(13)チャンミンせんせ!

 

 

「また『あの』教習生か?」

 

昼休憩時間、ため息をついてデスクに伏せるチャンミンに、同僚Kは声をかけた。

 

「ああ」

 

「今日は何をやらかした?」

 

「交通事故を起こすところだった...って、場内で交通事故もないのだけどさ」

 

『あの』教習生とはご存知、ユノのことである。

 

不良教習生なユノのせいで、チャンミンはここ2週間の間、ため息ばかりついていた。

 

ため息1つで1歳老けるとしたら、チャンミンはわずか1週間で100を超えた老爺になっていただろう。

 

「上達云々の前に、そもそも運転センスがないのかもしれない...」

 

「センスとなると絶望的だね。

特訓である程度マシになるかもしれないが...。

となると、どんだけ補習がいるんだ?ってなるなぁ」

 

この日チャンミンは、ユノの補習教習の5時間目を終えたところだった。

 

指導員のデスクが並ぶ教員室と受付カウンターは繋がっている。

 

休憩時間のカウンターの向こうは騒がしく、受付兼事務員Eさんがキャンセル枠があると、校内放送をかけていた。

 

指導員のほとんどは休憩室か喫煙所に居て、教員室はチャンミンたちを含めて数人もいない。

 

地元パン屋が配達してきたパンが、カウンター脇のワゴンで販売中だ。

 

Kはパンを買うと、そのうちの1つをチャンミンに渡した。

 

「チャンミン...お前、ちゃんとメシ食ってるか?

げっそりしているぞ?」

 

Kはチャンミンの正面の椅子に腰掛け、背もたれに深くもたれかかって足を組んだ。

 

悩み事は今ここで全部吐き出せ、とKの表情が言っている。

 

チャンミンは悩み過ぎてぐつぐつ煮詰まってしまうタイプだった。

 

そこでKは同僚のよしみで、時折チャンミンのガス抜きをしてやるのだ。

 

「『あの』教習生のことで悩んでるんだろ?」

 

「う~ん」

 

そうでもあるし、そればかりでもなかったため、チャンミンは返事に困った。

 

「ユノが上達しないのは自分の教え方が悪いのでは?」と思い悩んでいたのは確か。

 

でも、それ以上に正体不明のザワザワ感に悩んでいた。。

 

一つ一つ挙げてゆくと、まず失恋問題について。

 

チャンミンにマッチョ男の恋人がいることをKは知っていたが、別れたこと(フラれてしまった)は未だ話していなかった。

 

悲しさのあまり、破局を打ち明けた途端泣いてしまいそうで...では、ないのだ。

 

恋人との別れは悲しい、悲しいが、なんとなく落ち着かない気持ちでザワザワしている。

 

チャンミンは恋において依存体質だ。

 

置き逃げされた恋人の私物を一掃したことは、未練を断ち切る行為に繋がって功を奏したと言える。

 

依存相手がいなくなり、心もとなさによるザワザワなのか。

 

不良教習生ユノに振り回されていて、感情が安定しないせいでのザワザワなのか。

 

もしくは、時折どこかから視線を感じていて、そのせいで落ち着かないザワザワなのか。

(正解、実際にユノから見つめられている)

 

(ユノのキラキラな目で見つめられているからだな、きっと。

学科教習中も、僕から目を離さないんだもの。

...そのわりに、ちゃんと話は聞いているし、メモも取っているし...いつも明るい優等生だ)

 

最近ではユノの視線攻撃に慣れてきていたし、悪い気は全然しなかった。

 

ユノが眉目秀麗な青年だったからこそ許された。

(チャンミンもなんだかんだ言って、面食いだった)

 

チャンミンは、「あの目は『恋』だな」といい気になる時もあったが、相手が10歳以上年下の大学生だと思い出しては、ザワザワと落ち着かなくなった。

 

...これらいくつものザワザワ感と、指導員としての自信を失いかけたこととのWパンチで、チャンミンは食欲を失っていた。

 

「今日のユノ君はどこまで進んだ?」

 

「停滞している。

3歩進んで2歩下がる感じだったのが、最近は、1歩進んで1歩下がってる。

試験を受けさせたくても、あと一歩のところで止まっているんだ」

 

「補習代も馬鹿にならないからね。

財布がもたないって、諦めた人もいるよ」

 

「Kは免許取得を諦めさせた人って、今までにいる?」

 

「過去に1人いるねぇ。

ただ、その人は70歳のおじいさんだったからなぁ...最初から難しいだろうってご本人も認識していたんだ」

 

「うちの子は20歳の大学生...。

運転テクニックに運動神経は関係ないとは言うけれど」

 

自分で口にしておきながら、『うちの子』の言葉に、チャンミンの胸はこそばゆくなった。

 

指導員にとって、担当教習生は『我が子』なのだ。

 

「今度飲みに行こうか?

チャンミンの悩みを聞かせてもらうよ」

 

Kは何が可笑しいのか、ニヤニヤ笑っている。

 

「!」

 

チャンミンは勢いよく後ろを振り向いた。

 

気配を感じたのだ。

 

(...あれ?)

 

Eさんは休憩にいってしまい、代わりの事務員がカウンターについている。

 

その向こうはがらん、と無人で、待合室の方から大音量のTVの音が聞こえてくるだけだ。

 

危なかった。

 

チャンミンが振り返ったその瞬間、ユノはカウンター下にしゃがみこんでいた。

 

教習簿を床に落としてしまったのだ。

 

そして、教習簿を落としてしまうまで、ユノはチャンミンを見つめていた。

 

(せんせの後頭部、かわいいなぁ。

ポカン、と叩きたくなるほどかわいいなぁ。

...せんせの前にいる先公はなんだなんだ?

K先生か。

単なる仕事仲間の関係だよな?

せんせは男が好きだから、次の彼氏候補じゃないよな?

やべ、K先生と目が合った。

目を反らしたの...バレバレだったよな。

ふう。

次の教習は、模擬テストだ。

問題集を出して、テスト勉強を...バッグから出して...。

あ...教習簿が滑り...落ちた!)

 

と、落ちた教習簿を拾おうとしゃがんだのある。

 

 

チャンミンが胃薬を欠かせなくなった原因が、もうひとつあった。

 

ユノの運転だ。

 

急発進急加速、エンストと内輪差を無視した左折と脱輪は日常茶飯事。

 

坂道発進に失敗して坂を転げ落ち(チャンミンが補助ブレーキを踏んで、周回する教習車との衝突をぎりぎり免れた)、駐車練習のポールとの接触、交差点の信号無視。

 

場内コースの暴走族。

 

チャンミンの左腕はグリップを握りっぱなしで、立派な筋トレになっている。

 

脇の下は汗でぐっしょり、濃い色のシャツは着てゆけないし、匂いエチケットに気を配るようになった。

 

ユノと乗る教習車は、ジェットコースター。

 

チャイムが鳴り、教習車から降りた時のチャンミンは、体重が500g減ったかのようだった。

 

同時期に担当になった50代のご婦人は、今や卒検を間近に控えている。

 

一方ユノと言えば、今日の仮免許の実車試験に落ちた。

 

不合格はこれで2度目だった。

 

仮免に落ちた場合、最低1時間の実車教習が必須だ。

 

ユノは1時間だけじゃ足らなさそうで...。

 

 

ぎゃぎゃっと嫌な音がした。

 

「クラッチ踏んで!」

 

「はい!」

 

「次、サードに入れて」

 

教習車はがっくんと急減速し、高回転のエンジン音がうるさい。

 

「そこじゃないです!」

 

「すみません!」

 

「セカンドに入れて。

左に寄せたまま下」

 

「はい」

 

教習車はノーマル状態で、惰行している。

 

「あれ?」

 

「クラッチから足を離して」

 

シフトレバーに乗せたユノの手は震えている。

 

教習車は減速し出して、カタカタと音をたてはじめた。

 

「ノックしてるよ。

ギア変えて」

 

「どっちですか?」

 

「サードです!」

 

「下ですか?

上ですか?」

 

「上です。

力を入れず、とんとん、です」

 

「あれ?

あれ?

ギアが...入りません!」

 

これまでの教習でチャンミンは、いっそのこと手と手を重ねて、ギアのタイミングを叩きこもうかと何度思ったことか。

 

一昔前なら可能な指導方法も、今は立派なセクハラ行為。

 

したくともできないのだ。

 

ユノの内心はプチパニック。

 

(どうして俺はこうも出来ないんだ?

せんせといられて嬉しいけれど、いくらなんでも酷すぎる)

 

ことごとくうまくいかない自分が情けなくて、泣きそうだった。

 

 

(つづく)

 

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