(1)チャンミンせんせ!

 

 

ため息をつき、立ち上がって窓の外を窺い、掛け時計を見上げてもう一度ため息をついた。

 

ユノは待合室のベンチに足を組んで座った。

 

腿の上に広げた教本のページはマーカーを引きすぎて真っ赤だ。

 

しかしこの時のユノには、教本の中身はこれっぽっちも頭に入っていなかった。

 

そわそわと落ち着きがない。

 

「ユ~ノ!」

 

ひとりの女学生がユノの名前を呼んで手を振ったが、彼は窓の向こうに気をとられているのか、気付かない。

 

「ユノ!」

 

可愛い部類に入る彼女は、ぶつかるようにユノに身体を密着させて座った。

 

「あ、ごめん気付かなかった」

 

ユノは「人がいるだろ?」と、くっ付く彼女から10㎝離れて座り直した。

 

「え~」とすねる彼女に、ユノは自販機からジュースを1本買ってやってご機嫌取りをした。

 

「俺はあと2つあるから、先に帰っていいよ」

 

ユノが終わるまで、待ってる」

 

「最後のやつは夕方過ぎだぞ?

5時間も待たせるわけにはいかないからさ、先に帰った方がいい」

 

「え~」と機嫌が直らない彼女にウンザリしたけれど、ユノはそれをあからさまにするような男ではなかった。

 

「終わったら電話するから。

そしたら一緒にご飯食べに行こう、それでいいな?」

 

ここまで言ってやると、ようやく彼女は笑顔を取り戻した。

 

天井近くに取り付けられたTV、飲み物とスナックバーの自動販売機、新聞スタンド。

 

「ストップ!飲酒運転」「過積載は犯罪です」「ネット予約が便利です」等々のポスターが掲示板を埋めている。

 

学科教習の時間割表、予約の空き状況を知らせる電工掲示板。

 

そう、ここは自動車学校。

 

 

 

 

チャイムの第一音が鳴るや否や、ユノは荷物をまとめて立ち上がった。

 

ユノは彼女に手を振り、待合室を飛び出した。

 

(お!

その前に!)

 

洗面所の鏡の前に立って前髪を直した。

 

「よし!」

 

建物前のロータリーに、ずらりと教習車が並んでおり、その1台ずつにネイビーのブレザーを着た指導員が立っている。

 

教習開始のチャイムが鳴ると、教習生たちは担当指導員の元に集合する。

 

エントランスから外へ出たユノは、教習車の屋根にある車両番号表示灯から目当ての車両を探すのだ。

 

(いた!)

 

一番奥から2台目、車にもたれて手元のバインダーに視線を落としている、ひときわのっぽな痩せ型の指導員。

 

緩んでしまう表情を隠すことなく、ユノは満面の笑みを浮かべた。

 

「チャンミンせんせ~!」

 

その声の大きさといったら、周囲の教習生や指導員たちがこの二人に注目してしまうのも仕方がない。

 

(声がでかい!)

 

呼ばれたチャンミン指導員の顔は、かあぁっと熱くなる。

 

手を振って駆け寄るユノを見ていられなくて、チャンミンは顔を背けていた。

 

すると、同僚のK指導員と目が合ってしまい、「愛されてるな、お前」と揶揄われ、チャンミンは足元に視線を落とすしかなくなった。

 

(愛されてる...というよりも、懐かれているんだよなぁ)

 

「せんせ、お待たせ」

 

「ユノさん。

そこまで僕の耳は遠くありません」

 

教習簿をチャンミンに手渡しながら、ユノはニヤニヤ笑いが止められない。

 

「チャンミンせんせ、照れてますね。

耳が真っ赤ですよ」

 

「なっ!?

お、大人をからかったらいけません」

 

「せんせ、どもってますよ。

俺に会えてそんなに嬉しいんですね」

 

「昨日も会ったでしょう?」

 

チャンミンはユノの揶揄いをスルーして、「さっさと乗る!」と、運転席のドアを開けて早く乗るよう促した。

 

「はぁい、チャンミンせんせ」

 

ユノは恋をしていた。

 

男性教習指導員チャンミンに恋をしていた。

 

 

 

この自働車学校は担当制で、1人の教習生に1人の指導員が卒業までマンツーマンでつく。

 

中堅どこの指導員であるチャンミンは、30代半ばの独身男性だ。

 

指導員と教習生との恋愛が裁判沙汰にまで発展してしまった過去があり、電話番号やメールアドレス等の交換は厳しく禁止されている。

 

特に若手男性指導員は、トラブル防止といって女性教習生を担当することはほとんどない。

 

チャンミンの担当教習生は、数名の高齢ご婦人の他は全員男性だ。

 

同性愛者のチャンミンが、女性教習生に対して『その気』になる可能性は低く、このことを学校サイドは承知している。

 

そうであっても、密室での50分。

 

指導員側ではそのつもりはなくとも、女性教習生に『その気』を持たせたらいけない。

 

長身でルックスも申し分がないチャンミンだったから、学校サイドがそう心配しても仕方がないのだけど...。

 

(男の教習生に『その気』を起こさないかの心配はないらしい)

 

ユノが運転する教習車はそろそろと発進すると、敷地内の坂を下った。

 

公道手前で停車すると、ウィンカーを出した。

 

「はい、ダメ。

進路変更30メートル手前でウィンカーを出すのが正解。

『私はこれから左に曲がる予定ですから、そろそろ徐行するか停車しますよ~』って。

そうしないと、後ろの車はびっくりするでしょう。

『急に停車したけど,なんだなんだ?』って」

 

「はい。

以後気を付けます!」

 

 

「返事は立派ですが、この説明は何度もしましたよね?」

 

「あれ...?

そうでしたっけ?」

 

「しましたよ。

今回で7回目です」

 

「数えてるんすか!?」

 

ユノの指摘にぎくりとしたチャンミンは、くるくると回していたボールペンを落としてしまう。

 

「ま、まさか!

ほらユノさん、車の流れが切れました、今です、発進してください」

 

チャンミンはユノの肩を「はい、今」と軽く叩いて合図をした。

 

教習生が女性だったら不可なスキンシップも、男性だと可になる(当然、過度なものはNG)

 

たった今の「ぽん」は、チャンミンにとって、発車のタイミングを感覚的に知らせるためのものに過ぎなかった。

 

ところがユノにしてみたら大事件だった。

 

(せんせ...俺に触った...)

 

動揺するあまり、クラッチペダルを離すタイミングがずれてしまい、「肩にぽん」は逆効果になってしまったりもして...。

 

「肩にぽん」をしてもらいたくて、合流できずに首を左右に振り続けているのかどうか?

 

現段階のユノの運転技量がどれくらいかは不明だが、おのずと判明するだろう。

 

教習車は数回ノックしながらもエンストは免れ、ふらりと公道へと合流した。

 

「チャンミンせんせー、今日はどこにドライブに行きますか?」

 

口笛でも吹かんばかりにルンルン気分のユノに、チャンミンは釘をさす。

 

「遊びじゃないですよ。

今のままじゃあ、補習は確定です」

 

「じゃあ、チャンミンせんせとまだまだ会えるってことですね」

 

「はあぁぁ」

 

チャンミンは大きなため息をついた。

 

ユノにしっかり聞こえるよう、大きなため息を。

 

そのため息をユノは聞こえていても無視をする。

 

「せんせの説明は分かりやすいし、頭ごなしに叱りつけないし...俺、せんせの教習...好きです」

 

「そ、そりゃどうも」

 

チャンミンは身をかがめ、足元に落ちたボールペンを探していた。

 

その後頭部を、ユノは「撫ぜ撫ぜしたいなぁ」とうっとりと見つめていた。

 

 

(せんせ、可愛いなぁ。

照れてますよね。

耳が真っ赤ですよ)

 

彼らの教習時間は毎度、このような流れで開始する。

 

 

(つづく)

 

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