(18)虹色★病棟

 

 

手の甲に重ねられていた温もりが消え、ユノの手は彼の膝に戻っていた。

 

「...婚約者だった人は突然、家を出て行ったのか?

チャンミンを置いて?」

 

「うん。

酷い話だよね...」

 

「そうだな...」

 

僕は足裏をベンチに乗せ、曲げた両膝を抱き締めた。

 

当時を思い出し、心が寒々としてきたから。

 

小箱の中身がカタカタと音をたてはじめたから。

 

小箱については、ユノと一緒に蓋を閉め、頑丈な鍵は彼が持ってくれている。

 

ああ、僕という男はなんて自分勝手で弱いのだろう。

 

傷を負ったばかりのユノに頼りっぱなしだ。

 

僕の話が終わったら、ユノの話を聞いて、その手を握ってあげたい。

 

 

「前兆はあったんだ。

 

僕らは結婚に際してマンションを購入する計画をたてていたんだ。

 

ところがね、急に『止めよう』ってストップをかけてきた。

 

フルタイマーだったのが、正社員になりたいからって、資格取得の勉強を始めてね。

 

本気だったんだろうなぁ。

 

難しい試験を1発で合格した。

 

僕は面白くなかった。

 

勉強会があるからって帰りが遅かったり、勤務シフトも僕の休日に合わせてくれなくなった。

 

ついには転勤する、って言い出したんだ。

 

喧嘩になったよ。

 

結婚早々別居か?って。

 

じわじわとした小さな変化だったから、気づかなかった。

 

まさか上司と関係を持っていたなんて!」

 

「マジかよ...辛いなぁ、それは」

 

「...うん、辛い」

 

以前の僕だったら、当時のことをちょっぴりでも思い出した途端、辛い感情に呑み込まれてしまっていた。

 

ところが、今の僕はなぜだか涙の一滴も出てこなかった。

 

しみじみと懐かしむところまで回復したのかなぁ...いや、違うな。

 

頑丈な鍵を閉めているおかげなのかもしれない...うん、そうだ。

 

そうに違いない。

 

 

「転勤で引っ越してしまうのなら、僕もついていけばいいんじゃないかって思ったんだ。

 

転属願いを出してさ、根回しをしてさ。

 

通勤に2時間はかかってしまうけど、婚約者と一緒に暮らせる目途がついたんだ。

 

馬鹿みたいでしょ?」

 

僕の隣でユノが首を横に振る気配がした。

 

「でね、このビッグニュースを伝えたくて、わくわくしながら帰宅した。

そうしたら...いなくなっていた」

 

ユノが僕の方を振り向いたのが分かった。

 

滑稽だった過去を告白して恥ずかしかった僕は、前を見据えたままでいた。

 

「僕を置いて出ていってしまった」

 

僕はきっと、恋をしたらのめり込むタイプなんだろうと思う。

 

相手に心身をゆだね、言いなりになってしまう。

 

僕の恋の仕方とは身を滅ぼしかねない熱量を注ぐもので、だからそれを失った時には廃人にまで堕ちてしまうのだ。

 

「死別こそ崇高で、決定的な別れとは限らないよね。

軟弱なことに、婚約者に捨てられただけでこの有様だ」

 

「チャンミンにとってその恋は、命がけだったんだろ?」

 

「ははっ、そこまで大袈裟なものじゃないよ。

その人の存在が僕の全てになっていた...つまり、依存ってやつ?」

 

「そういうところ、俺と似てるな」

 

ユノは自身の小さな顎を撫ぜていた。

 

ユノは涙が出ない自分を責めていたけれど、僕の方こそ自分自身を責めたい。

 

3年経過した今、なんと僕は新しい恋を始めていた。

 

 

「出て行ったんだと悟ったとき、僕の頭に浮かんだのはね。

 

婚約指輪をどうしよう、ってことだった。

 

...婚約者から贈られたものなんだ」

 

「贈られた?」

 

ああ...。

 

ユノには全部、打ち明けてしまおう。

 

ユノなら何でも受け止めてくれそうな気がした。

 

配偶者を失ってぼろ雑巾になってるはずのユノに甘えるなんてね、僕は利己的だ。

 

いいんだ、遠慮していたら前に進めない。

 

僕がここに居られる時間は限られているんだ。

 

僕はユノと恋人同士になりたい。

 

ユノの肩ごしに、水色の空を綿菓子みたいな雲がのんびりと流れていた。

 

 

 

 

フェンスの向こうから吹く風で、少し肌寒かった。

 

餌を待ちわびるラムネがピリピリと鳴き続けている。

 

視線をユノの肩から数センチずらし、彼の上唇のすぐそばにあるホクロをだけを見た。

 

ごくり、と唾を飲んで、慎重にそのワードを口にした。

 

「僕は...ゲイなんだ」

 

「......」

 

「引いちゃった?」

 

ユノは髪をかきあげ、長い脚を投げ出し、ベンチの背もたれにどっと背中を預けた。

 

お尻の下に敷いたビニールシートがよじれて垂れ下がり、地面にその端が擦っていた。

 

そのことにユノは気づいていないようだった。

 

 

「ぶちまけてしまうね。

 

ユノに近づいたのは...ユノのことが気になったから。

 

ごめん。

 

下心があった」

 

 

ユノと目を合わせられなくて、僕はうつむき、ワンピースをぎゅうっと握りしめた。

 

 

(つづく)

 

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