「はあはあはあはあ...」
ユノはペダルを漕いでいた。
卒業検定があった日の夜だった。
ペダルを漕ぎ続けてた。
会いたい人がいた。
コツコツ貯めたバイト代で購入した自慢の愛車は、ロードバイク型で長距離走行も疲れにくい。
それでも、初めての夜道を走るのは、緊張を強いられ消耗した。
(昨夜は大雨だったから、晴れて助かったよ)
この自転車で、チャンミンが住む茶色いタイルのマンションへ何度通っただろう。
何度、その建物を見上げただろう。
(いい加減、キツくなってきた)
途中、何度も水分補給と手洗いがてらコンビニエンスストアで休憩した。
パンパンに張ったふくらはぎを揉んだ。
・
検定後、Kからチャンミンの電話番号が書かれたメモを渡された。
「あいつを励ましてやってくれ。
ユノ君の顔を見たら、即効元気になるよ」
講習会場の住所を尋ねるユノに、「あそこは遠いからなぁ」と言いながら、メモにしてくれた。
Kの表情は、「どんなに遠くたって、会いにいくんだろ?」と言っていた。
(やっぱ、俺の気持ち...それからせんせの気持ち、バレバレだったじゃん)
・
(車があれば、楽勝なのになぁ)
数日後に免許を取得できたとしても、ユノはまだ学生で、仕送りとバイト代で暮らしをたてている身分でいる間は、車を所有できるのは先の先。
(このチャリンコが俺の愛車だ)
ユノはスマートフォンで現在地を確認すると、再び自転車にまたがった。
目的地まであと10キロだ。
22:30。
何台もの大型トラックが轟音をあげながら、ユノのすれすれを走り抜ける。
・
ユノが無茶をしたのには、理由があった。
チャンミンがいる試験会場と最寄り駅の間の交通手段はタクシーしかないのだ。
タクシーを使おうにも、その駅が終点であるバスの最終便が18:30発で、バイトが19:00終わりのユノが間に合うはずがなかった。
さらに、その駅発のバスは全て、試験会場とは全く別方向の便ばかりだった。
(どんだけ僻地なんだよ!)
試験会場は一般の者たちが利用するところではない為、致し方ないのだが。
そこで、シフトを代わってもらう交渉をしようと、バイト仲間に電話をかけようとしたその時、タイミングが悪いことが起こった。
「この前はごめんなさい」とQから電話があったのだ。
ぐずぐず泣いて、話を切り上げさせてくれない。
(こういう時に強く断れないところが、ユノの欠点かもしれない)
結果、代打を探す時間がなくなり、人手不足に悩まされているバイト先に迷惑をかけるわけにはいかず、シフト通りに働いたのだった。
・
(俺は絶対に、今すぐ、せんせに会いたい!)
予定変更無し、決行だ。
今夜中にチャンミンに会うためには、自転車を使うしかなかったのである。
残りの数キロは幹線道路から1本反れた道で、延々と続く上り坂だった。
ユノはヘッドライトがアスファルトを照らす、黄色い光輪を追いかけた。
進んでも進んでも、その光の円は逃げ続ける。
「はあはあ...きっつ」
ライトを消したら、真っ黒な世界だ。
周囲の音は、リンリンと鳴く虫の声と、自身の荒い呼吸音だけだ。
額の汗をTシャツの袖で拭い、しばらくは自転車を引いて歩いた。
体力が回復した頃合いに、再び自転車にまたがった。
ユノはひと漕ぎひと漕ぎ、腹筋に力を入れた。
「...っく...っ...」
好きな人に会いたい一心で、自転車を走らせている。
「はあはあはあはあ」
距離も時間帯も常識はずれで、しかしユノは、馬鹿みたいだ...と一切思わなかった。
(びっくりするかなぁ。
するよなぁ)
リュックサックが密着した背中は、湯気が出そうに蒸れていた。
(好きって言ってもらえるかなぁ?)
チャンミンからの手紙は、リュックサックの中にちゃんと入っている。
(せんせといろんな所に行ってみたい。
もうすぐ夏だなぁ...海に行きたいなぁ。
ってことは、泊りがけじゃん!
水着を買わないと)
チャンミンとこれから経験するだろうあれこれを想像することで、自分を鼓舞した。
「せんせ、せんせ...チャンミンせんせ」
最後の数百メートルは、チャンミンの名前をずっと唱えていた。
(俺が合格したこと、知ってるよな。
K先生が教えていそうだ。
せんせ、喜んでくれたよな...絶対に喜んだはずだ!)
遠くの前方に灯りが見えた。
(ど叱られるだろうなぁ)
そこは既に照明は落とされ、暗闇に沈んでいた。
通っていた自動車学校のものよりも広大な場内コースが、2棟ある建物の脇に広がっている。
片方の建物には、何か所か照明がついているため、ここがチャンミンの宿泊している所らしい。
(ということは、ここのどこかにせんせの部屋があるはずだ)
「うわっ」
またがっていた自転車から下りた時、地面に着いた足がよろけそうになったが、ギリギリのところで堪えた。
(あっぶねー)
膝がガクガクで力が入らなかったのだ。
灯りが消された正面玄関は真っ暗で、ドアに手をかけてみると、やはり施錠されていて中に入ることはできない。
ユノは建物全体を見渡せる駐車場まで移動した。
(せんせの車だ!)
駐車場唯一の外灯の側に、チャンミンの青色の車が駐車されていた。
ユノはスマートフォンを取り出し、既に登録済のチャンミンの番号を呼び出した。
「どうか出てくれ」と祈りながら、呼び出し音に耳をすました。
発信音が切れた。
『はい』
チャンミンの声。
電話越しだと、少し違って聞こえる。
ユノはチャンミンの名前を呼んだ。
すっ、と息を飲む音がした。
すぐに知らせてしまったら勿体ない。
「会いたいですか?」
「今すぐ会いたいですか?」
「今夜会いたいですか?」
沢山驚かせたくて、何重にもラッピングされたプレゼントの箱を渡すかのようだった。
「せんせに会いに来たんすよ。
外、見てください」
「えええぇっ!」
チャンミンの驚き声に、ユノはクスクス笑いが止まらない。
窓が開いた。
灯りを背に、見慣れたチャンミンのシルエットが浮かび上がった。
ひょろりとした体型に、あの頭の形。
ユノはもう、止められなかった。
「チャンミンせんせ!」
その大きな呼び声は、宿泊棟のコンクリート壁に反響した。
疲労でフラフラなところを悟られないよう、1歩1歩、チャンミンの元へ近づいた。
ハンドルを握っていないと、足がもつれてしまいそうだった。
「チャンミンせんせ!
来ちゃいました」
チャンミンは目を丸くしている。
ユノの胸が苦しかった。
「チャンミンせんせ、嬉しいですか?」
チャンミンは何か言っているようだったが、嗚咽混じりでユノには聞き取れなかった。
「せんせ?」
チャンミンの目からぽたぽたと、涙がこぼれ落ちた。
「チャンミンせんせ。
俺に会えて嬉しいですか?」
チャンミンはこくこくと、何度も頷いた。
「俺もすげぇ、嬉しいっす」
(おしまい)