(13)虹色★病棟

 

 

あの人を失った時、暴力的な喪失感で僕のハートは潰れた。

 

その人と積み重ねていった思い出の数々を、何千回も反芻した。

 

その人の仕草のひとつひとつが鮮明過ぎて、過去と現実の見分けができなくなった。

 

食事が摂れなくなって痩せこけ、お風呂にも入らず悪臭を放ち、お酒ばかり飲んでいた。

 

その人は料理上手で、食卓にカラフルな料理が並び、そのどれもが口が落っこちそうに美味しかった。

 

最後にその人と食べたスープ...生クリームたっぷりなミルク色のスープに人参、ズッキーニ、玉ねぎ、パプリカ、トマト。

 

その人と共に過ごした時は宝物だったはずなのに、うちのめされた当時の僕は疲弊し、宝箱は空っぽになってゆき、喜楽が消滅していった。

 

代わりに、悲しみと怒り、憎しみがその宝箱に吸い込まれていった。

 

金メッキは剥がれくすみ、ビロードの内張りは色褪せ、蝶番は錆びついていった。

 

ついに宝箱は木製の粗末な小箱にとって代わった。

 

その中には僕の醜い心が、整理整頓もせずに、ごったに乱雑に詰め込まれていった。

 

音信不通になった僕を心配した職場の同僚が、廃人と化した僕を発見し、噂に聞くLOSTに連れていった。

 

LOSTこそ当時の僕に相応しい場所だと、彼が判断してしまったのも仕方がない。

 

LOSTは元々精神科の病棟だったのだ。

 

最上階の閉鎖病棟だけ機能している理由は、入所者が容易に脱出できないようにするため。

 

ここは病院ではない。

 

事実、医師もいない看護師もいない、医療行為は一切行われていない。

 

ここは愛を失った者が、一定期間身を寄せる避難所だ。

 

病院じゃないから、入居料は決して安くはない。

 

でも、LOSTで僕は頑丈な鍵をもらった。

 

どす黒い感情が小箱から飛び出さないように。

 

どす黒い感情とは、記憶を無かったものにしようと否定し、更にその人の人格を貶めるものだ。

 

僕はその感情に呑み込まれまいと抵抗するため、箱に仕舞いこんで閉じ込める方法を取得したのだ。

 

最初の1年間は、僕の悪魔は「ここから出せ!」と大暴れしていた。

 

よからぬことをしでかさないよう、ベッドしかないがらんとした部屋で過ごした時期もあった。

 

日々を重ねるにつれ、その頻度は減ってきた。

 

ひとによっては、部屋に閉じこもり食事も入浴も拒否して、生から脱落したがる者もいた。

 

ユノのように強烈過ぎる絶望感から心が麻痺してしまい、はた目にはケロリとしている者もいる。

 

ひとそれぞれなのだ。

 

LOSTが果たす役割とは、とことん喪失と向き合い、どっぷり浸かるという荒療治を経て、いつか社会活動に戻れるまでの時と場所を提供すること。

 

切り裂かれそうな痛みにのたうちまわったり、喪失のあまりぽっかりと空いた、巨大な穴の縁から見下ろす日々。

 

3年もいれば僕は落ち着きを取り戻し、他人の心配をする余裕も出てきた。

 

あと数週間から数か月後には退所できるだろう、と見込んでいた。

 

LOSTはほぼ満室状態だった。

 

元々は2人用だった僕の部屋が最後に残っていた。

(現にユノがやってくる直前まで、同部屋の者がいた)

 

ところが新たな入所者は2人いるという。

 

誰かが退所しないといけない...誰が?

 

やや不安定さを残してはいても、僕はまともになった部類に入る。

 

ここは病院じゃない。

 

運営側から退所するよう申し出があれば、それに従わないといけないのだ(契約書の但し書きにそう書いてあった気がする)

 

その日、僕とユノはラムネのお世話のため中庭へ下り、学生時代の面白エピソードを披露しあっていた。

 

散歩から戻ってすぐ、スタッフルーム奥の面談室に呼ばれて、嫌な予感がした。

 

1週間内にLOSTを出ていくようお達しがあった。

 

ここいにいた後半は、早くここを出たいと切望していたのに。

 

退所後の就職先やアパート探しも既に始まっていた。

 

僕にとって不都合過ぎた。

 

その理由は分からないなんて、とぼけたりしないよ。

 

ユノだ。

 

親友や同士に向ける感情か?

 

ううん、それだけじゃない。

 

ここではじめて、ユノへと向ける情は恋愛感情に近いものなのだと気付いたのだ。

 

ところが僕は、「嫌です」と本心に従った回答をすべきところを、「分かりました」と答えていた。

 

非常事態でそれほど頭がよくない僕の思考の一部は冷静で、そこだけ新品の歯車が猛スピードで回転していた。

 

「5日やそこらで、準備なんて...できませんよ?」

 

「例外として規則を緩めますから。

チャンミンさんなら大丈夫です」と、スタッフ長は言った。

 

僕の指は震え、冷や汗が吹き出していた。

 

ふらふらと足をもつれさせながら、面談室を出た。

 

心配したスタッフは僕の様子を、遠巻きに見守っていた。

 

動揺するあまり、小箱の鍵が弾け飛んだ。

 

鈍い金属音がはっきりと聞こえた、その瞬間も見えた。

 

呻きと雄叫びの間の、恐ろしい声で叫んでいたと思う。

 

食堂の椅子をつかみ投げた。

 

テーブルをひっくり返した。

 

バリバリと血がでるまで頭をかきむしり、壁に頭を打ちつけた。

 

入所者たちは、後ずさり遠目に僕の大暴れを見学していた。

 

どうしてこの一連の流れと、周囲の様子まで覚えているかというと、僕の精神の冷静な一部分が、僕の行為を観察していたからだ。

 

スタッフ3人が飛び出し、2人は僕の両脇を、1人は僕の腰を抱え込んだ。

 

「離せー!!」

 

激しく頭を振った。

 

その時、視界に好きな人の姿がよぎった。

 

彼はゴーグルをし、深緑色のガウンを羽織っていた。

 

 

 

「乱暴はやめてください」

 

暴れる僕を押さえつけるスタッフたちを、ユノは突き飛ばした。

 

「チャンミン!」

 

ユノに抱き締められて...僕の全身から力が抜けた。

 

「鍵だ、鍵だぞ?」

 

「うーー!」

 

「立派な鍵だぞ。

俺が手伝ってやるから、ほら、締めろ」

 

ユノが箱の蓋を押さえてくれ、僕は南京錠をかけ鍵をひねった。

 

鍵と錠がかみ合ったカチリという音も、手ごたえもはっきり感じとった。

 

僕の掌に南京錠の鍵がある。

 

「俺が預かっておいてやる」

 

そう言ってユノは、鍵というイメージを口に放り込み、ごくんと飲み込んでしまった。

 

僕を見下ろすユノの眼と僕の眼が溶け合った感覚を覚えた。

 

 

(つづく)

 

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