「...ユノは...誰をなくしたの?」
顔を覆って嗚咽を漏らすユノを抱きしめてあげたい。
3年前の僕を抱きしめてくれる人はいなかったから。
ぎりぎりまで迷って、僕は傾けた半身を起こした。
僕のパジャマはユノにとってばい菌だらけなのだ。
ユノの肩の震えが止まるまで、僕は辛抱強く待った。
ユノの白いうなじとぽつんとあるホクロ、パサついた黒髪を眺めていた。
「...結婚していたんだ」
やっとのことで聞き取れる、掠れた小さな小さな声だった。
「どれくらい?」
「3年だ」
「...そっか」
覆っていた両手を下ろし、浅く微笑んだユノは悲し気だった。
ちょっとだけ胸のつかえがとれたかのような、すっきりとしているようにも見えた。
太陽光の下で見るとよく分かる。
ユノがどれだけ消耗した顔をしているかを。
削げた頬や、荒れた肌、腫れぼったいまぶた、目の下はたるんで黒ずんでいた。
そうであっても、ユノは女性的で繊細な容貌の持ち主だった。
まだ1か月だと言っていた。
死にもの狂いでここを探し出し、除菌アイテムを携えてここに飛び込んできただけでも、ユノは賢明だ。
ユノは弱虫じゃない。
大事な人をなくして絶望し、それでも生き続けたいと望んだんだ。
今が一番辛い。
よくなったかと思えば、ぶり返す喪失感に相当長期間苦しむだろう。
単なる隣人に過ぎない僕だけど、穴ぼこだらけのユノを放っておけなかった。
ゴーグルとマスクを装着して、失意の底に落ちているくせに、堂々とした足取りで現れたユノにノックアウトされたんだ。
とんでもない奴が登場したぞ、って。
僕はカウンセラーでも何でもないけれど、寄り添うだけならできる。
「なくしたって...事故、だとか?」
踏み込み過ぎた質問だったかもしれない。
「中庭...じゃなくて、裏庭だな」
案の定、ユノは僕の質問に答えず、呆れたように周囲を見回した。
中庭、と聞いて拍子抜けしたのだろう。
中央に噴水があり(神話の女神が抱え持ったカメから水が)砂利敷きの小路、深緑色のベンチ、蔓を模したフェンスにつる薔薇が絡まり、素焼き鉢から青や黄色の花が咲きこぼれ、藤棚の下にはテーブルセット。
...こんな光景を想像していたのだろう。
ユノじゃなくて、この想像図は僕のだった。
3年前、自室でじっとしていられなかった僕は、中庭をぐるぐると動物園の動物みたいに歩き回っていたんだ。
障害物が少なくてかえっていい、と思っていた。
ホコリで曇ったガラスの温室と、小さな池があるきりで、花壇も噴水もなかった。
レンガとレンガの間から雑草が顔を出し、入居者の誰かが捨てた菓子パンの袋が落ちていた。
僕らが座っているベンチも飲料メーカー名がプリントされたもので、それも日光で色褪せていた。
貧弱な庭であっても、外の空気は気持ちがいい。
見上げるとすかっと青い空。
視線を落とすと、僕らが暮らす階の部屋の窓が並んでいる。
入居者の誰かが、中庭を見下ろしているかもしれないし、自室のベッドで身を丸めているかもしれない。
隣のユノも天を見上げ、顔全体に太陽光を浴びているのは、紫外線殺菌しているからなんだろう。
「俺って変人だろ?」
「さあ、どうだろ。
最初はびっくりした。
でもね、ここにいるとユノ程度は大したことないよ。
もっと変な人も多いし、僕だって似たようなものさ」
「チャンミンの変わっているところといえば...ワンピースと白しか食わんところ?」
「実はね、他にもあるのだ」
「へぇ。
例えば?」
「たまに大暴れする」
ユノは「暴れる?」と、眉を持ち上げた。
「文字通り暴れるんだ。
スタッフ3人がかりに押さえつけられるの」
僕は肩をすくめてみせた。
「そんな風に見えないけれど?」
「だからここにいるんじゃないか。
はあ...。
人の本性なんて、普段の姿からはうかがい知れないものなんだよねぇ。
やり場のない感情、自分じゃとても処理しきれない感情。
心の奥にね、小箱があるんだ。
何重にも鍵をかけているのが、ある時鍵をぶっ壊すんだ。
箱の中にトラを飼っているのかもしれないし、灰色のスライムを押し込んでいるのかもしれない。
僕はその小箱のお守りをしているんだよ」
「......」
ずばりストレートに話せばいいのに、『小箱』だなんて例えをしてしまったのには理由がある。
知り合って日の浅い人物に...それも、応急処置を施しただけのユノに、自身の心の内を赤裸々に語るのはまだまだヘヴィだと思ったからだ。
少しずつ教えてあげればいい...ただし、ユノが知りたければ、という条件付きだけどね。
僕はと言えば、ユノの過去が知りたい。
沈黙をやぶってユノはつぶやいた。
「小さい箱だからいけないんじゃないのか?」
「え?」
「小さいから溢れるんだろう?
その箱をでかくしてやればいいじゃないか」
「ユノにも小箱がある?」
「う~ん...。
俺の場合は、箱とはちょっと違うなぁ」
ユノの視線はコの字を塞ぐフェンスの向こうに注がれていた。
あ...。
僕の話はやっぱり踏み込み過ぎていたようだ。
ユノの目尻から透明な雫がふくらんで、頬を伝った。
僕は慌てて除菌ティッシュを引っ張り出して、顎につたったユノの涙を押さえた。
手袋をはめたままのユノの指が、僕の手の甲に触れた。
「ごめん...」
拒絶だと受け取って引っ込めようとした僕の手は、ユノの指に捕らえられたままだった。
「ユノ...」
「はあぁ...。
独りでいたらどうにかなっていた」
ユノは僕から除菌ティッシュを受け取り、目頭を拭いた。
「お前は不思議な奴だ。
ここに居るのが勿体ない奴だな」
これは褒め言葉だ、そう受け取った僕は「えへへ」と鼻の下をこすった。
「そうやって漫画みたいな仕草とかさ。
子供みたいだな」
「そう?」
ここに居ると僕はどんどん子供っぽくなっていくと、自覚はあった。
「ユノだって、子供にかえっちゃうかもよ?」
「それは困る」
「ここの名前、知ってるでしょ?」
「いや...それどころじゃなかったから」
「『LOST』だよ」
「LOST...。
...ここで何かを失うのか?」
ユノの眼がぐらりと揺らいだ。
恐怖と期待が入り混じっていた。
こんなに真っ黒な眼、初めて見た。
「つまらない大人のプライドを失うのかもしれないし、辛くて仕方がない感情を失うのかもしれない。
ピュアな子供に還っていくのかもしれない。
それとも途方に暮れている僕らの姿かもしれない」
「つまり、どう受け取るかは俺次第ってことか」
「大丈夫。
ここに居れば、確実に楽になれるよ」
「おし!」
ユノは膝を叩いて、立ち上がった。
いつの間にか太陽が建物の陰から顔を出し、日光がユノの輪郭を縁どっていた。
「例の小鳥を見せてくれ」
「うん!」
(つづく)
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