(35)チャンミンせんせ!

 

 

「はい...考えてみます」

 

『せんせと恋愛がしたい』

 

ユノの言葉を受けて、「はい」と即答できなかったチャンミンだった。

 

この場にKがいたら、「せっかくのチャンスを、なに引き延ばしているんだ?お前は小難しく考えすぎなんだよ」と呆れられそうだった。

 

「あ~あ、よかった」

 

前のめりに座っていたユノは、チャンミンの回答を受け、安心感のあまりどっと尻もちをついた。

 

ユノにとって、今のチャンミンの答えだけで十分だったのだ。

 

「待たないで下さい...なんて言われたらどうしよう、って怖かった」

 

弓型に目を細めた屈託ない微笑みに、「ああ、若いっていいな」とチャンミンは思った。

 

(僕だったら、こんな中途半端な答えじゃ満足しなかっただろう。

でも...僕の中でもうしばらく、覚悟できるまでの時間が欲しい)

 

若くて綺麗な男の子が、三十路のくたびれたサラリーマンを好きだと言っている。

 

「いいのかな」と、チャンミンの中で罪悪感が芽生えた。

 

「せんせ。

俺、頑張って合格しますよ。

教習はあと...3時間でしたっけ?」

 

「あと2時間です。

次の教習で問題がなければ“見極め”に進めますよ。

“見極め”に合格したら、いよいよ卒検です」

 

「あと2時間ですか...寂しいなぁ。

あ!

誤解しないでください。

俺はマジで運転が下手なんです」

 

チャンミンの教習を永遠に受けていたくて、わざと習得スピードを遅らせていたのではないと、念を押した。

 

事実、ユノは下手くそに見せられるほどの運転テクニックを持ち合わせていない。

 

「上手になりたくないなぁと、思ったことはありますけどね。

ずっと思ってましたけどね」

 

「こら!」

「あは」

 

前向きな返事がもらえたことで、ユノはニコニコご機嫌だ。

 

「そうだ、サンドイッチもあるんすよ」と、買い物袋に手を伸ばした。

 

「ん?」

 

買い物袋から顔を出していたものは、長時間の立ち読みのお詫びのつもりで購入した雑誌と書籍だった。

 

(ああ、そういえば。

適当に買ったやつだった)

 

チャンミンが約束の時間に現れないことから不安になり、店を出る際に目についたものを...夏ファッションもチェックしたかったし、エロい気持ちも解消したいし...じっくりと選びもせずに手に取ったものだった。

 

チャンミンは今こそ、気になっていたことを尋ねるグッドタイミングだと思った。

 

「あの~、ユノさん」

 

チャンミンは胸の位置で小さく挙手をした。

 

「はい、せんせ。

何すか?」

 

「ごめん。

見るつもりはなかったんだけど、見えてしまったんだ」

 

「何をっすか?」

 

「これを見て、僕はどう解釈したらいいのか」

 

「解釈...?」

 

チャンミンは例の雑誌を、すっとユノに差し出した。

 

(NO〜〜〜〜!?)

 

ここで初めてユノは、自分がチョイスした雑誌が特定ジャンルのものだと認識したのだった。

 

男性のための男性だらけの成人雑誌だ。

 

「え...っとえっと、俺っ、そういうつもりじゃなくって!

信じてください!

せんせを意識して、買ったんじゃないっす!

勉強しなくっちゃとか、興味があったとか...そんなんじゃありません!

表紙をちゃんと見なかったんで、ホント、知らなかったんです」

 

しどもどろに言い訳するユノは真っ赤だ。

 

「その言葉、信じてもよろしいのですか?」

 

「嘘ついてませんよ!」

 

チャンミンは肩の力を抜くと、クスクス笑った。

 

「こういうのを買うことは悪いことじゃありませんよ。

内容は凄いですけどね。

ユノさんがこれを買ったことに驚いただけです。

僕は買いませんけどね」

 

「それなら、よかった。

軽蔑されるかと思いました」

 

「『軽蔑する』...。

ユノさんはまず、そういう考えを捨てて欲しい...これが僕の願いです」

 

「...せんせ。

そうですね、軽蔑されるようなことじゃないんすね。

せんせ、この雑誌、欲しいですか?

あげますよ」

 

「い、要りませんよ!」

 

「それならば、俺は詳しくならないといけないんで、これで勉強します」

 

「どうして?

勉強する必要なんて...」

 

「必要ですよ。

だって、せんせといずれ...むふっ」

 

「まだ付き合うとは返事していないでしょう?」

 

「まあ...そうですけど」

 

「学校を卒業すること!

ユノさんが今、一生懸命にならなければならないことです!

すべてはその後の話です!」

 

「わかってますって。

希望の光が見えてきました。

見ててくださいよ、せんせ」

 

 

「俺、帰ります」

 

ユノの言葉に、チャンミンは猛烈な寂しさに襲われた。

 

「泊まっていきますか?」と誘ってしまいそうだった。

 

ユノは靴を履き、部屋を出る前に「おやすみなさい」と言った。

 

「下まで送ります」

 

「子供じゃないんだから、ここで大丈夫です」

 

「いいえ」

 

チャンミンはサンダルをつっかけた。

 

「コンビニにも行きたいですし」

 

ユノと離れがたいチャンミンが、思いついた言い訳だった。

 

それから、ユノに伝えたいことがひとつあったのだ。

 

「わあ、もう少しだけせんせと一緒に居られますね。

 

せんせ、ちゃんと財布を持ちましたか?」

 

「あっ!!」

 

「もぉ、せんせったら」

 

 

チャンミンと自転車をひいたユノは、ずっと前方の煌々と明るいコンビニエンスストアに向けて歩いていた。

 

早朝に近いといってもいい時刻で、いかに自分たちは時間を忘れて語り合っていたかを知る。

 

この夜は...特にユノが、心の内を吐き出したときだった。

 

一方、チャンミンの心の内は、ユノには伝えていない秘めたる思いが存在していた。

 

好きとか好きじゃないとか、そういう話ではなく、ノンケに恋をしたときに必ず心に巣食う恐怖について。

 

「せんせ」

 

「はい、ユノさん」

 

「俺が卒業したら、俺のバイト先に、メシ食いに来て下さい。

ファミレスですけどね。

...と言っても、俺は厨房なんで顔は出せませんが...」

 

ユノは立ち止まった。

 

「それなら、おススメのお店があります。

ユノさんはお酒、好きですか?」

 

「あ~~。

酒は...まあまあかな。

沢山は無理ですが、少しだけなら飲めます(嘘だけど。めっちゃ弱いけど)」

 

「そうですか。

僕もほどほど嗜む程度なので(嘘だけど。めっちゃ強いけど)

食事がてら、いかがですか?

とても美味しいし、若いユノさんがお腹いっぱい食べられます」

 

チャンミンはKと行きつけの居酒屋を思い浮かべながら、ユノを誘った。

 

「じゃあ、そこへ連れていって下さい。

俺、一発で合格してみますよ」

 

ユノはガッツポーズをしてみせた。

 

2人は再び歩き出した。

 

店まであと数メートルといった時、チャンミンは話し出した。

 

「そのことなんですが...。

担当指導員なのに、申し訳ないのですが...」

 

「?」

 

「ユノさんの卒業検定の日ですが...僕は不在なのです」

 

「嘘っ!?

どうして!?

休みの日なんすか?」

 

ショッキングな内容に、ユノは大声を出していた。

 

合格が分かった暁には、チャンミンに抱きつくプランがあったのだ。

 

(ずっと面倒を見てきた可愛い我が子が巣立とうとするその時に、肝心の親が見守っていなくてどうする?)

 

「違います。

どうしても外せないことがあるのです。

これは元々、決まっていたことですので、すっぽかすことはできません」

 

「......」

 

「ユノさんの卒業検定が、見込みより後ろにずれこんでしまったことで、予定が重なってしまったのです」

 

チャンミンは、しょんぼりと肩を落としたユノを浮上させようと、事情を説明した。

 

「すみません...下手くそで」

 

「いいえ、そんなことありませんよ。

途中どうなるかと思いましたが、いよいよ卒業までこぎつけることが出来たのは、ユノさんの努力です。

ユノさんを見て、僕も頑張らないといけないな、とヤル気が出ましたよ」

 

「せんせは十分、頑張っていますよ」

 

2人はコンビニエンスストア前まで到着していた。

 

店前にはトラックが停車しており、ドライバーが店内へ商品を搬入していた。

 

「僕もね、ユノさんと同じように試験を受けるのです」

 

「試験?

先生なのに試験を受けないといけないんすか?」

 

「そうです。

教習指導員は、年に最低1度は試験や講習を受けています。

資格を取るためだったり、持っている資格の更新だったりして。

日々勉強、日々努力です。

僕にはまだまだ、持っていない資格が沢山あります。

救急救命教習も資格がないと教えられないのですよ。

ご存知なかったでしょう?」

 

「へえぇぇ。

自動車学校の先生って奥が深いっすね」

 

ユノは素直に驚き、尊敬の眼差しをチャンミンに注いだ。

 

「地味に見える職業ですけどね」

 

チャンミンは少し前まで、仕事へのやりがいを見失い、Kに急かされないと実地試験練習も怠っていた。

 

「せんせが受ける試験は何すか?」

 

「大型自動車教習指導員免許試験です」

 

「凄いすね」

 

「...僕は昨年、この試験に落ちました」

 

「...そうなんすか」

 

「年に1度しかないので、今年がダメなら来年です」

 

と、チャンミンは言ったが、学校側が与えてくれるチャンスは3回までだ。

 

職場に居づらくなることを想像すると、できれば、今回の試験で合格したかった。

 

「せんせがいなくて心細いけど、俺なら大丈夫...だと思います。

俺もせんせも共に頑張りましょう!

ほらせんせ、握手握手」

 

チャンミンは差し出されたユノの手を握った。

 

自分よりも大きく分厚いユノの手に、チャンミンの鼓動が早くなった。

 

 

(つづく)

 

 

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