65.彼女は誰?-TIME第3章-

 

 

~チャンミン~

 

シヅクはバスルームで、僕はひとりリビングに残された。

 

シャワーを浴びたばかりなのに脇の下は汗で濡れていて、立てた片膝に額をぎゅっと押し当てた。

 

倒れていたところを、シヅクに発見された。

 

なぜ意識を失うことになってしまったのか、僕の身体内でどんな異常が起きたのかは分からないけれど、ずんと脳みそが揺れる感覚に襲われた。

 

 

僕の部屋を訪ねてくる前に入浴を済ませて、洗面所を出たところだった。

 

照明を消した室内は真っ暗で、リビングの窓から夜景がのぞめる。

 

洗面所の照明を背後に、僕のシルエットがくっきりと窓ガラスに映っていた。

 

オレンジ色の灯りに、黒い僕の影。

 

オレンジと黒のコントラスト。

 

オレンジ色の炎と黒い影。

 

ぽたぽたと湯上りの肌を滴り落ちる水。

 

ちゃぷちゃぷと僕の肩を濡らす液体。

 

熱くて仕方がないのに、僕をびしょ濡れにするそれは冷たくて気持ちよかった。

 

巨大なもので腰を挟まれて身動きがとれない。

 

おかしいな...僕は今、洗面所の入り口に立っていたはずなのに。

 

「チャンミン!」

 

振り絞るような必死の声。

 

僕のこめかみから生温かいものが首につたっていて、確かめたわけじゃないがそれが血だと知っていた。

 

伸ばした手の平は、砂利交じりの土か。

 

僕の指に絡まる細い指は、僕を呼ぶ声の主で顔は見えない。

 

高い声は、女の人のものだ。

 

オレンジ色の光がまばゆ過ぎるせいなのか、顔面が黒く塗りつぶされている。

 

肩幅や、首から肩へのシルエットから判断しても、やっぱり女の人だ。

 

「チャンミン!」

 

この人は、何度も僕の名前を呼んでいる。

 

誰だ...この人は?

 

「チャンミン...もうすぐだからね。

もうちょっと、頑張って」

 

「頑張る?」

 

頑張るって、何を?

 

動かせるのは肩から上で、その下は何か巨大なものが僕を押しつぶしていて身動きがとれない。

 

腰から下の感覚がない。

 

「チャンミン!」

 

その人はまた、僕の名前を呼んだ。

 

頭を持ち上げているのが、いよいよ辛くなってきて地面に片頬を落とした。

 

目に入る血が視界を妨げて、拭いたくても出来ず、まばたきを繰り返した。

 

「チャンミン!

こっちを見て!」

 

渾身の力を振り絞って、頭を持ち上げた。

 

彼女は僕の手を握りしめたけど、握り返す力が僕にはもう、ない。

 

指先だけで、彼女の手の平をくすぐるのが精いっぱい。

 

「キリ」

 

僕は呼んでいた。

 

「目をつむっちゃ駄目。

こっちを見て」

 

「...キリ」

 

キリ...?

 

僕の名前を何度も呼んだ。

 

感覚を失いかけた僕の手を、握りしめる彼女の手。

 

キリって...誰だ?

 

この直後だ、闇にもの凄い力で引きずり下ろされたかのように、感覚が失われた。

 

その後、目覚めたら、シヅクの膝の上にいた。

 

頭蓋骨の内側がズキズキとえぐるように、痛い。

 

僕は立ちあがった。

 

頭は痛いは、不快な夢は見るは、意識を失うは。

 

僕はどんどん記憶を失っていっているらしいから、夢の内容が実は現実のことだったら...どうしよう!

 

夢にしては、リアルで生々しかった。

 

夢の中で、架空の人の名前をでっちあげるものだろうか?

 

こめかみ上の生え際を指で探ってみたが、傷跡らしいものはない。

 

僕を呼んだあの女の人は、過去に会ったことがある人だったらどうしよう。

 

キリ...なんて、知らないよ。

 

もっと重要なことに思い至る。

 

何か巨大なものに下敷きになったらしい僕に、叫ぶように名前を呼んでいた彼女...キリ。

 

シヅクと水攻めになって、閉じ込められた時に、うとうとしていた僕は夢をみていた。

 

断片的なものだったけれど、果汁滴る僕の腕をぺろりと舐めていた女の人。

 

彼女と、さっき見た夢の中に登場した「キリ」と、同一人物だ。

 

僕の腕を舐めていた女の人の顔はぼんやりとしていて、判別できなかったが、キリという女の人だと、なぜか確信していた。

 

「あ...!」

 

もうひとつ発見したことがある。

 

あれはいつのことだっけ、降り積もった落ち葉を誰かと一緒に、踏みしめながら歩いていた。

 

落ち葉を踏む、かさかさいう音がリアルだった。

 

あの夢でも、僕の隣を歩く人物の顔は分からなかった。

 

そうであっても、その人も「キリ」に間違いないと分かった。

 

この確信は勘違いなんかじゃない。

 

夢に登場した3人の女性は、「キリ」だ。

 

キリとの関係性は恐らく...いや、確実に、どう考えても、「恋人同士」のような雰囲気だった。

 

単に僕が覚えていないだけのことかもしれない。

 

はっと意識にのぼってきたこの発見に、僕の心は衝撃を受けた。

 

マックスだの、ユーキだの、キリだの...次々と登場してくる僕の知らない人たち。

 

僕を混乱に陥れる彼らに、腹がたってきた。

 

なぜって、僕は覚えていないから。

 

マックスとユーキに関しては、夢にも出てこないし、全く思い出せない2人だ。

 

もっと混乱するのは、マックスと僕が同一人物かもしれないということ。

 

これ以上、考えるのはよそう。

 

頭痛が始まってきたようだから。

 

「さむっ」

 

身体が冷えてきて、そういえば着替えがまだだったと、今さら気付いた。

 

「はあ...」

 

シヅクに何度、真っ裸を見られたことか...。

 

見せるものは全部見られてしまった、ってことか。

 

キッチンカウンターに常備している、頭痛薬を水なしで飲み込んだ。

 

寝室のクローゼットから着替えを出して、Tシャツを頭からかぶったとき...。

 

ベッドが目に入った。

 

今朝、ベッドメイクしたそこは、真っ白なシーツと布団カバーでしわひとつなく整えられている。

 

ベッドは2人分、ゆうに横たわれるダブルサイズだ。

 

「......」

 

それから、入浴中のシヅクを意識した。

 

ちょっと待て...ぼんやりしていたけど、つまり、その...。

 

僕が置かれている状況とは、その、つまり、えっと...。

 

つまり、そういうことだ。

 

困ったな。

 

僕が覚えていないだけで多分、最低2人の女性と恋人関係にあったらしい僕は、全くの未経験ではないらしい。

 

ところが、そういう行為の手順というか、どういう流れですすむのかとか、さらには「そういうこと」をした時の感覚が、僕の頭には残っていないのだ。

 

ベッドに腰掛けて、僕は頭を抱えた。

 

僕はシヅクに触れたい欲に突き動かされて、これまでに何度かシヅクを押し倒してしまっていた。

 

自分があそこまで情熱的な男だとは、意外だった。

 

自分のことなのに、シヅクに制されてから、性急さにハッとなっていたのだ。

 

流れに任せていれば、それなりになんとかなればいいんだけど...。

 

髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 

「チャンミン...?」

 

寝室の戸口に、パジャマを着たシヅクが立っていた。

 

僕が悶々と頭を悩ませているうちに、入浴を終えていたんだ。

 

右ひざを曲げているから、義足を外しているんだ。

 

立ちあがった僕はシヅクに近づくと、彼女を肩の上に担ぎ上げた。

 

「こら!

一人で歩ける!

私は荷物じゃないんだぞ!」

 

胸の位置で抱きかかえるのは、なんだか気恥ずかしかった。

 

「わっ!」

 

シヅクったら半身を起こすものだから、バランスを崩してしまう。

 

そして、彼女をベッドの上に、投げるように落としてしまった。

 

僕に背負い投げされたシヅクは、ごろんと一回転して着地した。

 

「あのなー!

荷物じゃないって言ってるだろうが!?」

 

「シヅクが暴れるからだよ」

 

「......」

 

立ったままなのは変だよな、とシヅクの正面に胡坐をかいて座った。

 

「......」

 

「なあ。

チャンミン、もしかしてめちゃめちゃ緊張してたりする?」

 

僕を覗き込むシヅクの目が三日月型になってるから、明らかに僕をからかってる。

 

「うるさいなぁ。

そう言うシヅクこそ、どうなんだよ?」

 

メイクを落としたシヅクは、きつめに引いたアイラインもなく、幼く優しい面立ちになっていた。

 

洗いっぱなしのシヅクの短い髪が、あっちこっちにはねていて、純粋に可愛い、と思った。

 

「明るいのは恥ずかしいな。

電気を消してくれない?」

 

寝室の中をキョロキョロ見回すシヅクの声も、上ずっているからきっと、彼女も緊張しているんだ。

 

「う、うん」

 

ベッドサイドのパネルを操作して、互いの輪郭と表情がぎりぎり分かる程度まで照明をしぼった。

 

参ったなぁ...ドキドキする。

 

僕とシヅクが急接近してから一か月ほど。

 

シヅクとこんな風になるなんて、思いもよらなかった。

 

僕の太ももに、シヅクの手が乗せられた。

 

シヅクの顔がすっと、近づいた。

 

僕と同じ香りがする。

 

 

(つづく)

 

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