チャンミンの顔は切なげに歪んでいた。
シヅクの上唇に触れる指は、優しい弾力で押し返されて、熱い吐息で湿り気を帯びてきた。
チャンミンの喉がごくりと鳴り、その指を引っ込めてこぶしを握る。
熱のせいで目の縁も赤く色づかせて、伏せたまつ毛が扇状に広がっている。
(シヅクの顔って...綺麗なんだな)
美醜に無頓着だったチャンミンは、シヅクの外貌が整っていることに初めて気づいた瞬間だった。
チャンミンはマットレスに片頬をつけて、シヅクの顔の向きに合わせた。
寝ぐせだらけのシヅクの髪を指ですいてやる。
数日前、シヅクに寝ぐせをからかわれたことを思い出した。
チャンミンの指は耳のラインにたどり、ピアスホールの空いた耳たぶを柔くつまんだ。
(柔らかい...)
数日前、ピアスを付けたシヅクの耳に触れたことを思い出していた。
手の甲で頬を撫ぜた。
(熱い...苦しそうだ)
シヅクの首筋まで滑らすと、手の甲にドクドクいう脈動が感じられた。
チャンミンの脈拍も早かった。
(シヅクに...キスしたい...)
下腹部を押えたチャンミンは身体を起こすと、眠るシヅクを見下ろしていた。
(濡らしたタオルで首を冷やしてやったら、少しは楽になるよな)
玄関に向かって左のドアが洗面所で、人感センサーで照明がついた。
棚にはバスタオルが2枚、タオルが数枚だけ。
洗濯洗剤のボトルが1本、持ち上げると軽い。
歯ブラシと残り少ない歯磨き粉。
チャンミンの口元が緩んだ。
(そんなことだろうと思ってたんだ)
買い物袋を置いたベッド脇にとって引き返し、目当ての物を持って戻ると、青りんご味の歯磨き粉、シトラスの香りの洗濯洗剤、マゼンタ色の歯ブラシを棚に置いた。
(シヅクの部屋にマーキングしているみたいだな。
何やってんだ、僕)
チャンミンはタオルを1枚取ると、洗面器を探す。
洗面所の隣は浴室で、「女性のバスルームを覗くのは、よくないだろうけど」と、チャンミンは中を覗き込んだ。
(あった!)
バスタブの縁に伏せられた洗面器を手に取ろうとした時、チャンミンの目に映ったものとは。
「ひっ...!」
勢いよく引っ込めた手がかすめて、洗面器がカラーンと音を立ててバスタブの中に転げ落ちた。
バスタブの水栓レバーの脇に、人の足が、くるぶしから下の部分があった。
チャンミンはたっぷり1分間、浴室に片足だけを踏み出した姿勢のまま、それを凝視していた。
唾を飲み込んで、もっと近くで見られるようにバスタブ脇にしゃがんだ。
(...義足、か。
よく出来ている)
皮膚に透けた血管や、肌の赤みのむら感や、薄ピンクの小さな爪。
両手でそっと持ち上げた。
軽くて小さな足。
肌に吸い付くような、柔らかさと弾力も感じられた。
(シヅクの...。
シヅクはいつも、編み上げブーツを履いているのも、これのせいだったのか。
事故か何かかな...?)
チャンミンは、宝物を扱うかのように、そっと元あった場所に戻した。
バスタブの中に転げ落ちた洗面器を拾い上げると、浴室のドアを閉めた。
(見てはいけないものを見てしまったのかな。
シヅクの「帰れ」に抵抗して居座ってる僕だけど、シヅクにとって本当に迷惑だったのかもしれない。
僕には人の言葉の真意がはかれない。
無神経なことを、いっぱい口にしていたんだろうな)
チャンミンはシヅクが臥せっているベッドを見つめながら、そう思った。
水を張った洗面器に残りの氷を全部あけたものを、ベッドサイドへ運んだ。
躊躇していたチャンミンの手が、掛布団に伸びる。
めくった布団の下から、シヅクのむき出しの脚があらわれた。
(シヅク、ごめん...。
僕は今、とても失礼なことをした)
膝の位置で丸まっていた毛布を引っ張って、シヅクの左足とくるぶしから先を失った右足をくるんでやった。
(あれ...おかしいな)
いつの間に浮かんだ涙を、チャンミンは袖で拭う。
熱にあえぐシヅクの姿と、シヅクが抱える秘密を目にして、チャンミンの胸が締め付けられるように痛んだのだった。
(これは...涙?
どうして僕は、泣いているんだ?)
拭った後から次々と溢れてくる涙の理由が、チャンミンには分からない。
頬をつたう涙はそのままに、チャンミンはベッド脇にひざまずく。
キンキンに冷えた水にタオルを浸して、ゆるく絞った。
両手で広げたタオルでシヅクのあごを包むと、シヅクからため息が漏れた。
「気持ちいい?」
うっすらと目を開けたシヅクの目が、真上から見下ろすチャンミンに驚き、大きく丸くなった。
「チャンミン...まだ帰ってなかったの?」
「帰って欲しかった?」
(チャンミンのバカ。
弱っている姿なんて見せたくなかったのに、
そんなに優しくしないでよ、慣れていなんだから)
シヅクが首を横に振ったのに満足したチャンミンは、濡れたタオルでシヅクの耳の下を冷やす。
「気持ちいい?」
「うん」
シヅクの手が、タオルに添えられたチャンミンに重ねられた。
「チャンミン...ありがとな」
「......」
(駄目だ...我慢できない)
「シヅク...あの...。
こんな時に、駄目だってことは分かってる。
シヅクの体調が優れないときに...こんなこと。
でも...」
「おい!
こっちは頭が朦朧としてるんだ。
言いたいことがあるなら、はっきり、端的に!」
チャンミンは深呼吸をする。
「...キス、してもいい?」
「!!」
(キ、キス!?)
「...しても、いい?」
(いちいち言葉にするな!)
チャンミンの切羽詰まった表情に、シヅクはうんうんと頷いた。
チャンミンは、気持ちを落ち着かせようと、ふぅっと息を吐き、斜めに傾けた頬をシヅクに寄せる。
(緊張する)
熱で潤んだシヅクの瞳が、かすかに揺れた。
額同士をくっつけると、互いの鼻先が触れた。
2人の額は、熱く火照っていた。
(ドキドキする!)
シヅクはぎゅっと目をつむった。
唇同士が触れるだけの、軽いキス。
次は、互いの唇の柔らかさを確かめるキス。
頬の傾きを変えて、唇の形をたどるキス。
恐る恐るだったチャンミンにも勢いがついてきた。
唇も顔も閉じ込めるかのように、シヅクの両頬を手で包み込んだ。
(チャンミンのキス...不器用だけど...いい感じ)
わずかに開けた唇の隙間を通して、二人の舌が触れ合った。
「!!」
とっさにチャンミンは舌をひっこめたが、シヅクの熱い手が、チャンミンのうなじにかかって、ぐいっと引き寄せられた。
「!!」
シヅクの熱い舌がそっと忍び込んできて、躊躇していたチャンミンもそっと伸ばす。
(柔らかい...そして、気持ちいい...)
いったん唇を離し、顔の傾きを逆にして口づける。
さっきより深く。
シヅクの舌がチャンミンのそれに絡んだとき、チャンミンは自身の中に火がついたのがはっきりと分かった。
チャンミンもシヅクに応えて、彼女の中に舌を忍ばせる。
知らず知らずのうちに、シヅクの頬を挟む手に力がこもった時、
(マズイ!
これ以上はマズイ!)
下半身の疼きに気付いたチャンミンは、内心焦りだした。
頬を包んだ手を、首に、胸にと滑らしていきたくなった。
(...するわけには、いかない...)
と、首に巻き付けられたシヅクの腕がゆるみ、同時に2人の唇が離れた。
「ふう...」
チャンミンは尻もちをつくように座り込んだ。
(ドキドキする。
この感覚は、一体なんなんだ!)
シヅクに負けないくらい、全身が熱かった。
胸に当てた手の平の下で、鼓動が早い。
「一緒に寝るか?」
シヅクはポンポンと、マットレスを叩いた。
「えっ!?」
思いがけず大きな声が出してしまったことにチャンミンは驚く。
「それとも、うちに帰って寝るのか?」
「いやっ、それは...(帰りたくない)」
「寝るだけだろうが。
まさか...チャンミン!
私をどうこうしようって、考えてたのか?」
(どうこうするつもりはなくても、抑えられるかどうか...自信がない)
「そばにいて、朝まで」
シヅクの言葉に一瞬固まったチャンミンだったが、逡巡なく「うん」と頷いた。
顔を赤くしたチャンミンは「失礼します」と言うと、そろそろとシヅクの隣に横たわった。
「!!」
(おいおいおいおい!
冗談で言ったのに、本気にしたのか!?)
ギョッとしたシヅクは、触れ合わんばかりに接近したチャンミンを横目で見る。
(忘れてた。
チャンミンには冗談が通じないんだった!)
「......」
「......」
(熱が出てしんどいどころじゃなくなった。
もっと熱が出そう!)
(シヅクのお世話をする僕が、シヅクのベッドに寝てどうするんだ!)
いろいろあった1日だった。
(病院へ行った。
シヅクとカイ君が一緒にいるところを見て、不快になった。
ポンプ室でシヅクと閉じ込められた。
震えるシヅクを抱きしめた。
家に帰って、自分の気持ちを振り返ってみた。
その時、自分の気持ちの答えが見つかった。
シヅクの顔が見たくなって、居ても立っても居られなくなってシヅクを訪ねた。
シヅクの足の秘密を知った。
初めて涙というものを流した。
それから...それから...)
「シヅク...」
「ううーん...?」
丸まったシヅクの背中に向けて、チャンミンは言葉を紡ぐ。
「僕がここに来たのは、シヅクに話があったからなんだ。
その話っていうのは...」
チャンミンは深呼吸して、続きの言葉を紡ぐ。
「伝えたいことがあって、ここに来たんだ。
あの...。
僕は...」
「......」
「僕はシヅクが好きです。
好き、です」
「......」
「シヅク?
聞こえた?
あのさ、
僕は、シヅクのことが、好きです」
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