【短編】夜明けの空気★

 

 

「次の休みには、会いにいくから」

「うん。

その次の休みには私がそっちに行くから」

「待ってる」

「そろそろ行った方がいいよ」

「ああ...時間だね」

「じゃあ...また、ね」

「いつでも会えるから」

「いつでも会えるよね」

繋いだ手をぎりぎりまで離せずにいた。

そして、保安検査場の手前で、僕らは別れた。

列が一歩ずつ前に進むたび、彼女の存在を確かめた。

振り向くたび、彼女は胸のあたりで小さく手を振った。

10回目に振り向いた時見えたのは、大股で歩き去る彼女の背中だった。

そういえば、彼女は泣いていなかった。


 

搭乗口前のベンチに腰かけて、別れ際に、互いのおでこと鼻先をくっつけた感触を思い出していた。

この場所は、僕はこっちへ彼女はあちらへと何度も分けてきたが、今回は意味合いが違う。

これからは、僕はずっとこちらへ行ったままだ。

僕は2つの選択の間で迷っていた。

僕が国に帰らなくてはならないと告げた時、

彼女は、30秒くらい考え込んだ末、

「わかった。

いつでも会えるんだから、私たちは大丈夫よ」

と言った。

落胆した顔を彼女に気づかれないよう、僕は必死に笑顔を取り繕った。

チクタクと、普段の2倍のスピードで僕の出国日は迫っていった。

この間、僕は

「行かないで」や

「チャンミンに付いていく」と、

2つの台詞のどちらかを彼女が口にしてくれるのを期待していた。

そのどちらも、彼女が言いそうにないセリフであることは、3年間彼女と一緒にいた僕がよく分かっていた。

僕の本音は、身勝手で女々しい。

彼女には、僕についてきて欲しかった。

彼女には、住まいも仕事もあちらに置いて、僕と一緒にこちらに来て欲しかった。

だから今日、小さなバッグひとつの彼女を見て、がっかりした自分がいた。

「やっぱり一緒に行くことにしたの」と、スーツケースを転がす彼女を期待していたからだ。

一方で、

僕は、彼女の国で彼女とずっと一緒にいたかった。

けれども、自分のチャンスを、みすみす恋人のためにふいにしてしまうような、女々しい奴だと思われたくなかった。

どちらも選べなかった僕は、一人で国に戻ることにしたんだ。

 


 

チャンミンが、国に帰ってしまう日までの間、わたしは迷っていた。

チャンミンは、「一緒に来てくれ」とも「ここに残るよ」とも、どちらの言葉も口にしなかった。

わたしと離れたくないからと、母国に帰らずここにずっといて欲しかった。

でも、彼のチャンスを潰すような、身勝手な女になりたくなかった。

​一方で、

彼についていきたかった。

 

でも、恋人のために自分のチャンスを、みすみす逃す野心のない女だと思われたくなかった。

どちらも選べないうちに今日、チャンミンの出国日を迎え、

検査を待つ行列に並ぶ、

頭一つ分背の高いチャンミンの後ろ姿を、こうして見送っているのだ。

春休みに入った初日とあって、列はじりじりとしか進まない。

彼の姿が見えなくなる前に、私は踵を返した。

私には時間がない、待てなかった。

宅配便カウンターで、前日のうちに発送しておいたスーツケースを受け取る。

バッグからパスポートを引っ張り出して、チェックインを済ませた。

「行く?」「行かない?」

 

心はすでに決まっていた。

私はチャンミンと一緒にいたい。

 

それ以外のことは、後から考えればいい。

彼の乗った航空機に2時間遅れて、私は彼を追いかける。

チャンミンへのサプライズ。

私はチャンミンの側に居続ける選択をした。

わたしってば、馬鹿な女でしょう。

でも、いいの。

私はこんなにもチャンミンに夢中な、馬鹿な女だから。

 


彼女はとっくに帰宅しているだろう。

通話可能になったのを確かめて、彼女へ電話をかける。

『おかけになった電話は現在、電源が切られているか…』のアナウンスが流れた。

すぐにでも彼女の声を聞きたかったから、少しだけ落胆した。

僕は再び、搭乗口前のベンチに腰かけていた。

彼女の驚く顔を早く見たかった。

母国で待っている新しいチャンスなんか、ちっぽけなことに思えてきた。

仕事のチャンスなんて、また作ればいい。

心はすでに決まっていた。

僕は彼女と一緒にいることを選択した。

これまで常識や見栄を意識して、本心に正直じゃなかった。

彼女の決断を待つばかりの僕だった。

仕事よりも恋人を優先させた僕は、腑抜けた野郎だろう。

言いたい奴には言わせておく。

これは僕が決めた道なんだ。

 


チャンミンの母国に到着したわたしは、彼の新しいアドレスをメモした紙をバッグから取り出した。

几帳面な彼だから、荷ほどきを済ませている頃だろう。

待ちきれなくて、電話をかけることにした。

彼の驚く顔を想像すると、笑みがこぼれてしまう。


彼女とようやく連絡がついた。

『着いたよ』

「ええ、私も着いたところ」

『ずいぶんゆっくりしてたんだね』

「うふふ、いろいろとね」

僕は、わくわくとした気持ちを抑えきれなかった。

「あのさ、僕は今どこにいると思う?」

『新しい家でしょ?』

「不正解」

『飲み屋さん?』

「不正解」

『えー、分かんない』

「びっくりするよ、絶対に」

『びっくりすること?』

「ああ」

『もったいぶらないで、早く言ってよ』

「1時間後には会えるよ」

「え?」

「すぐに会えるから、ちょっと待ってて」

『え?』

「僕はね、今、空港にいるんだ」

『まだ空港にいたの?』

「僕はね...君の国にいるんだ」

『え?』

「あっちに帰ることはやめたんだ」

『え?』

「離れ離れは嫌だ。

だから、こっちにいることにしたんだ」

『......』

「怒った?」

彼女が黙り込んでしまったから、僕は少し不安になる。

『ねえ、チャンミン』

「ん?」

『私は今、どこにいると思う?』

「どこって、家だろ?こんな時間なんだし」

『違うの』

「違う?」

『私ね、あなたの国にいるのよ』

「え...!」

『私…、やっぱりチャンミンについていこうと決めたの』

「ついていく?」

『離れて暮らすのは、嫌なの。

だから、あなたを追いかけたの。

あなたの国で、一緒に暮らそうと決めたの』

「......」

『馬鹿な女だって…あきれてるでしょ?』

「まさか」

『ほんとに?』

「ああ。

僕こそ馬鹿な男だ」

​「私があなたの国にいて、あなたは私の国にいるってことでしょ」

『国を越えたすれ違いだね』

可笑しいのと嬉しい気持ちがない混ぜになって、泣きたいのか笑いたいのか、もう僕にはわからない。

「僕らは…とんだバカップルだね」

『何それ。いつの間にそんな言葉覚えたの?』

​ひとしきり二人で笑った。

全く、僕らときたら...二人そろって...。

「これから、どうしようっか?」

『朝一番の便で、チャンミンはこちらへ戻ってきて』

「駄目だよ、君こそこっちに戻っておいで」

『チャンミンが来るの』

「駄目だ、君がこっちに来るんだ」

押し問答しているうち、僕はいいアイデアを思い付いた。

「そうだ!

どこか暖かい国へ行こう!」

『え?』

「二人にとって、新しいところへ行くんだよ!」

『なんで行き先が、暖かい国になるわけ?』

「うーん、なんとなく」

『何よそれ!』

「僕の国とも、君の国とも、かけ離れた所がいいんじゃないかと思うんだ」

『どちらかの国だと、どちらかが犠牲を払ったみたいに思えるから、ってこと?』

「それもあるけど。

ほら、お互い無職になるんだし、新しい場所で再出発しよう」

『無計画過ぎない?』

​そういいながらも、彼女の声は高く澄んでいる。

「それは、そこへ行ってから一緒に考えよう」

『どこの国にする?』

「インドネシアはどうかな?」

『インドネシア!?』

「ああ」

『思いきったわね』

「なんとなく決めてみたんだ」

『あははは』

「現地集合にしよう!

パスポートの有効期限は大丈夫?」

『大丈夫』

「チケット買うお金はある?」

『ある』

「よし、向こうで再会だ」

『面白くなってきた!』

 


 

僕はニヤけてきて仕方がない。

僕は搭乗ゲート前のベンチに座っている。

​24時間の間で、3度目だ。

ここに到着した時は深夜だったから、数時間ベンチで仮眠をとった。

去年、彼女と旅行したバリ島を思い出していた。

 

蒸し暑い空気と汗ばんだ肌。

​エアコンが効きすぎた部屋からバルコニーへ出ると、湿気交じりの暖かい空気に包まれ、ほんのしばらくホッとした。

開けた窓から、室内の冷気がこちらへ流れてきた。

部屋の中央に据えられた巨大なベッドに、彼女がうつぶせに眠っていた。

真っ白なシーツから、彼女の小さなかかとがのぞいていた。

僕はあの時、こう思ったのではなかったか。

彼女の手を離さないと。

 

紙コップのコーヒーを飲みながら、全面ガラスの向こうを見渡した。

延々と延びる、白くかすんだ滑走路の先のすそが、曙色に染まっている。

夜明けの空の下、3月のひんやりと乾いた空気を吸う様を、想像する。

太陽が間もなく姿を現すだろう。

彼女と繋いだ手は二度と離さない。

僕は彼女と生きていく。

新しい僕らの一日が始まろうとしている。

 

 

 

(つづく)

 

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【短編】青春の瞬き★

 

実力テストの結果発表が、職員室前の掲示板に張り出された。

 

興味のないふりをして、僕は自分の名前を見つけ、軽くため息をつく。

 

2番だ、今回も。

 

1番は、Hクラスの「リョウ」とある。

 

僕はわりと成績のよい方だったし、日々の勉強も苦にならないたちだったけど、どうしてもあと一歩、リョウには負ける。

 

僕のクラスはAクラスで、リョウのいるHクラスは隣の校舎だったから、リョウがどんな奴なのか、まだ知らなかった。

 

難関校を目指すFからIクラスの生徒は、勉強はできるが、あか抜けない生徒の集まりだ。

 

きっとリョウも、青白い顔色して、シャツの一番上までボタンをかけたような奴なんだろう。

 

外履きを脱いで、自分に割り振られた下駄箱の扉を開けると、上履きの上に白い封筒が置かれていた。

 

あまりに古典的過ぎて愉快な気分になった僕は、中身の指示に従って放課後に自転車置き場に向かった。

 

その子はすでに来ていた。

 

周りを見回してみたけど、彼女の友達が陰から見守っている気配はない。

 

珍しい、一人なんだ。

 

僕が来たことに気付いて、その子はパッと顔を上げた

 

つるんとした頬をした可愛い子だったけど、僕は丁重にお断りした。

 

「ごめん」

 

泣き出しそうなその子の表情を見て、自分が彼女を傷つけていることを実感する。

 

でも、好き好んで断っているわけじゃない。

 

付き合うとか付き合わないとか、僕にはそんな余裕がないんだ。

 

その子は、ぺこりと僕におじぎをすると、くるりと背を向けた。

 

ひとつに結んだ長い髪を揺らして小走りで駆けていった。

 

僕は深く息を吸い込み、吐いた。

 

(それどころじゃないんだよ)

 

僕は、高校三年生。

 

将来を左右する大きな試験を控えているんだ。

 

 


 

 

僕ら三年生にとって、息抜きとなるべく最後の行事は、球技大会だ。

 

ソフトボール、バスケットボール、バレーボールの3球技分、1クラス内でチーム分けする。

 

僕はくじ引きで、ソフトボールだった。

 

気合の入っているクラスはチームTシャツまで作っている。

 

よく晴れた日だった。

 

ソフトボールはグラウンドだから、日に焼けて、さぞかし暑くなるだろうと想像してゲンナリしていた。

 

青いジャージ姿の生徒たちが1,200人。

 

3タイプの生徒に分けられる。

 

最高の思い出を作ろうと、底抜けに楽しめる奴。

 

大人数で集まって、それも苦手なスポーツをすることが、ただ苦手な奴。

 

貴重な勉強時間を削られることに苛立ちながら、嫌々参加する奴。

 

第一試合が始まり、笛の音を合図にグラウンドから歓声が沸く。

 

「おーい、チャンミンそろそろだぞー」

 

チームTシャツを着て、鉢巻きをした級友に呼ばれた。

 

「腹の具合が悪いんだ。

先に行ってて」

 

「なんだそりゃあ」

 

集合場所へ向かう彼らに背を向けると、僕は校舎の裏手にまわった。

 

 

喧噪が遠のき、裏山の木々が影を作っていて涼しい、

 

僕は球技大会なんて、最初から参加するつもりはなかった。

 

メンバー数が多いソフトボールに決まって助かった。

 

裏山のブロック塀と自転車置き場に挟まれた場所を目指す。

 

校舎内にいたら、サボる生徒はいないか巡回している教師たちに見つかってしまう。

 

僕は、来週行われる中間試験に備えたかった。

 

ボール遊びに興ずる同級生たちをよそに、試験勉強だなんて抜け駆けしているみたいで、僕は卑怯だ。

 

でも、気にしない。

 

それくらい、試験とは僕にとって大切なものなんだ。

 

 

先客がいた。

 

「チャンミン君?」

 

よりによって、あの子だった。

 

先日、僕に「好きだ」と告白してきた女子生徒だった。

 

(マジかよ)

 

「嫌な顔しないで」

 

一瞬嫌な顔をしたのを、見られてしまったようだ。

 

「サボり?」

 

「うん。

運動は苦手なの。

特に「球」とつくスポーツが大嫌い」

 

ここは諦めて、別の場所を探そうと踵を返そうとしたら、

 

「邪魔はしないから」

 

「う、うん」

 

彼女から2メートル離れて、僕も腰を下ろした。

 

彼女のTシャツの胸の刺繍が目がとまった。

 

「H組?」

 

「うん」

 

「ナカさんは、どこ目指してるの?」

 

彼女の名前は、手紙に書かれていた。

 

進学校だということもあって、「志望校はとこ?」は合言葉のようなものだ。

 

志望校の難易度によって、各々の学力も自然にはかられてしまう。

 

「“どこ”、というより、なりたい職業があって、

それになるには、どうしても学べる大学が絞られてきてしまうの」

 

「そうなんだ」

 

「チャンミン君は?」

 

志望校を言うと、彼女は両手で口を覆って、目を見開いて「凄い」とつぶやいた。

 

この日の彼女は、三つ編みヘアだった。

 

リュックサックから、問題集とノートを膝の上に広げた。

 

彼女は、読書を始めた。

 

「なんの本読んでいるの?」

 

ページを覗き込んだら、裏返しにしたカバーの表を見せてくれた。

 

「ばりばりの恋愛小説なの」

 

「ふうん」

 

呑気なものだと思った。

 

僕は、試験問題を1つ1つこなしてゆく。

 

彼女も読書に集中して、僕の邪魔をしない。

 

トートバッグから、お菓子を出して僕にすすめてくれた。

 

 

蝉の鳴き声がシャワーのように降り注ぐ。

 

ポイントが入ったらしく、校舎の向こうから歓声が沸く

 

どうしても解けない問題があった。

 

バッグから参考書を出して、ページを繰ってみたが答えを導いてくれそうなヒントを見つけられない。

 

イライラして何度も髪をかき上げていると、彼女が僕の隣に腰を下ろした。

 

僕の手元に顔をよせて、じっと問題集とノートを交互に見つめていた。

 

彼女の頬に、伏せたまつ毛が影をつくった。

 

僕の手からすっとシャープペンシルを抜き取って、僕のノートの隅にさらさらと公式を記した。

 

「え!?」

 

この問題は、志望校で実際に出題された試験問題だった。

 

正解率が10%未満の難問のはずだった。

 

「そっか、ナカさんは理系だったね。

 

えっと、H組はやっぱり頭がいいやつばっかりなんだろ?」

 

「そうだなぁ。

医者になりたい、とか薬剤師になりたい、とか明確な子の集まりかもね。

でも、普通の子もいっぱいいるよ。

たまたま数学や物理が得意で、Hクラスになっちゃった子たちとか」

 

「へえ」

 

彼女が笑った。

 

「えっと...」

 

僕は、気になって仕方なかった疑問を口にした。

 

ナカさんのクラスに、学年トップの奴がいると思うんだけど?」

 

「リョウ?」

 

「うん。

どんな感じ?

ガリ勉タイプ?」

 

彼女は、ほぅっと息を吐いた。

 

「私」

 

「え?」

 

「ナカ・リョウは、私」

 

「えっ...!」

 

“リョウ”という名前から、男子生徒だと思い込んでいたこと。

 

Hクラスにはナカ姓が3人いたこと。

 

目の前の彼女がナカだと名乗った時も、「ナカ・リョウ」だとは結びつけなかったこと。

 

「チャンミン君、成績いいよね」

 

「君の次にね。

余裕があるんだね」

 

リョウの手の中の本をあごでしゃくった。

 

球技大会をサボって、試験勉強をするわけでもなく、恋愛小説を読んでるなんて、余裕たっぷりじゃないか。

 

彼女にジェラシーを覚えた。

 

陰でこそこそ勉強している自分が、恥ずかしく思えた。

 

「これはね、息抜きなの。

私、大げさじゃなく一日6時間以上は勉強してるのよ。

休みの日は、一日中。

私は秀才じゃない。

人一倍勉強しているから、テストの結果がいいだけのこと。

チャンミン君は、もともと頭がよさそうね」

 

「そんなことないよ」

 

「チャンミン君にフラれちゃったから、恋愛小説でも読もうかなって思って」

 

「ごめん」

 

「大嫌いなバレーボールやってストレス溜めたら、試験勉強に影響が出ちゃうでしょ。

だから、本を読むことにしたの。

結局、活字から逃れられないのは変わらないんだけど」

 

そう言ってリョウは、哀しげな微笑を浮かべた。

 

・・・

「どっちがいい?」

 

自販機で買ってきたジュースを、リョウに差し出した。

 

「お茶は売切れていた。

オレンジジュースとリンゴジュース、好きな方選んで」

 

「チャンミン君が先に選んでよ。

私、どちらも好きだから」

 

“どちらでもいい“じゃなくて、両方好きと言ったのが新鮮だった。

 

「チャンミン君、お弁当は?」

 

「売店で適当に買ってくるつもりなんだけど?」

 

「売店なんか行ったら、友達に見つかっちゃうよ。

午後からの試合に引っ張り出されるよ」

 

「それは嫌だなぁ」

 

「私のお弁当分けてあげるよ」

 

「悪いよ」

 

「お菓子もいっぱいあるから、大丈夫」

 

「ありがとう」

 

リョウの弁当箱は小さくて、遠慮なく手を伸ばしにくかった。

 

リョウは僕の手の平にサンドイッチの最後の一つをのせてくれた。

 

「あとでタコヤキ食べに行こうよ」

 

「駅前の?」

 

「行こ行こ」

 

僕らは顔を見合わせた。

 

「うん」

 

リョウの前で、僕は初めて笑顔を見せた。

 

・・・

 

参考書もノートも、バッグの中だ。

 

僕は、勉強なんてどうでもよくなっていた。

 

今日はやらない。

 

 

「どうして、僕のことが...いいって思ったの?」

 

「好きになったポイントはね、

 

チャンミン君の、頭のほら、後ろのところ」

 

リョウが指で僕のうなじに触れた。

 

ぞわっと電流が背筋を流れた。

 

「ここが、くるん、ってなってるでしょ?」

 

僕の髪はくせ毛で、耳の後ろの髪が内巻きにカールしている。

 

「そこがいいなって思ったの」

 

「そこ?」

 

「補足すると、

チャンミン君って背も高いし、勉強もできるし、かっこいいでしょ?

それなのに、

髪の毛がくるん、ってしてて」

 

リョウは、両手で口を押えて笑った。

 

笑顔がめちゃくちゃ可愛かった。

 

「そこが、いいなって思ったの」

 

「そこ?」

 

僕も吹き出した。

 

「渡り廊下ですれ違った時、

チャンミン君、手すりにもたれてぼーっとしていた。

その時に見たの、くるんを」

 

「喜んでいいのか、悪いのか...」

 

「テスト結果の表に、私の左側に並んでるチャンミン君には、注目してたんだ」

 


 

制服に着替えて、表彰式が行われているグラウンド脇を避けて、裏門から外へ出た。

 

リョウのバックを、僕の自転車のカゴに入れてやった。

 

トートバッグの重さに、彼女も必死に勉強をしている身なんだと実感した。

 

駅までの道のり、僕は自転車をひいて、リョウはその隣を歩いた。

 

いろんな話をした。

 

それぞれが通っている予備校の、ユニークな講師のこと。

 

解答欄を1段ずらしてしまった夢をみたこと。

 

誤植のせいで永遠に解けない問題のこと。

 

駅前で、やけどしそうに熱いタコヤキを二人で分け合った。

 

ソースが唇の端についたリョウを見て笑って、シャツの胸元をソースで汚した僕を笑った。

 

リョウが差し出した水色のハンカチで拭いたら、ますます汚れが広がってしまって、可笑しくて二人で笑いこけた。

 

頭の中の公式と単語がこぼれ落ちないよう、常に補充し続けていた僕ら。

 

眉間にしわをよせ、全身が緊張状態だった僕らの、つかの間の小休止だった。

 

駅についても離れがたくて、学校まで引き返す道中もずっと話をした。

 

「今日は予備校を休む」

 

ちろりと舌を覗かせて、リョウは笑った。

 

僕の方も忘れていた。

 

「明日から頑張るから、大丈夫」

 

日が暮れて、お互いそろそろ帰宅しなければならない時間が迫っていた。

 

「じゃあ、ね」

 

「今日は楽しかったー。

それじゃあ、お互い頑張ろうね」

 

改札口へ向かうリョウの手首を、僕は捉えた。

 

顔を近づけた時、日焼け止めクリームの香りがした。

 


 

リョウと会話を交わしたのは、あの日限りだった。

 

理数系校舎に繋がる渡り廊下をうろついて、彼女の姿を探した。

 

休み時間、行きかう生徒たちの中に、彼女に似たシルエットを見つけると、思わず顔を伏せてしまった。

 

恥ずかしかった。

 

ガリ勉なのに、そうは見えないリョウの姿をずっと探していた。

 

翌週行われた期末試験結果が張り出されたとき、僕の名前は一番右端にあった。

 

あり得ないと思って、連なる名前を順に追って探した。

 

リョウの名前がなくなっていた。

 

その後、猛烈な受験勉強にも関わらず、僕は第一志望を落とし、第二志望校へ進学した。

 

浪人生ができるほど、僕の家は経済的余裕がなかった。

 

得たものがあったのか、なかったのかよく分からない高校生活だった。

 

ひたすら机に向かっていた3年間だった。

 

何かを始めるための、準備期間だった。

 

進学できた暁に、その何かを始められたのだろうか。

 

意識しないうちに、始まっていたんだろうか。

 

延々と続くかのように思われた、重苦しく黒い道程で、

 

リョウと過ごしたたった数時間が、ポツンと瞬く光だった。

 

そう振り返られたのは、ずっとずっと後のこと。

 

渡り廊下の灰色の床と、白い靴下と白い上履き、制服のズボンの裾。

 

この映像が僕の記憶に焼き付いている。

 

 


 

 

得意先に無事サンプル品を届け終え、普段利用しない駅に向かっていた。

 

初夏を迎え、ネクタイに締め付けられた衿が暑苦しかった。

 

信号が変わり、横断歩道を渡る。

 

ぎらぎらと照り付ける日光が、シャツの背中を濡らしていく。

 

彼女だと、ひと目でわかった。

 

ベージュのブラウスに、ネイビーのタイトスカートを履いていた。

 

当時、後ろで一つに束ねていた髪が、肩までの長さになっていた。

 

雑踏の音が消え、僕は彼女の姿に吸い寄せられた。

 

涙が出そうなくらい、綺麗だった。

 

僕と目が合ったとき、彼女の目が見開いた瞬間を見逃さなかった。

 

僕は渡りかけた横断歩道を戻って、こちらへ渡ってきたリョウと合流した。

 

彼女の左薬指を、とっさに確認した。

 

つるんとした頬はそのままだった。

 

 

「ナカさん」

 

 

「チャンミン君...?」

 

 

リョウは差していた日傘を、僕に差しかけた。

 

パンプスの足がつま先立ちになっているのに気が付いた。

 

「いいよ、僕は平気だから」

 

僕の額から汗が噴き出していた。

 

暑さだけが原因じゃない。

 

「暑いわね」

 

リョウが差し出した水色のハンカチを受け取った。

 

まぶしいのは、ぎらつく太陽の光だけじゃない。

 

始まるか、始まらないかなんてわからないだろう?

 

声をかけなければ、何も始まらないだろう?

 

 

「急いでる?」

 

「30分だったら」

 

 

 

(おしまい)

 

 

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【8】前からー僕を食べてくださいー

 

 

「キキ...ごめん」

 

キキの背中を力いっぱい抱きしめながら、彼女の耳元で謝罪の言葉を口にした。

 

「ごめん...こんな風にするつもりじゃなかったんだ」

 

キキの同意を得ぬまま、一方的に、後ろから、半ば犯すようにやってしまった。

 

「...これ、どうしたの?」

 

キキの指が、僕の腕に巻かれた包帯に触れた。

 

「ああ、これは...」

 

昼間、トタン板にひっかけて傷を負った件を話すと、キキは

 

「包帯を外して見せて」

 

と、耳を疑うようなことを言った。

 

「チャンミンの怪我をしたところが見たい」

 

(やっぱりキキは頭がおかしい人なのかもしれない。

傷口が見たいだって?)

 

「見せて」

 

腰をひいて僕のものを引き抜いたキキは、片足にぶら下がっていたショーツを蹴とばすように脱いだ。

 

僕も膝まで落ちた下着とデニムパンツを履く。

 

場内は真っ暗で、かろうじて互いのシルエットが判別できる程度だ。

 

キキに片手を引かれて、マットレスに腰を下ろした。

 

僕は懐中電灯で自分の腕を照らしながら、包帯をゆっくりと解いていくキキの指の動きをくいいるように見た。

 

「眩しいよ。

照らさないで」

 

キキが苛立ったような声を出したから、僕は慌てて懐中電灯の向きを脇にずらした。

 

テープを剥がすため、皮膚に爪が立てられる感触に鳥肌がたった。

 

僕の傷に触れないように ひと巻きひと巻き包帯を解いていく行為を官能的だと思った。

 

キキのまつ毛が震え、瞳がキラキラと光っていた。

 

キキの温かい息が僕の腕にかかり、さらに鳥肌がたった。

 

傷を覆っていたガーゼが取り除かれた時、キキの瞳の色が濃くなったような気がした。

 

あさってを向いた懐中電灯の乏しい灯りのもとだったから、なんとなくだけれど。

 

まだじくじくと血がにじむ傷口が、キキの食い入るような視線にさらされて、僕は猛烈に興奮した。

 

キキの白い喉が、ごくんと波打った。

 

キキとぴたりと視線が交錯した。

 

吸い寄せられるように、キキに顔を近づけたけれど、すんでのところで思いとどまった。

 

先刻キキを犯すような真似をした自分を、下半身に支配された自分を恥じていたからだ。

 

キスなんてしたら、止められなくなる。

 

「キキは...、

ここに住むの?

電気も通っているみたいだし」

 

その代わりに、僕はキキに対して抱いている疑問をひとつひとつ解消させることにした。

 

「そうね。

別荘代わりにするつもりだよ。

来週には工事が入る。

こんな状態じゃ...」

 

キキはぐるりと見渡して、首をすくめると、

 

「あまりにも、酷すぎるでしょ?

シャワー・ルームもトイレもない。

それじゃあ、チャンミンも困るだろうし。

いろいろと...出しちゃうでしょ?」

 

暗いから、カッと顔が熱くなった顔をキキに見られなくて助かった。

 

「ま、いざとなれば下で水浴びすればいいよね?」

 

キキは裏手の方を立てた親指で指した。

 

「川。

子どもみたいに川遊びできるんだよ。

楽しそうでしょ?」

 

「う、うん」

 

「キキは...どこに住んでたの?」

 

「世界中、あちこち」

 

「結婚は?」

 

「独身」

 

「いくつ?」

 

「女性に年齢を訊くものじゃないよ、失礼ね」

 

「仕事は?」

 

僕とそんなに年齢が変わらなさそうなのに、あんな高級車と、この建物を買ったか借りるかした資金力について気になっていた。

 

「投資」

 

「トーシ?」

 

「株とか、為替とかいろいろ。

あそこのスーツケースを持っておいで」

 

僕は立ち上がって、壁際に置かれた白いスーツケースを引きずってきた。

 

相当な重さで、傷を負った腕がひきつれるように痛んだ。

 

「開けてみて」

 

パチンパチンとロックを外して開けた中身を見て、絶句した。

 

「なんだよ、これ...」

 

隙間なく紙幣が詰められていた。

 

「当座の生活資金。

生きていくには、何かとお金がかかるでしょう?」

 

「それにしたって...」

 

「欲しければ、いくらでも持っていっていいわよ」

 

「馬鹿にするな!」

 

そりゃあ、僕が呑気に学生をやっていられているのも、両親の事故によって支払われた賠償金のおかげだ。

 

年をとっていくばあちゃんの面倒も、あちこちガタがきている家もいずれ何とかしなくちゃならない。

 

女だろうと、男だろうと、恵んでもらうなんて嫌だ。

 

僕を弄ぶ代わりの代償か?

 

ところで...僕とキキとの関係は何だ?

 

行きずりに出会った『セフレ』か?

 

僕らは、ただヤるだけの関係なんだろうか...。

 

複雑にこんがらかった気持ちの処理に困って僕は、キキの肩に腕をまわした。

 

僕の我慢も小一時間が限界だった。

 

「ちょっと待って」

 

寄せた僕の唇を押しのけて、キキは立ち上がるとケーブルドラムの上に置いた白い水筒の中身を飲んだ。

 

「水筒を買ってくれてありがとう。

便利ね、蓋が閉められるからこぼれないし。

冷たいものがいつでも飲めるし」

 

マットレスに腰を下ろした僕の元まで戻ってくると、点けっぱなしだった懐中電灯のスイッチを切った。

 

 

僕らは暗闇に包み込まれた。

 

 


 

 

僕の耳にふぅっと息が吹きかけられた。

 

「は...ぁ...」

 

僕の耳たぶが軽く咥えられ、耳の穴に舌が差し込まれた。

 

「あ...」

 

ぞわっと鳥肌がたった。

 

キキの頬を両手で挟んで、唇を重ねた。

 

キキの顎まで覆ってしまうほど大口を開けてできた空間で、互いの舌を絡めた。

 

唇を離して、キキの舌を頬張り吸う。

 

僕の唇の間から舌を抜いたキキは、

 

「チャンミン...どこでそんないやらしいキスを覚えたの」

 

と言って、今度は僕の舌を咥えこんだ。

 

「ん...ふ...」

 

キキを押し倒そうとしたら、「待って」と僕を制した。

 

衣擦れの音から、キキは着ているものを脱いだようだった。

 

僕も慌てて服を脱ぐ。

 

あまりに暗すぎて、互いの身体は見えないはずだ。

 

横たわった彼女の上に、僕は覆いかぶさる。

 

片肘で上半身を支えながら、彼女の身体の凹凸を把握しながら、手の平で撫ぜた。

 

初めて女性の生肌に直接触れた。

 

体毛もなく、滑らかで、柔らかさに感動した。

 

手のひらを優しく押し返す柔らかな弾力と、なだらかなラインに、僕の体内が沸騰してきた。

 

見えないからこそ、感覚が研ぎ澄まされる。

 

彼女の両腕は僕の脇から背中へまわされ、さわさわと指先で僕の背筋のくぼみを行ったり来たりしていて、ぞくぞくと気持ちがいい。

 

彼女の首筋に唇をつけ、軽く吸い付いた。

 

彼女の乳房をすくいあげるようにして揉んだり、指を離してふるっと拡がる感触を楽しんだ。

 

唇を付けたまま、鎖骨をたどって彼女の胸先を口に含む。

 

これも初めてだ。

 

舌触りで、その形と硬さを感じた。

 

前歯で軽く、ほんの軽く噛んでみたら、ピクリとキキの身体が震えて、それが嬉しくて、興奮を誘った。

 

彼女の太ももに僕のものが擦れて、あふれ出る先走りが潤滑剤となって、ますます気持ちがいい。

 

「あっ...」

 

僕のものが彼女の手で柔く握られ、ゆるゆるとしごかれた。

 

「あ...ぁ...」

 

恥ずかしげもなく漏らす自分の喘ぎ声にすら、興奮した。

 

彼女を愛撫する余裕が、全くなくなってしまった僕。

 

もう、待てない。

 

彼女の両膝を押し開いて、自分でも驚くほど硬く硬く成長したものを突っ込んだ。

 

「んん...」

 

快感の電流が背筋を駆けのぼる。

 

低い唸り声が喉の奥から発せられた。

 

彼女の腰を引き寄せて、根元まで沈めた。

 

「ふぅっ...」

 

両手の平を彼女の太ももに添えて、腰を前後に揺らし始めた。

 

滑らかに絡みつく彼女の膣内を味わい尽くそうと、感触に集中する。

 

僕の両膝がマットレスに食い込む。

 

マットレスのスプリングの弾みを利用して、リズミカルに腰を振る。

 

「はぁ...はぁ...」

 

彼女が放つ甘ったるい香りを胸いっぱいに吸い込んだら、快感は増して頭の中が真っ白になった。

 

気持ちがいい。

 

突き刺す角度を変えたくて、仰向けのキキの上に身を伏せる。

 

彼女の両膝を僕の腕でひっかけて、両ひじをマットレスにつけて身体を支える。

 

そうすると、互いの身体が密着し、より深く彼女の中を突けることが分かった。

 

気持ちいい。

 

僕が腰を振るたび、彼女の乳房も揺れる。

 

彼女の乳首が僕の胸をかする感触も、欲を煽った。

 

彼女に口づける。

 

「あっ...」

 

彼女の指が、僕の乳首にのびて、僕の背がびくりと震えた。

 

2本の指でくにくにと摘まんだり、緩めたり、爪を立てたりしだした。

 

「はぅっ...」

 

股間の刺激に、両胸の先端の刺激が加わって、快感を逃すコントロールがきかなくなってきた。

 

彼女は唇から離すと、僕の乳首に吸い付いた。

 

「くっ...駄目、駄目だって!

イっちゃうから...離せっ!」

 

彼女の肩を掴んでマットレスに押しつけたが、彼女の力は凄まじい。

 

僕の首にタックルすると、歯を食いしばる僕の口をぴったりと覆った。

 

息継ぎが出来ず顎を緩めた隙に、彼女の舌が侵入してきた。

 

彼女の舌を追いかける余裕もなくて、なぶられるがままでいた。

 

ずるりと彼女の口内に舌が引きずり込まれたかと思うと、甘噛みされる。

 

(噛まれる!)と覚悟したら、案の定彼女の歯が瞬間的に食い込んで、パッと口の中いっぱいに血の味が広がった。

 

どちらが流した血か分からないくらい、口内を混ぜあう行為で、僕の下半身へ流れ込む血流が増したようだ。

 

ぐっと睾丸がせりあがってきたのが分かった。

 

「も...うっ、駄目...だ」

 

限界が近づいてきて、僕の手汗で滑りそうになっていた彼女の腰を掴みなおした。

 

射精まで、あと少し。

 

がくがくと腰を揺らした。

 

天井を仰ぎ、目をつぶる。

 

股間の筋肉が収縮した。

 

「イくっ...イくっ...くっ...はっ...!」

 

彼女の一番深いところに、溜めた精液を放った。

 

ふるふるっと腰が震えた。

 

そして、彼女の上に崩れ落ちた。

 

 


 

 

愛し合った、と言えたのだろうか。

 

慣れない僕はやっぱり余裕がなくて、自分だけの快楽に夢中になってしまった。

 

キキの喘ぐ声も聴けなかった。

 

するすると滑りがよかったから、多分、感じていてくれたとは思うけれど、喘ぎを堪えている風ではなかった気がする。

 

そうだとしても、

 

初めて、愛情をもってキキに触れた、と思った。

 

僕の手の平に吸い付くほどしっとりとした肌や、くびれたウエストやつかんだ腰の細さに、心震えた。

 

冷たい肌。

 

けれども、中は温かい。

 

不思議な肉体の持ち主だ。

 

この行為に愛が宿っているのかどうか、キキがどう考えているかは分からない。

 

ほんの少しだけであっても、キキの実体を把握できたことに安心した僕だった。

 

これまで出会った女性の中で(なんて言っても、わずか20数年間の人生では)、最も美しい人で、バックグラウンドがいまいち掴み切れない謎な部分に惹かれている。

 

惹かれてる...なんて言い方はささやか過ぎる。

 

僕は初めて会ったときから、キキに夢中だったんだ。

 

例え性愛からスタートしたものだったとしても、快楽に溺れた末のものだったとしても。

 

僕の肉体ならいくらでも、キキに捧げるよ。

 

雨降る山道で、キキに襲われた。

 

キキは僕の捕食者で、僕はキキの獲物だ。

 

僕は、キキの側にいたい。

 

僕をいくらでも食べていいから。

 

彼女といられるのは、あと2日。

 

 

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【7】後ろからー僕を食べてくださいー

 

 

小さな車を運転して、僕はばあちゃんちに戻った。

 

キキは、レジ袋から水筒とローションボトルだけを抜き出すと、「じゃあね」と僕に手を振って廃工場へ入ってしまった。

 

彼女の正体についてさっぱり分からないことばかりだけど、少しずつ聞き出せばいいや、と思った。

 

彼女と抱き合えるのなら、今は満足だ。

 

食料品を冷蔵庫におさめた後、着古したジャージに着替えて車庫に向かった。

 

見上げると確かに、錆び切った波トタンからいくつも光が漏れている。

 

ばあちゃんちは古ぼけていて、どこもかしこも壊れているんだ。

 

車庫内の物置棚の片づけに取りかかった。

 

雨水でふやけきった段ボール箱は、抱えるだけで底が抜けそうだ。

 

絶望的な状態なもの以外は、収納ケースへ中身を移しかえていく。

 

「あ...」

 

箱の底から、カビだらけになったワインレッドのハンドバッグを取り出した。

 

亡くなった母の持ち物だ。

 

地域で行われた納涼祭りの帰り道のことだ。

 

両親と僕が乗った車と、対向車線を大きくはみ出した時速120キロの車とが正面衝突した。

 

この辺りの道路はS字カーブが続く峠道で、運転テクニックを試したい走り屋たちの格好のコースになっている。

 

100メートル後方の橋の欄干にぶつかるまで押された後、レスキュー隊が到着するまで持ちこたえられなかった僕らの車は、15メートル下の河原に落下した。

 

引き上げられた車内には父の遺体と瀕死の母だけで、後部座席にいるはずの僕がいなかった。

 

車外に放り出されて川底に沈んでしまったのだと落胆の空気が漂ったが、河原の灌木の陰に、丸まって眠る僕が発見された。

 

額を切って頬やシャツを赤く染めていたが、それ以外は無傷だった。

 

どうやって車外へ出られたのか、と大人たちは首をかしげていた。

 

衝突の瞬間、車外に放り出されたのでは、とか、墜落する前に自力で窓から抜け出したのでは、と結論付けた。

 

前髪の生え際には、その時の傷跡が残っている。

 

小学生だった僕は、事故直後の混乱ぶりをなんとなく覚えている。

 

点滅する赤いランプと、クレーン車がたてる轟音、駆けつけたばあちゃんの叫び声。

 

病院の床に土下座をする青年たちに、怒号を浴びせる親せきの叔父さん。

 

輸血液が足りないと、近所のおじさんやおばさんたちが駆り集められていた。

 

同級生のお母さんたちの、沢山の同情の言葉。

 

母は2日後に息を引き取った。

 

 

僕の母はばあちゃんの娘にあたる。

 

僕の親代わりとなったばあちゃんは必死で、娘の死を悲しむ間もなかったと思う。

 

思い出を封印するため、目につく場所から母の持ち物を一掃した。

 

ばあちゃんは、何もかも段ボール箱に詰め込んで、車庫の片隅に押しやってしまった。

 

これら車庫に積み上げられ、10年以上放置されたものを、僕は片付けている。

 

今僕の手の中にあるハンドバッグを、河原で発見された当時、僕は胸に抱きしめていたそうだ。

 

このバッグのことを、今の今まで忘れていた。

 

ばあちゃんったら、形見に近いこのバッグまでこんな場所に置いていたなんて。

 

思い出を詰め込んだ収納ケースを僕の部屋の押入れまで運び、ごみ袋は車庫の脇にまとめた。

 

開け放った居間の掃き出し窓に腰かけ、よく冷えた缶ビールをあおった。

 

生まれ育った懐かしい家にいるのに、もっとばあちゃんを気遣わなければならないのに、キキのことばかり考えていた。

 

数時間前に別れたばかりのキキが、恋しくてたまらなかった。

 

今日一日で、3度もキキに絞り取られた僕だったから、さすがにもう下半身の疼きはない。

 

それでも、キキに会いたかった。

 

 


 

 

「チャンミンが作ってくれたのか?」

 

「うん。

さすがに猪鍋はキツイと思って」

 

ばあちゃんは美味そうに、肉野菜炒めとわかめスープを食べてくれた。

 

食後、ばあちゃんにお茶を淹れてやりながら、さり気なく質問した。

 

「ばあちゃん、Tさんの鉄工所ってあっただろ?

借金があったとか、後継ぎがいないとかの理由で、廃業したところ」

 

熱いお茶をゆっくりと飲みながらばあちゃんは、思い出そうと視線をさまよわせていたが、何度か頷いた。

 

「ああ、そんなことあったね」

 

「あそこって、今誰か住んでたりする?」

 

「やっと引っ越してきたのか?」

 

「やっと?

どんな人?」

 

「さあ。

芸術家だか、その後援者だかが、買い取ったって噂だよ。

作品を作るのに、ああいう広い建物がいいとかって、アトリエにするんだと。

でも、ずいぶん前の話だよ。

買ったものの、不便なところだから住むのは諦めたんだろう、ってみんな話してた。

あそこがどうした、チャンミン?」

 

 

「いや、あそこの前を通りかかったから」

 

廃工場を購入したのはキキなのだろうか?

 

「その誰かが買ったって、いつの話?」

 

「そうだねぇ...」

 

ばあちゃんは思い出そうと、しばらく目をつむって唸っていたが、

 

「10年は昔の話だよ」

と言った。

 

10年か...。

 

その誰かが買ったあの建物を、キキは借りるか買うかするつもりなのだろうか。

 

キキのX5は、リッチな誰かに買ってもらったのだろうか。

 

謎だらけのキキについて、勝手に想像して勝手に嫉妬する自分がいた。

 

キキに会ったとたん、僕は肉体の全てを捧げ出したくなってしまう僕だから。

 

わずか2日で、僕はキキにのめりこんでいる。

 

キキに会いたかったけど、今夜の僕の下半身はもう、使い物にならない。

 

彼女とは心の通い合いはまだ、ない。

 

彼女に差し出しているのは、僕の身体だけ?

 

僕が欲しいのは、快楽をもたらすキキの手指だけ?

 

そう言いきれない自分がいた。

 

 


 

 

翌日。

 

廃屋レベルに壊れかかった車庫を、少しでもマシな状態にしようと、ごたごたと放置されたガラクタを片付けることにした。

 

軍手をはめて、劣化して穴のあいたプランターや、廃棄しそびれた灯油ストーブ、僕がかつて使っていた子供用自転車など、もっと早いうちに捨てるべきだったものを、取り除いていく。

 

斜めにぶら下がってしまった波板トタンを、真っ直ぐに直そうとした時、

 

「あっつ!」

 

トタン板の鋭くめくりあがっていた箇所に、腕をひっかけてしまった。

 

カッと熱い激痛が走った後、スパッと切れた傷口から血が流れた。

 

ばあちゃんは大いに心配して、医者に診てもらえと譲らなかった。

 

診療所で消毒をしてもらい、その後、ばあちゃんの買い物に付き合ってやった。

 

遠くのホームセンターまで向かって、雨漏りする屋根の応急処置として養生シートなどを購入した。

 

その帰り道、昨日遭遇した同級生につかまって食事に誘われた。

 

解放されたときには夕方になっていた。

 

「飲みに誘われちゃって」と、ばあちゃんに電話を入れる。

 

「帰りは?

車は運転できないだろう?」

 

「飲めない奴も一緒だから、送ってもらうよ」

 

キキに会いたくてたまらなかった僕は、はやる気持ちを抱えて廃工場へ向かったのだった。

 

夕暮れから夜への狭間の時刻で、足元はまだ明るいけれど、建物を囲む木々は闇に沈んでいる。

 

ここには外灯などないから、グローブボックスから小さな懐中電灯を取り出した。

 

廃工場に繋がる小道脇に車を停めると、蛙の鳴き声に包まれ、手足に群がる羽虫をよけながら、砂利道を歩く

 

既に僕の股間は熱くなっていた。

 

いやらしい奴だ。

 

なんて僕は、いやらしい男なんだ。

 

やりたくてやりたくてたまらないだけの、性欲の塊だ。

 

キキを求めるこの感情は、肉欲によるものだけなのか?

 

今の僕がはっきりと言い切れることは、とにかくキキに触れたいということだ。

 

 

 

シャッターが下まで閉まっていた。

 

工場脇を見ると、キキのX5は停まっている。

 

裏手まで回って裏口のドアのノブをまわすと、開いた。

 

(よかった)

 

ホッとして足を踏み入れたが、中は真っ暗だった。

 

暗くて当然だ、電気が通っていないんだから...。

 

いや、違う。

 

キキが僕に冷たいミネラルウォーターを投げて寄こしたことを思い出した。

 

あちこちに横たわる鉄の塊に、ぶつかったり脚をひっかけたりしないよう、懐中電灯の乏しい灯りを頼りに進んだ。

 

薄闇の中で冷蔵庫の白が浮かび上がっている。

 

電源が来ている...ということは、電気工事は済んでいるのか。

 

冷蔵庫の扉を開けようとした時、

 

「!」

 

僕の肩に手がかかった。

 

その手は力強く、一瞬で体の向きが180度変わって、背後にいたキキと対面した。

 

「びっくりした!」

 

足音もしなかったし、気配も一切感じられなかった。

 

「そろそろ来るんじゃないかと、思ってたんだ」

 

懐中電灯の灯りに照らされて、キキの眼が赤く光っていた。

 

「眩しいよ」

 

「ごめん」

 

キキの顔に向けていた懐中電灯のスイッチを、慌てて切った。

 

途端に視野が暗くなって、キキの顔もぼんやりとしか判別できなくなった。

 

キキの腕を掴んだ。

 

暑いくらいの気温なのに、ひんやりと冷たい肌だった。

 

(もう...駄目だ...我慢できない...)

 

自分の方に引き寄せて、キキの首筋に吸い付いた。

 

キキの冷えた皮膚に、僕の体温は吸い取られていく一方のはずなのに、欲にかられた僕はどんどん熱くなっていく。

 

反して、キキは口角だけを上げただけの微笑みをたたえている。

 

首筋から唇を離して、間近に迫ったキキの表情を窺った。

 

暗くて瞳の色はわからないけれど、しんと醒めた眼差しをしているのだろう。

 

「そんなに私に会いたかったの?」

 

キキの手の平が、僕の耳のうしろに差し込まれた。

 

僕は頷いた。

 

「得体のしれない不気味な私でも...

チャンミンは、いいわけ?」

 

いいのか、悪いのか、そんなこと今はどうでもいい。

 

キキを抱き上げると、奥に据えられた白いマットレスを目指す。

 

女性を抱き上げたことはないから、比較のしようがないけれど、キキは軽かった。

 

何が何でも今すぐ、キキを自分のものにせずにはいられない焦燥に駆り立てられていた。

 

昨日、キキのX5の中でもたらされた、脳みそが痺れそうになった快感をもう一度味わいたかった。

 

キキが漂わす香りがあまりにも甘くて、酔っぱらったかのようになった僕は、鉄くずのひとつに足を引っかけてしまった。

 

(危ない!)

 

大きくつんのめって、抱いていたキキを前方に投げ出してしまったが、

 

キキは地面に転がり落ちる前に、工場を斜めに横たわる鉄骨にしがみついた。

 

キキを羽交い締めするかのように、背中から抱きしめる。

 

キキのウエストに腕をまきつけて動きを封じると、小さな顎をとらえて唇を覆いかぶせた。

 

「ふ...ふっ...」

 

キキの唇に重ねる。

 

軽く触れて、すぐに離す。

 

また重ねる。

 

鉄骨に寄り掛かって立ったキキの脚を、僕のひざで割った。

 

キキは抵抗もせず、口も開かず、僕になされるがままだった。

 

キキの中に挿れたくて仕方がなかった。

 

スカートを腰の位置までたくしあげる。

 

全身の血流が脈動する音が、うるさいほど感じられて、まるで全身が心臓になったかのようだ。

 

キキのショーツに手をかけて引き下ろしたが、全部脱がしてしまうのも面倒だった。

 

片手でベルトを外し、ボタンを外し、ファスナーを下げて、限界近くまで怒張したものを、キキのそこへあてた。

 

先を滑らしながらここだと見当つけた箇所へ、腰をゆっくりと押し込んだ。

 

「ふっ...ううぅ...」

 

自分でも初めて聞くような、低い唸り声が出た。

 

熱いぬめりが僕のものを360°、微かな吸引力をもって包み込む。

 

「...はぁ...あぁぁ...」

 

(やばい...挿れただけで、イッてしまいそうだ)

 

歯をくいしばって快感を逃がすと、一呼吸ついた。

 

キキの腰をしっかりと掴むと、自分の腰に引き寄せる。

 

と同時に、僕の腰をキキのそれに叩きつける。

 

「うっ...ふっ...」

 

下腹に触れるキキの尻はひんやりとしているのに、彼女の膣内は温かい。

 

突き立てるごとに、僕の先端から頭の先端まで、閃光のような快感が走る。

 

突いて引いて、突いて引いて。

 

濡れて、粘性を帯びた音が響く。

 

腰を突き当てるたびに、つかんだキキの腰にその衝撃が伝わって、僕を煽った。

 

(気持ちよ過ぎて、気が狂いそうだ)

 

両手で鉄骨をつかんだキキの後ろから、獣のように腰を打ち付ける僕。

 

(駄目だっ!

もたない...!)

 

そう何回も腰を振らないうちに、僕の限界が訪れた。

 

「っく...!」

 

最後は、キキの膣内に欲望を吐き出した。

 

果てた僕は、キキの背中に覆いかぶさり、彼女を両腕で深く抱きしめた。

 

2人分の衣服を通して、キキの背骨の凸凹と彼女の薄い身体と、柔らかな腹部を感じながら、僕の中からじわじわと罪悪感がわき上がってきた。

 

(僕は、何をやってるんだ?)

 

乱れた呼吸が整うにつれて、理性が戻ってきた。

 

盛りのついた犬みたいに、キキと交わった。

 

キキのそこは充分潤っていたけれど、喘ぎ声ひとつ漏らさなかった。

 

交わった、というより、

 

半ば犯すような形で、キキを貪った。

 

 

 

僕は、最低だ。

 

 

 

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【短編】手首を縛られて★

 

 

 

携帯電話を職場に置き忘れてしまったことに気付いたのは、電車が動き出してからだった。

 

一日の労働の後でくたくただったし、肩も凝っていた。

 

今から会社へ引き返す気力もなかったから、そのまままっすぐ帰宅することにした。

 

「しまった!」とヒヤリとしたけれど、同時に携帯電話から解放されて安堵している自分もいた。

 

アパートまであと数十メートルまでのところで、私は足を止めた。

 

くるりと向きを変えて、私は駅までの道を小走りに駆けだした。

 


 

私の彼氏の名前はチャンミン。

 

チャンミンは、いい男だが束縛男だ。

 

異常なまでに嫉妬深い。

 

彼は背も高く顔もよく、かなりの高給どりで、周囲から羨まれた。

 

交際したての頃は、街中で自分の隣を歩く美しい彼が自慢だった。

 

こまめにくれるメールや電話、

忙しい合間をぬって会いに来てくれるし、

記念日のサプライズ、高価な贈り物、そして甘い言葉。

 

最高の恋人なのかもしれない。

 

けれども、徐々に露わになる彼の異常さに気付くまで、一か月もかからなかった。


「今日は何してましたか?」

 

「メールの返信が遅くないですか?」

「この前渡したビタミン剤、毎日飲んでますか?

最近疲れているみたいだから」

じんわりくるきめ細やかな思いやりは嬉しい。

 

「その服装は露出が多くないですか?

他の男どもに、見られちゃうじゃないですか?

ダメです!

絶対にダメです!」

 

朝目覚めてから眠るまでの間、そばにいなくても彼の視線から逃れられない。

わずか2時間、連絡がとれなかっただけでも、彼にとっては一大事だった。

携帯電話は手放せない、絶対に。

 

半年前の出来事を、思い出す。

 


 

まだ私が、チャンミンの尋常じゃない愛情表現と束縛の正体に気づいていなかった頃だ。

彼が出張で遠方に行っていたときのことだ。

商談の前後、手洗いに立った時、食事の時などに、彼はメールを送ってきた。

「珍しいものを見つけたから、お土産に買ってきます」

「仕事は忙しいですか?」

「ひとことでもいいから、返事してください」

私はその日、クレーム対応に追われていて、メール返信ができなかった。

チャンミンからのメールに、ひとつひとつ返答できなかった。

面倒だった。

帰宅してテレビを観ながらビールを飲んでいたら、チャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だろう?」と、インターホンのディスプレイにチャンミンが映っていて、心底驚いた。

ぞっとしている自分がいた。

インターホンのカメラを、睨みつけるチャンミンがいた。

 

「どういうこと?出張じゃなかったっけ?」

動揺していて、チェーンがなかなか外せなくて、ドアを開けるまでに手間取ってしまった。

ようやくドアが開くと、彼は無言で部屋に入ってくるなり、力いっぱい私を抱きすくめて言うのだ。

「あなたが事故か何かに遭っているのかと思いました。

もしくは、僕がいないのをいいことに、他の男に抱かれているのかと思いました」

「ちょっと待ってよ、そんなことするわけないじゃない」

チャンミンは仕事を終えるとすぐ、片道4時間の出張先から私の様子を確かめにきたのだ。

呆れる私を、彼は後ろから羽交い絞めにすると、床に押し倒した。

 

「あなたからメールがなくて、僕は生きた心地がしなかった」

私を見下ろす充血した目は鋭かった。

「ごめんなさい」

彼の気迫のこもった眼差しに射すくめて、私は身体をこわばらせていた。

「僕はあなたとひとつになっていたい、ずっと、ずっと」

彼は、パジャマのボタンをひとつひとつ、ゆっくりと外していく。

猛禽類のように瞳をギラギラさせているのに、手つきが優しいから、余計ぞっとした。

しかし、私は拒まない。

これから始まる行為を想像すると、恐怖心と欲望が攪拌するホイップクリームのように混ざり合って、ふわふわと泡立つ。

 

強ばった私の身体から、力が抜ける。

 

甘くて乳脂肪がたっぷりな、ホイップクリームの出来上がり。

私も、彼のワイシャツを脱がせ、ベルトをするりと抜き取る。

指ですくったクリームを彼に差し出すと、彼は私の指ごと舐めとり咥える。

 

彼は私のあごを押さえて、付け根までクリームを塗りたくった指を、私の唇にねじこんで出し入れさせた。

 

ホイップクリームは、なくならない。

 

むくむくと湧いてくる。

 

彼の眼差しは狂気すら感じるのに、同時にその手は優しくて、くらくらする。

堅いフローリングの上で、脱ぎ散らかされた彼のジャケットと私のパジャマを下敷きに、交互に上になったり下になったり転げまわるのだ。

私の身体も自分の身体も、境目がなくなって、ひとつの物体になってしまうまで。

 

私の汗も彼の汗も、混ざり合ってどちらのものが分からなくなるまで。

正面からも、後ろからも、ありとあらゆる体位で。

私の方こそ、彼に夢中だ。

「あなたの中に溶けてしまいたい」

耳元でもらす彼の喘ぎ声を聞きながら、私は彼の頭を抱きしめる。

もし、本当に他の男に抱かれていたと知ったら、私はチャンミンに殺されるだろう。

汗だくになった私たちがシャワーを浴びていると、再び彼は後ろから私を抱きすくめてつぶやく。

「あなたと離れていたくない」

「分かってるよ」

私は彼の方に向き直ると、彼の可愛いお尻を両手でつかんで、爪を立てた。

彼の嫉妬は、自分自身に自信がなくて、その不安を埋めるためのものではない。

 

ただただ、私を自分のものにしたいだけだ。

自分の中に、私を取り込んでしまいたいのだろう。

彼の目には私しか映っていない。

そんなこと分かっている

 


チャンミンは、束縛男かもしれないが、暴力もないし、乱暴なことも言わない。

 

私のアパートの鍵も要求しないし、携帯電話を盗み見ることもない。

 

けれども、少しの間連絡が取れなくなったり、休日を一緒に過ごせなかったりした時の、彼の悲しみようが凄い。

 

がっくりと肩を落として、めいっぱい残念がっている彼の背中を見ると、キュウっと胸が痛くなる。

「ごめんね。

そばにいるから」

彼の頭のてっぺんにキスをして、友人に断りの電話を入れる。

友人との通話中、心底嬉しそうにニヤニヤ笑っている彼を見つめながら思う。

大きくて、可愛い顔をした私の彼氏。

私にのめりこんでいる私の恋人。

彼が私の恋人になってから、途端に付き合いが悪くなった私への友人たちのお誘いも、今じゃ無くなった。

私は全然、寂しくない。

この世は、私と彼の二人だけだ。

 


チャンミンは、私の職場の上司や同僚に対してさえ、本気でヤキモチを妬く。

「外回りは一人でですか?

えっ!係長と?

係長は男ですか?

断れないのですか?」

耳にあてた携帯電話を、思わず離してしまうくらいの大声だった。

「今夜、泊りにいってあげるから機嫌を直して!」

 

拗ねる彼をなだめた。

ふふふと笑う彼の吐息を聴くと、呆れるのと同時にぞくっとした快感を覚えた。

 

私は、

彼に、

愛されている!

 


 

チャンミンと交際して8か月が過ぎたとき、彼は初めて私を縛った。

手首を脱いだTシャツを巻き付けて、私の自由を奪った。

きっかけは、職場の新年会の場にチャンミンからの電話に出た時のことだ。

 

親しげに私の名前を呼ぶ同僚の声が、電話越しにチャンミンに聞かれてしまった。

 

「しまった」と思ったら案の定、しつこく店名を聞き出した彼は、私を迎えにやってきた。

冷やかす声を背後に聞きながら、彼に腕を引っ張られる形で店を出た。

彼の部屋に連れていかれるまで、彼は私の手首から手を一度も離さなかった。

「僕のポケットに鍵があるから」

部屋の鍵を私に取り出させると、片手で器用に開錠し、寝室に直行した。

ベッドに押し倒すなり、着ていた自分のシャツをぐるぐると私の手首に巻きつけたのだ。

目を剥く私に構わず、彼は顔を傾けて私の唇を奪うと、舌を差し込んできた。

その後は、ほとんど覚えていない。

私の指に絡めた彼の指に力がこもるたび、私も彼に応えるように握り返した。

巻かれたシャツは緊縛されていなかったから、手首を動かせば容易に外せたはずなのに、私は縛られたままでいた。

 

ほどいてしまったら、彼が繋ぎとめようとした私の心と身体がばらばらになっていまいそうだったからだ。

「縛ってゴメン」なんて、彼は絶対に言わなかった。

もしそんな言葉を口にされたら、私は幻滅しただろう。


チャンミンは私に依存しているのだろうか。

そうかもしれない。

しょっちゅう「僕はあなたがいないと生きてゆけない」と口にするが、

それは心の奥底から叫んだ、彼の真実の言葉だと思う。

 

いくらいい男だからと言っても、常にジェラシーの炎がめらめらと燃えている人は勘弁だと、大抵の人は思う。

 

けれども、私はそうではない。

私もチャンミンに依存している。

彼からの束縛は、イコール彼の愛情なんだと、私の方も心の奥底から思っているのだ。

縛りたい男と縛られたい女。

この世は私と彼の二人きり。

心も身体も彼のもの。

私と彼の手首は、ひとつの手錠で繋がれている。

 

「僕は嫉妬深い男です」

 

ことの後、二人して、大汗をかいて乱れた呼吸をととのえながら、放心していると彼は話し出した。

 

「あなたを窮屈にさせてしまっていますね

でも、これが僕の愛し方なんです」

彼の視線は天井に結ばれたままだ。

「僕は謝りません」

下着をつけようと身を起しかけた私のウエストに、腕をからませて私を押し倒した。

「束縛してごめん、とは謝りません」

 

彼は横向きになると、私を見下ろした。

暗闇に彼の瞳が光っている。

「これが僕の愛し方なんです」

彼は私の顎をつまんだ。

「それでも、

もし、こんな僕のことが嫌いになったら、

正直に言ってください」

美しい顔をかたむけると、

「もし、こんな僕が嫌になったら...」

私の首筋に唇を押し当てる。

「僕はあなたを手放します。

もし、僕の存在があなたを不幸にしているなら、

僕のことは嫌いだと、はっきり言ってください。

僕はあなたから離れます」

彼の首に腕をからませる。

 

「あなたには不幸になって欲しくないから。

僕はあなたと離れたくありません。

でも、これが僕の愛し方なんです」

私は、彼の頭のてっぺんに唇をつける。

これが、彼の愛し方だ。

私は、もし彼から手放されたら、死んでしまうだろう。

私が束縛されて悦んでいることを、彼は知っている。

チャンミンの胸に頬を押し付け、彼の匂いを嗅ぎながら、手首を縛られたまま私は答える。

 

「そうね、これが私の愛され方なのね」

彼は私を縛りつけている。

​私も彼を縛りつけている。

 

 

 

(つづく)

 

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