(9)虹色★病棟

 

 

「ここだよ」

 

ユノを案内した先は、温室だった。

 

生きた植物どころか鉢植えひとつない、空っぽの温室だ。

 

ここは何のために建てられたのか分からない、大き過ぎるガラスの箱となっている。

 

曇った温室のガラスを透かして日光が斜めに降り注ぎ、地面には黒い骨組みの影を作っていた。

 

日の光に温められた熱気と植物が発散するはずの蒸しっぽさはない。

 

ガラスが割れたところから涼しい風が吹き込んでいて、案外快適な場所なのだ。

 

スニーカーの下で、粉々になったガラスがじゃりじゃりと音を立てる。

 

ゴーグルとマスク姿に戻ったユノは、砂まみれのコンクリートの上を爪先立ちになっている。

 

ユノは割れたガラスに、「凶器が散らばってるじゃないか」と指摘した。

 

「温室に入る者はいないよ。

それに...ここにいる人のほとんどが自分の中に閉じこもっている。

温室なんて視界に入っていないと思うよ。

回復してきた人はここを出ることしか考えていないし」

 

「なるほどね」

 

温室の隅に錆びついたガーデンテーブルがあり、そこに鳥籠はあった。

 

アンティーク専門店にありそうなくすんだ真鍮製で、鳥籠というより、バードケージと呼んだ方がふさわしい重厚さだ。

 

鳥の羽とフン、雑穀の殻がテーブルの上に散っていて、ユノじゃなくても近づくのに躊躇してしまう。

 

ところが、ユノは顔を近づけて、中を覗き込んでいる。

 

へぇ...小鳥は平気なんだ。

 

「餌は?」

 

「実は僕があげてるのだ」

 

毎朝の散歩の際、僕は小鳥に餌を与え、飲み水を新鮮なものに交換し、フンで汚れたトレーを掃除している。

 

厨房から貰ってきた野菜くずを手づからついばませることもある。

 

当の飼い主が不在になった今、僕が世話係となっているのだ。

 

「なんて鳥?」

 

「それが分からないんだ」

 

不思議な小鳥なのだ。

 

嘴は半透明のピンク色で、その太い嘴に何度突かれただろう。

 

「何だろうなぁ。

初めて見るよ」

 

「でしょう?」

 

「名前は?」

 

「ラムネ」

 

「そのまんまだな...」

 

「ぴったりでしょ?

僕が名付け親なのだ」

 

お腹の羽毛は青みを帯びたすりガラスのような色で、か細い脚はグロテスクな鱗に覆われている。

 

 

 

 

「飼い主はいなくなったって言ってたよな。

彼はどうしたんだ?」

 

透明ゴーグルの下のユノの視線は、ラムネを食い入るように注がれている。

 

かさついた肌、黒眼はみずみずしく潤んでいる。

 

噂を信じたユノはきっと、飼い主は死んでしまったと考えているのだろう。

 

「ここを出て行ったんだよ」

 

「それってつまり...?」

 

「文字通り出て行ったんだ。

ユノが想像しているところじゃないよ。

彼は元気になって、ここにいる必要がなくなったんだ」

 

「小鳥を置いて?」

 

「連れ帰るのは難しかったんじゃないの?」

 

僕らは温室を出た。

 

なぜ連れ帰るのが難しかったのか、僕の判断で詳細をユノに教えることはできない。

 

僕でさえ1年前に知ったんだ、ユノが知るにはまだまだ早い。

 

「この温室...何のためにあるんだろうなぁ」

 

「さあ...。

憩いの場?」

 

コの字型の建物の先端を見上げているユノの首は、喉仏ばかり目立っていた。

 

僕はユノの二の腕を押した。

 

ユノの真っ白なスニーカーが、たばこの吸い殻を踏みつけそうだったんだ。

 

「!」

 

僕を睨みつけるのは当然のことで、条件反射のようなもの...でも...小さく傷ついた。

 

「悪かった」

 

ユノは僕が傷ついたって、気付いたんだろう。

 

「あとでガウンを洗濯すればいいよ」

 

「悪かった」

 

「いいって」

 

「なんで吸い殻が落ちてるんだよ?

禁止されてるんだろ?」

 

「内緒で持ち込んだんだろうね。

ジャケットの裏に縫い付けた秘密のポケットに仕込んだりしてさ」

 

似たようなことを僕もしていた。

 

「ボディチェックまではしないんだ。

ね、案外ここはゆるいんだ」

 

「なんだ...惜しいことをした」

 

ここに入所する際の約束事をきっちり守ったユノは、真面目なんだなぁと可笑しかった。

 

 

「人の心とは、不可思議過ぎてぞっとする。

一昨日の俺と昨日の俺は違う。

はあ...疲れるよな」

 

帰りのエレベータの中で、ユノは独り言のように口を開いた。

 

「そうだね」

 

僕は3年前と2年前、1年前と今の違いしか分からない。

 

日々の変化には気付けない僕と違って、ユノはナイーブなんだろう。

 

「後を追うつもりだった。

俺の一部を無くしたんだから」

 

「...分かるよ」

 

辛いだろう。

 

辛くて辛くて仕方ないだろうに、僕と居る時は平気そうで、事情を知らなければ大事な人を失ったばかりの人には見えない。

 

夜は寝付けず寝返りを何度も打ち、涙を流しているんだろうな。

 

目の下の隈や、赤く色づいた唇は皮がむけている。

 

「だからだよ。

人の気持ちとは不可思議だって言ったのは」

 

「どういう意味?」

 

規定時間より30分も早く戻った僕らは、食堂の窓辺に立った。

 

「失意でどん底にいるはずなのに、別の部分では違う感情があるんだ。

ラムネを綺麗だと思ったりさ。

まるで心が2つも3つも、別にあるみたいだ」

 

「ひとつしかなかったら、心が壊れてしまうんじゃないかな?

僕の場合は、そのうちのひとつは小箱に仕舞いこんで、それ以外のいろんなのは外で自由に遊ばせてる。

同時進行なんだ...うん、そうだって」

 

「なるほど...。

お前といて面白いと思うのも、それが理由なんだな」

 

「......」

 

僕への褒め言葉、第二弾だ。

 

ヤッホーと飛び上がりたかった。

 

ぴょんぴょん跳ねたら、スタッフたちに記録されてしまう。

 

ユノの台詞にどう返答したらよいのか...そして、凄く照れてしまって、代わりに質問で返した。

 

「そうだ!

行きのエレベータで何か言いかけてたでしょ?

何?」

 

ユノはしばし考え込んでいた末、「ああ」と思い出したようだ。

 

「さっきお前が俺に質問したことと同じ内容だよ。

お前も辛かったんだな?」

 

「まあね...。

また教えてあげるよ。

まずはユノの心が丈夫になってからね。

僕の話はそれからだ」

 

「分かった。

お前の話はおいおい聞いてやるよ」

 

完全防備になるとユノは、僕のことを『お前』と呼ぶ。

 

 

(つづく)

 

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