを取り上げ、ジャケットを脱がせた。

 

「くたくたでしょう」

 

私は、あっけにとられていて彼にされるがままで、気づけばお風呂上がりでポカポカで、冷たい缶ビールを手にしていた。

 

独身女のひとり暮らしの部屋に、いきなり男がいたりしたら、それはもう事件だし、犯罪行為だ。

 

けれど、私はあまりにも疲れ果てていたし、彼の邪気のない笑顔を見ると、露ほども恐怖は感じなかったのだ。

職場での理不尽な扱い、数年来交際していた彼氏の裏切り、家族の死。

負の出来事が、この一か月の間立て続けに起こり、身体的にも精神的にもどん底で、毎日が精いっぱいだった。

いきなりの彼の登場に全く驚かないほど、思考力が落ちていた。

「僕の名前はチャンミンと言います」

彼が用意した料理をつまみに、2本目のビールを開けた時、彼は自己紹介を始めた。

「今夜から僕がミカさんのお世話をしてあげます」

彼が私の名前を口にしたことも、彫刻のように整った顔も、何もかもが非現実的過ぎた。

私はあまりにも疲弊していたから、彼の容貌を目にしても、全く惹かれなかった。

「これ以上はダメです」

3本目に手を伸ばす私より早く、チャンミンはビールを取り上げた。

「明日に響きます。

顔がむくんでブスになります。

僕が代わりに飲みます」

「お酒はベストコンディションな時に、美味しく飲まないと」

チャンミンは、恨めしそうに見つめる私に構わず、あっという間に飲み干してしまった。

「さあさあ、ミカさん、もう寝る時間です!

電気毛布を入れておいたから、あったかい布団で眠れますよ」

ほろ酔い状態で、砂が詰まったかのような頭で、彼の言葉を聞いていた。

「明日は僕が起こしてあげますから、ぐっすり眠ってください」

部屋の照明が消され、明るいリビングからの逆光に、チャンミンのシルエットが浮かび上がっていた。

このようにして、私とチャンミンとの生活が始まった。


チャンミンは優秀なハウスキーパーだった。

私は毎朝、チャンミンに起こされ、彼が用意した朝食を食べ、弁当を持たされ出社する。

「ミカさんは、こっちの色の方が似合います」

いつの間にかお洒落に無頓着になっていた私。

存在をすっかり忘れていたダスティ・ブルーのカーディガンを、クローゼットから引っ張り出してチャンミンは私に羽織らせた。

上司の言葉に傷ついて半泣きで帰宅すると、

「おかえりなさい」

チャンミンが玄関に小走りに出てきて、私の手からバッグを取り上げる。

「ミカさん、お疲れ様。

今夜は鍋にしました。

野菜も肉もたくさん入れたから、だしが出て美味しいですよ」

浴室から出ると、洗濯されきちんと畳まれたパジャマと下着が用意されていた。

「ミカさん、もっと色気のある下着にした方がいいですよ」

細やかな気遣いにじんと感動し、丁寧なもの言いの間に挟まれる毒舌にムッとしつつも苦笑し、

彼に大切に扱われているうちに、自分がかけがえのない大切な存在だと思えてきた。

朝は彼が見送ってくれる。

家に帰ると、彼が待っている。

何もかもやってくれて。

「今夜から僕がミカさんのお世話をしてあげます」

チャンミンがやってきた夜、彼が宣言した通りだった。

私の本棚からぬきとった一冊の本を読みふける彼を見つめた。

ソファにもたれて、長い脚を床に投げ出すようして座るチャンミン。

私からの視線に気づくと、

「なんですか?」

目を半月型にさせて、にっこりと笑った。

「夜遅いですから、お菓子はダメです、太ります」

チャンミンの笑顔に胸をつかれた。

「カロリーの低いお粥を作ってあげますから、それで我慢してください」

いそいそとキッチンに立つチャンミンを目で追っていた。

彼がこんなに優しい目元をしているなんて、今さら気づいた。


別れた彼氏が新しい恋人を連れた姿を目撃してしまった日のこと。

​ベッドに横になった私の隣に、チャンミンがスルリとすべりこんできた。

「僕が添い寝をしてあげますから」

ぎょっとしてチャンミンを見上げると、

「安心してください、襲ったりはしません」

チャンミンの言葉が可笑しくて、思わず吹き出した。

「襲って欲しいんですか?」

チャンミンはおどけた笑いを浮かべると、私の頭を胸に引き寄せた。

「ダメです。

今はダメなんです」

チャンミンの胸から、規則正しい鼓動が聞こえた。

「その時がきたら、ちゃんと襲ってあげますから」

チャンミンは、私の背中を優しくポンポンと叩いた。

「僕が胸を貸してあげますから、泣いていいですよ」

チャンミンが言い終えないうちに、せきを切ったかのように目から涙があふれ、声を出して泣いていた。

最後に泣いたのはいつだっただろう?

こんなに泣いたのは、うんと久しぶりだった。

いつの間にか私は、涙すら出せなくなっていた。

いつの間にか、歯を食いしばって、こぶしを握って、心を閉じた毎日を送っていた。

泣いてはじめて、そんな自分に気づいた。

 

翌朝、とっくに起きだして朝食を用意していたチャンミンは、私の顔を見るなり大笑いした。

「ミカさん...恐ろしいほどブスな顔してます」

​むくれる私に、チャンミンはいつものように弁当箱を手渡した。

「お弁当にサプライズがありますから、楽しみにしていてください」

忙しさでずれこんだ昼休憩の時間、

そそけだった心のまま弁当箱の蓋を開けた瞬間、慌てて蓋を閉めてしまった。

「もったいなくて、食べられないよ」

たっぷりと敷きつめられた炒り卵の上に、カットされた海苔で書かれた私の名前。

大きな手で海苔を切るチャンミンの姿を想像すると、微笑ましくてたまらなかった。

「なんて可愛いことしてくれるのよ、チャンミン」


 

昼間、チャンミンは部屋で何をしていたのだろう。

夕日が差し込む狭い1LDKの部屋で、彼は洗濯物をたたみながら何を考えていたのだろう。

夕飯のメニューを考えながら、私の帰宅を待っていたのだろうか。

うっすらとホコリをかぶっていた部屋はさっぱりと清潔に、

曇った浴室の鏡も磨き上げられ、

 

冷蔵庫にはおかずが詰まった保存容器が並んだ。

食卓に置いたグラスに活けられた2輪のダリアを目にしたある日、私は泣きそうになった。


春の気配感じられる3月のある夜、

出迎えたチャンミンの表情が曇っていることに気づいた。

言葉少ない夕食を終えると、チャンミンが切り出した。

「ミカさんに話があります」

チャンミンに促され、カーペット敷きの床に正座した彼の正面に、私も正座した。

 

「僕の話すことをよく聞いてください」

「どうしたの、チャンミン?」

「時間がないから、端折って言いますよ。

ミカさんのこれからの人生、いろんなことが起こると思います。

大変なときもあります。

でも、ミカさんなら大丈夫です。

誰かと結婚して、子供が生まれて...。

想像するだけで、僕は嫉妬で苦しんですけど...」

チャンミンは、顔をしかめる。

「出会いがあれば、別れもあります。

悲しい別れの後、ミカさんは苦しむと思います。

この先どうしようと、途方にくれる時もあるかもしれません」

「なんだか予言みたいで怖いよ」

「僕は...

あんなにボロボロになったミカさんを見ていられなかった。

だから、お世話しにきました。

僕のおかげですね。

ミカさん、綺麗になりましたよ。

その髪型も似合っています」

「そう?」

仕事帰りに、美容院に寄ったのだ、3か月ぶりに。

「話を戻しますよ。

ミカさんが絶望を感じて、不安でいっぱいになった時、

僕は、

僕は、ミカさんもミカさんの大事なものも全部、

全部丸ごと僕が面倒みますから、

ミカさんは安心してください」

チャンミンが何を言おうとしているのか、さっぱり理解できなかったが、

まっすぐに私を見る濡れたように光る瞳から、彼は真剣なんだということだけは伝わってきた。

「僕は、ミカさんを幸せにしたくて来たんです」

「なんだかお別れみたいじゃない」

チャンミンは手を伸ばして、固く握りしめた私の手をポンポンと叩いた。

うんと泣いた夜、私の背中を眠りにつくまで、ポンポンと優しく叩いてくれた彼の手を思い出していた。

「ミカさん、もう忘れちゃったんですか?」

チャンミンは、眉尻を下げて困ったような、呆れたような顔をした。

「あの夜言ったでしょう?

時が来たら、ミカさんを襲ってあげるって、

もう忘れちゃったんですか?」

​「忘れるわけないわよ」

「ミカさんは、本心に逆らう人です。

周りの人との調和を考えて行動する人です。

目の前に分かれ道があった時、

常識的な進路を選ぶ人です」

「チャンミン、何を言ってるのか、全然わかんないよ」

「要するに!」

チャンミンは、ぐっと身をのりだした。

「『YES』を選んでください、ってことです。

ミカさんの本心に素直に従って、

うーん、ミカさんの場合、本能かなぁ...、

『YES』を選ぶんですよ!」

「イエス?」

「そうです」

「絶対に忘れないでくださいよ」

チャンミンは私の頭を人差し指で、つんと突いた。

「時間です。僕は出かけます」

チャンミンが立ち上がって、玄関ドアの向こうへ消えるまではあっという間だった。

私は初めてチャンミンを見送った。

こうして、チャンミンとの生活は終わった。


私は迷っていた。

別れた夫との間にできた子供と、二人で生きていけるか不安な時期だった。

夫と別れて数か月も経たないうちに、今の彼と出会った。

 

「あなたに子供がいようがいまいが、僕には関係ありませんよ」

自分には子供がいると打ち明けた時、

彼は「それのどこが問題ですか?」と不思議そうな顔をしていた。

「安心してください。

ミカさんも、ミカさんのお嬢さんも

僕が丸ごと守ります」

 

きっぱり言い切る彼の言葉に、素直に従って寄りかかれない自分がいた。

離婚したばかりなのに。

子供が懐かないかもしれない。

そして何より、男の人を信用しきれない。

彼からプロポーズされたとき、私は即答できず、時間が欲しいと伝えた。

飛び上がるほど嬉しい言葉だったのに。

断る理由をいくつも挙げている自分がいた。

彼に返事をする約束の日は明日だ。

私は段ボール箱に本棚の本を詰める手を止めて、ため息をついた。

この部屋は、私と娘の二人で住むには広すぎた。

引っ越しを控えていて、荷造りも佳境だった。

読書が趣味の私だったから本が多く、「いる」「いらない」を選別しながらの作業だったから、時間がかかっていた。

(懐かしい)

 

20代のころ、夢中になって読み漁っていた作家の本が出てきた。

そのうちの一冊を手に取って、表紙を開くと二つ折りにした紙が挟まっていた。

「?」

メモ用紙に走り書きされた文字の筆跡は、自分のものではない

『本能にしたがってください ― C―』

「C...」

コンマ1秒で私は思い出した。

床に座って本を読んでいた彼。

彼は、私の本棚の本を片っ端から読んでいた。

読書をしながら、私の帰りを待っていたのだろう。

​ぼたぼたと、開いたページに涙が落ちた。


待ち合わせのカフェに着いた時、既に彼はテーブルについていた。

約束の時間より30分も早い。

「ごめんなさい、待ったでしょ?」

彼はまぶしそうに眼を細めた。

「僕が早く来てただけ」

私の顔をしげしげと見つめていた彼の目が丸くなった。

「ミカさん...やっと思い出しましたか?」

こくこくと私はうなづいた。

「遅すぎますよ。

ミカさんったら、全然気づかないんだから。

どれだけ僕がヤキモキしたか、分かりますか?」

私に弁当箱を手渡した時のチャンミンより、歳を重ねた大人の顔のチャンミン。

「僕の顔を思い出さなくても無理はないですよ。

あの時のミカさんは、死にそうなくらい心が疲れていましたから」

チャンミンは、立ったままの私の背中を押して、向かいの席に座らせた。

ささいな動作ひとつが、あの時のチャンミンのそれと同じだった。

「僕がプロポーズしたとき、

ミカさんが迷っている理由もよく分かっていました。

ミカさんが僕のことを好きな気持ちも分かっていました。

ミカさんが、悩みに悩んで、『NO』と言う可能性が高かった。

でも僕は、どうしても『YES』の答えが欲しかったんです」

私は、両手で口を覆ったまま、チャンミンの話を聞いていた。

「だから僕は、ミカさんの耳に

「『YES』って答えなさいよ」って囁きに行ったわけです」

言葉をきったチャンミンは、眉尻を下げて困ったような表情をした。

「ミカさん、ずるい僕で幻滅しましたか?」

私は、ぶるぶる首を振った。

 

「全然」

つんと鼻が痛くなってきた。

チャンミンは手を伸ばして、私の手を大きな両手でゆったりと包んだ。

「若い時の僕はかっこよかったでしょう?」

チャンミンの言葉が可笑しくて、吹き出してしまった。

「うん」

「若いミカさんも、綺麗でしたよ」

​チャンミンは、目を半月型にさせて笑った。

「本題に入りますよ」

チャンミンは咳払いをして、姿勢よく椅子に座りなおした。

「ミカさん、返事を聞かせてくれませんか?」

「そんなの...決まってるじゃない...」

「僕と結婚してください」

「YESよ」

 

 

 

(おしまい)

 

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