サトコさんは僕の奥さんだ。
10日前、僕らは喧嘩をして、その結果サトコさんが家を飛び出してしまった。
サトコさんのことだから、マンション前の植え込みの陰にしゃがんで、追いかける僕を待っていたかもしれない。
僕は相当腹を立てていたから、サトコさんを追わなかった。
それがいけなかった。
10日間のあいだ、どこで寝泊まりしてたのやら。
「奥さんが出勤していないのですが...?」なんていう連絡はなかったから、仕事には行っていたようだ。
「ビジネスホテル生活も、10日続くと辛いわ」
僕らはレンジで温めたパンケーキを前にしていた。
焼き立ての時と比べると、ちょっとしんなりしているけど、アイスとホイップクリームにまみれて、ひと口ひと口が至福の塊だ。
「家出してごめんね」
「僕も、キツイこと言って、ごめん」
喧嘩の詳細はこうだ。
友人夫婦に赤ちゃんができたと聞いて、お祝いの気持ちで赤ちゃんグッズをプレゼントしようと思った。
このことをサトコさんに伝えたら、拒絶された。
僕らのクローゼットには、赤ちゃんグッズが詰まっている。
赤ちゃん5人分。
これらは、永遠に誕生することのない、僕らの赤ちゃんのために買い揃え続けてきたものだ。
僕らには必要ないもの。
でも、手放しがたいもの。
とはいえ、永遠に溜め込みつづけるわけにはいかない。
少しずつ手放していかないといけない。
本当に必要としてくれる人の元へ、譲ってあげようよ。
サトコさんにその決心がつくまで、僕は待ち続けていた。
「少しくらい減ってもいいじゃないか。
また買えばいいじゃないか!」
って、酷い言葉を吐いてしまった。
・
サトコさんは、とにかく赤ん坊を欲しがった。
結婚2年目で、僕らには子供が出来ないことが判明した。
サトコさんの頭の中は、赤ん坊のことでいっぱいだった。
その気持ちが強すぎて、定期的にサトコさんは“フェイク妊娠”する。
「赤ちゃんができたの」のサトコさんの一言で、ゲームは始まる。
僕もサトコさんに合わせて、彼女が“妊婦さん”であるかのように接する。
赤ちゃんの誕生を待ち望む夫婦の姿を、演じる。
そして、ある日突然、「赤ちゃん、駄目だったの」で幕を下ろす。
可笑しいだろ?
「サトコさんが妊娠したかも」ごっこも、5回を迎えると疲れてきた。
哀しくなってきた。
クローゼットの中には、回を重ねるごとに増殖するものたち。
夫の僕と、赤ちゃんと、どちらが大切なんだ?
いい加減、隣にいる僕と正面から向き合って欲しかった。
「サトコさんには、僕が見えないのか!」って怒鳴った。
気持ちを切り替えて、僕と二人の人生を歩む覚悟を決めて欲しかった。
彼女の哀しみに寄り添ってきた僕だけど、とうとうやりきれない思いが爆発してしまった。
「いい加減にしろ!」って。
僕がいるだけじゃ、足りないのか?って。
彼女は心底驚いただろう。
結婚して初めて、僕の怒鳴る声を聞いたんだから。
真剣に怒る僕を初めて見たんだから。
帰宅してソファに置いたばかりのバッグをつかんで、脱いだばかりのジャケットを羽織ると、サトコさんは無言のまま家を出ていった。
あれから10日間、家に帰ってこなかった。
携帯電話がキッチンカウンターに置きっぱなしで、サトコさんに連絡しようにも出来なかった。
「また買えばいい」だなんて酷すぎた。
赤ちゃんを産めないサトコさんに言ったらいけない言葉だった。
それでも、いつまでもごまかしの日々は御免だった。
本音をぶつけたことを、僕は全然、後悔していない。
どこかで、伝えなくちゃいけない言葉だった。
伝え方が悪くて、サトコさんにショックを与えてしまったけど。
僕の正直な気持ちを隠すことなく伝えたかった。
僕はサトコさんのことが大事だから。
・
「ねぇ、チャンミン。
家出してる間にね、
ホテルのエレベーターの注意書きが、すごいシュールで面白かったの。
この可笑しさは、チャンミンじゃなきゃ理解できないくらいのシュールさだったの。
チャンミンと共有したかった。
でね、写真を撮ってチャンミンに送ろうとしたんだけど、携帯を忘れていっちゃったから。
それで、とりに家に寄ったんだけど、なくて...」
「ごめん、僕が持ち歩いてた」
「そうだったんだ。
でも、かえって良かったかも。
全く連絡がとれなかったおかげで、チャンミンのありがたさが、よ~く分かったの」
「ありがたみ?
どれだけ僕のことを愛してるか、じゃなくて?」
「分かってるくせに」
「ははっ」
「ちゃんと帰ってきたでしょ」
「サトコさんが帰る場所は、僕の場所~♪」
「チャンミン、歌うまいねー」
サトコさんは、パチパチと手を叩いた。
僕は調子に乗って、言葉をメロディにのせた。
「サトコさん~♪
ひどいこと言って、ごめんね~♪
これからも~、サトコさんの~♪
“赤ちゃんできちゃったごっこ”を~、やろうね~♪」
「チャンミーン!」
サトコさんが僕に抱きついてきた。
「もうやらない」
「そんなこと言わないで。
いくらでも付き合うよ~♪」
「ううん。
もうやらない。
あの日、チャンミンの本音が聞けてよかった。
チャンミンの言葉で、目が覚めた」
「サトコさん...」
「自分の気持ちを押し付けてばかりだった。
悲劇のヒロインぶってた。
チャンミンの気持ちなんか、全然考えてなかった。
チャンミンはずっと隣にいてくれたのに」
「サトコさん...」
僕は、サトコさんの頭をよしよしとなでた。
「怒鳴ってゴメン」
「キツい言葉だったけれど、あれがチャンミンの本音でしょ?」
「うん」
「そういう正直なところに惚れました」
「やっぱり?」
「チャンミンが、私の会社まで迎えに来なくてよかったー。
『妻は来ていますか?』なーんて、電話がかかってきたらどうしよう、って。
気持ちの整理ができる前に、チャンミンに会いたくなかったから」
「恥をかかせるようなことはしないよ。
僕がサトコさんを追いかけなかったのは、僕にも気持ちを整理する時間が必要だったし、
もしサトコさんがいなくなったら、僕はどうなっちゃうんだろうって。
確認してみたかったんだ」
「で、どうだった?」
「わかってるくせに」
サトコさんの膝裏に腕を通して、お姫様だっこする。
「きゃー」
サトコさんはこうされることが、好きなんだ。
「帰ってくるのが1日遅かったら、危なかったですよ。
明日になったら、サトコさんの会社に迎えに行くつもりでしたから」
「それは困る!」
「でさ、
そのシュールな注意書きって何?
教えてよ!」
「なんて言いつつ、
寝室に向かってるのは、どういうわけ?」
(おしまい)
[maxbutton id=”27″ ]