手の甲に重ねられていた温もりが消え、ユノの手は彼の膝に戻っていた。
「...婚約者だった人は突然、家を出て行ったのか?
チャンミンを置いて?」
「うん。
酷い話だよね...」
「そうだな...」
僕は足裏をベンチに乗せ、曲げた両膝を抱き締めた。
当時を思い出し、心が寒々としてきたから。
小箱の中身がカタカタと音をたてはじめたから。
小箱については、ユノと一緒に蓋を閉め、頑丈な鍵は彼が持ってくれている。
ああ、僕という男はなんて自分勝手で弱いのだろう。
傷を負ったばかりのユノに頼りっぱなしだ。
僕の話が終わったら、ユノの話を聞いて、その手を握ってあげたい。
「前兆はあったんだ。
僕らは結婚に際してマンションを購入する計画をたてていたんだ。
ところがね、急に『止めよう』ってストップをかけてきた。
フルタイマーだったのが、正社員になりたいからって、資格取得の勉強を始めてね。
本気だったんだろうなぁ。
難しい試験を1発で合格した。
僕は面白くなかった。
勉強会があるからって帰りが遅かったり、勤務シフトも僕の休日に合わせてくれなくなった。
ついには転勤する、って言い出したんだ。
喧嘩になったよ。
結婚早々別居か?って。
じわじわとした小さな変化だったから、気づかなかった。
まさか上司と関係を持っていたなんて!」
「マジかよ...辛いなぁ、それは」
「...うん、辛い」
以前の僕だったら、当時のことをちょっぴりでも思い出した途端、辛い感情に呑み込まれてしまっていた。
ところが、今の僕はなぜだか涙の一滴も出てこなかった。
しみじみと懐かしむところまで回復したのかなぁ...いや、違うな。
頑丈な鍵を閉めているおかげなのかもしれない...うん、そうだ。
そうに違いない。
「転勤で引っ越してしまうのなら、僕もついていけばいいんじゃないかって思ったんだ。
転属願いを出してさ、根回しをしてさ。
通勤に2時間はかかってしまうけど、婚約者と一緒に暮らせる目途がついたんだ。
馬鹿みたいでしょ?」
僕の隣でユノが首を横に振る気配がした。
「でね、このビッグニュースを伝えたくて、わくわくしながら帰宅した。
そうしたら...いなくなっていた」
ユノが僕の方を振り向いたのが分かった。
滑稽だった過去を告白して恥ずかしかった僕は、前を見据えたままでいた。
「僕を置いて出ていってしまった」
僕はきっと、恋をしたらのめり込むタイプなんだろうと思う。
相手に心身をゆだね、言いなりになってしまう。
僕の恋の仕方とは身を滅ぼしかねない熱量を注ぐもので、だからそれを失った時には廃人にまで堕ちてしまうのだ。
「死別こそ崇高で、決定的な別れとは限らないよね。
軟弱なことに、婚約者に捨てられただけでこの有様だ」
「チャンミンにとってその恋は、命がけだったんだろ?」
「ははっ、そこまで大袈裟なものじゃないよ。
その人の存在が僕の全てになっていた...つまり、依存ってやつ?」
「そういうところ、俺と似てるな」
ユノは自身の小さな顎を撫ぜていた。
ユノは涙が出ない自分を責めていたけれど、僕の方こそ自分自身を責めたい。
3年経過した今、なんと僕は新しい恋を始めていた。
「出て行ったんだと悟ったとき、僕の頭に浮かんだのはね。
婚約指輪をどうしよう、ってことだった。
...婚約者から贈られたものなんだ」
「贈られた?」
ああ...。
ユノには全部、打ち明けてしまおう。
ユノなら何でも受け止めてくれそうな気がした。
配偶者を失ってぼろ雑巾になってるはずのユノに甘えるなんてね、僕は利己的だ。
いいんだ、遠慮していたら前に進めない。
僕がここに居られる時間は限られているんだ。
僕はユノと恋人同士になりたい。
ユノの肩ごしに、水色の空を綿菓子みたいな雲がのんびりと流れていた。
フェンスの向こうから吹く風で、少し肌寒かった。
餌を待ちわびるラムネがピリピリと鳴き続けている。
視線をユノの肩から数センチずらし、彼の上唇のすぐそばにあるホクロをだけを見た。
ごくり、と唾を飲んで、慎重にそのワードを口にした。
「僕は...ゲイなんだ」
「......」
「引いちゃった?」
ユノは髪をかきあげ、長い脚を投げ出し、ベンチの背もたれにどっと背中を預けた。
お尻の下に敷いたビニールシートがよじれて垂れ下がり、地面にその端が擦っていた。
そのことにユノは気づいていないようだった。
「ぶちまけてしまうね。
ユノに近づいたのは...ユノのことが気になったから。
ごめん。
下心があった」
ユノと目を合わせられなくて、僕はうつむき、ワンピースをぎゅうっと握りしめた。
(つづく)
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