真の意味でのエッチに及べないうちに数日が経った午後。
いつの間にか寝入っていたようだった。
僕の手をすり抜けた本が、床に落ちた音で目覚めた。
「こんな時間!」
ユノと午後の散歩をする時刻はとうに過ぎていた。
各々が自由に過ごせばいいことで、行動を共にしなければならない義務はない。
でも、時間の重みが日ごと増してきて、可能な限り共に過ごしたい。
僕らはいまだ互いの指や舌で慰め合っただけの関係で、真の意味で身体同士を重ねたとは言えない。
僕がここを出る前に、ひとつになりたい気持ちはあるけれど、ユノのあの言葉を貰えた今、エッチにこだわらなくてもいいのでは?...という考えもあったりして。
大慌てでワンピースに着替えた僕は、中庭にいるだろうユノを追った。
スタッフステーションのノートには、今から1時間前の時刻が記入されていた。
エレベータに乗り込み1階で降り、売店で缶コーヒーを買ってから中庭へ駆け込んだ。
今日は曇り空で、やや肌寒い気温だった。
熱々の缶コーヒーを右手左手と転がしながら、中庭を見渡しユノを探した。
「...ユノ?」
中庭はコの字型になった建物をフェンスで塞ぐ構図になっている。
ユノはフェンスにもたれかかるように立ち、向こうに広がる景色に見入っているようだった。
LOSTを挟んで、エントランス側は街、反対側...つまりフェンス側は乾いた荒野が広がっている。
緑のない荒涼としたこの景色は、喪失体験を経て心が空虚になっている者には、自身の気持ちをそのまま表しているように見えるだろう。
そうそう、そうなんだよ、俺の心はこんなザマなんだよ、ってな具合に。
ユノはいた。
ユノはワイヤーに指をかけ、額も押し付ける格好で、ゴーグルもせずにいた。
ここからはユノの顔は見えないけれど、遠くを見通す彼の眼は容易に想像できた。
からからに乾いた砂地が延々と続こうと、ユノの瞳はこんこんと潤いが湧いてきて枯れることはない。
片耳にかけたマスクがひらひらと、風に揺れていた。
ユノは背後に立つ僕に気づいていない。
リラックスした背中だった。
ハリネズミの様に緊張の針で尖らせていた背中が、無防備なものになっていた。
ユノみたいにルックスが最高な人なら、誰しも彼を放っておかない。
大勢の中でぽつんと、ユノひとりたたずむ光景が思い浮かんだ。
ユノらしくて似合うと思ってしまった。
独りでいることをユノは寂しがってなどいない。
...そういうことかと、頭の中にカチリと歯車が合った音が響いた。
2つ目の仮説について、僕なりの答えが見つかったのだ。
ユノは独りでいることが好きなのだ。
誰にも近づいて欲しくないのだ。
誰でも疲れを癒すために、自分を取り戻すために1人でいる時間を欲するものだ。
(人付き合いが苦手な僕も可能な限りひとりでいたいし、婚約者も大勢でつるむことを嫌っていた。
似た者同士の僕らは、ぷらぷらと散歩をする時間を大切にしていた。
その時の彼はワンピースを着ていた。
例えば今、僕が着ているコーラルピンクのものがそうだ)
だから、独り好きであることは別段、珍しいことじゃない。
ユノにとって独りでいるとは、敵の存在を気にしなくてもよくなり、防御態勢を解くことができる時間。
独りが基本。
接近してくる者は敵に近い。
それなのに僕に対して懐っこかったのは、絶望感によって対人センサーがぶっ壊れていたのだろう。
ユノは未だ、背後にいる僕に気づかない。
右手に透明ゴーグルをぶら下げている。
ユノの手...。
以前も「あれ?」と違和感をもったこと。
手洗いを繰り返したせいで荒れてただれたものではなく、白くきめの細かい綺麗な手をしていた。
厳重に手袋をしていて、手洗いの必要がないと言えるかもしれないけれど...。
もしかして、僕が思う程手洗い、消毒をしていないのかもしれない。
他人の目にさらされる場では、徹底した完全防備のいでだちでいるのは、周囲へ威嚇の姿勢を見せるためだ。
傷ついたり傷つけられたりするのが嫌だから、潔癖症だと宣言することで人との距離をとろうとしているのでは?と考えたのだ。
他人とばい菌とを重ね合わせ、避けることを正当化しているのかもしれない。
ユノは人が怖いんだ。
人が怖いのか、独りでいたいのか、どちらが優勢なのかは分からない。
ユノが極度の潔癖症であることは事実だし、「僕が治してあげよう」と驕った思いは抱いてはいけない。
ばい菌を嫌うのは、自身の心を守るため。
ユノが潔癖症である理由のひとつがこれなんだと思う。
なぜそう思ったか。
今、ユノの後ろ姿を見て「そうなんだろうな」と分かったんだ。
どうしてわかったのかというと、僕はユノのことしか見ていないからだ。
僕自身の失恋や心の小箱なんて、今じゃどうでもよくなってきた。
出逢った場所が閉鎖空間であるLOSTでよかったと思った。
だって、独りの人間とここまで関われるのだから。
・
僕はユノに声をかけるのは止めて、ここを立ち去った。
ぬるくなってしまった缶コーヒーは...忘れてた。
公衆の場で購入したこれを、ユノが飲めるわけないじゃないか。
「ははは、抜けてるなぁ僕は」
僕の口移しだったら飲めるのかな...なんてね。
・
「チャンミンさん」
夕飯後、スタッフの1人に呼ばれた。
「はい?」
「明日の午前9時ごろに、面談室まで来てくださいませんか?」
「とうとう来たか...」と思った。
きっと退所日についての話だ。
「...はい」
僕の心はずんと落ちた。
さっきまで笑顔が曇った表情に変わってしまった僕を、離れた位置に立っていたユノが いぶかしげに見つめていた。
ユノに隠すべきか知らせるべきか、一瞬迷った。
ユノと想いが通じキスし合える関係となった今は、こうすべきだ。
(部屋で話そう)
僕はユノに目配せをした。
(つづく)
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