(3)麗しの下宿人

 

 

僕は、世の12歳男子の平均値よりも、小柄で痩せていた。

 

小学3、4年生頃に間違われることはしょっちゅうで、全然嬉しくなかったけれど、訂正してまわることはしなかった。

 

ムキになる姿をからかわれたり、突っかかって小突かれたりして嫌な思いをするくらいなら、黙っていれば済むことだ。

 

「ねぇ、ユノちゃん。

僕はどうして小さいのだろう。

ユノちゃんみたいに大きくなれるのかな?」

 

僕もユノの真似をして板壁にもたれて座り、彼は漫画本を、僕は世界の童話を膝にのっけての読書の時間だった。

 

いつもの僕らのいつもの午後4時。

 

7月上旬にもなると、窓を開けていても部屋の中は暑い。

 

ユノの部屋は幸いにも南向きで、西日に悩まされることはなかったが、やっぱり暑い。

 

隙間だらけのこの建物は、夏は暑く冬は寒い。

 

雨風しのげればいいと覚悟がある者しか住めない我が下宿屋...ユノは根性と体力のある男なのだ。

 

そして、ユノは身体も大きくて、僕が知っている大人たちの中でも群を抜いて背が高かった。

 

「僕もユノちゃんみたいになれるかな?」

 

するとユノは間髪入れず、「なれるさ」と言った。

 

「チャミの父ちゃんも背が高かったんだろ?」

 

「うん」

 

僕の父親はとても背が高かったそうだ...話によると。

 

「メシを腹いっぱい食って、よく寝ていればデカくなるさ」

 

「なら、いいけどね...」

 

「なるさ」

 

ユノは言いきると、漫画本へと視線を戻してしまった。

 

 

小学校に上がるまで、僕の身体はとてもとても丈夫とはいえず、しょっちゅう体調を崩していたそうだ。

 

母の話によると、保育園から何度も呼び出され、ぐったりとした僕を抱えてかかりつけの医院に駆け込んだ。

 

入院にいたるほどの高熱が出たこともあったとか...僕は全然、覚えていないけれど。

 

小学校中学年になる頃には、嘘みたいに丈夫になり、風邪もひきにくくなった。

 

ちょうど、ユノが我が下宿屋にやって来た頃だ。

 

ユノが僕の弱気を強くしてくれたのでは?と、根拠のない思い込みをしている。

 

いずれにせよ、母には苦労をかけた。

 

自分のことは自分で、手伝えることは率先して手伝って、母を助けてやりたいと思っている。

 

 

そのひとつが、下宿屋の細かい仕事を僕が担うことだ。

 

風呂掃除中の僕は、ブラシを持ったまま、身体の変化について考えにふけっていた。

 

当時と比較すると、ずっと丈夫になったことは喜ばしいことだ。

 

けれども...平均的男子より小さな身体の僕に、平均的男子よりも早く精通がおとずれるとは。

 

ユノが言っていた『ソージュク』という言葉。

 

あの後、辞書で調べてみた。

 

『肉体や精神の発育が普通より早いこと』

 

大人の身体に近づくとは...大人の男に近づくとは...嬉しいものなんだろうか。

 

実はあの日以来、僕の身体にわずかなりとも変化が起こった。

 

微熱があるような身体の重だるさが気になって、母の目を盗んで(病院に連れていかれる)体温計ではかってみると、36.5℃。

 

熱はない。

 

(おかしいなぁ。

なんだろう)

 

母を心配させてしまうから、黙っていることにした。

 

「...あ」

 

裏口の戸がガラガラ開く音がした。

 

母が仕事先から帰って来たのだ。

 

(急がなくっちゃ)

 

僕は風呂掃除の続きに戻った。

 

水に溶いた洗剤でゴシゴシ、タイルの目地に沿って十字にこすった。

 

換気のため開けていた曇りガラスの窓をしめ、湯船の栓を閉めた。

 

最後に蛇口を磨きあげて、終了だ。

 

掃除の手順は母に、そのコツはユノに習った。

 

小学3年生の頃だったと思う。

 

大の男が2人同時に使用できるほどの風呂場は、9歳の僕の目には広大で途方にくれていた。

 

「おっ。

チャミはお手伝い中か」

 

洗濯機を使うため、自室から脱衣所へ下りてきたユノが、僕に声をかけてきた。

 

「手伝いじゃない。

これは『仕事』だよ」

 

わが家の事情を分かりかけていた頃で、僕も下宿屋業の戦力のひとつになるんだと、意気揚々鼻息荒かった。

 

手にしたブラシは小さな手には大きかった。

 

ユノは、無駄に泡ばかりたてる段取りの悪い僕をみかねて、ズボンの裾をたくし上げて洗い場へやってきた。

 

「ほそっこい腕だなぁ。

ちゃんとメシ食ってるのか?」

 

「食べてるもん」

 

ユノは「ブラシ、貸してみろ」と、手をひらひらさせた。

 

「斜めに擦るんじゃなくて...縦たて、横よこ...。

こうだ」

 

僕は、ユノの腕...筋と血管が浮いた太くてかたそうな腕...素早く力強く動く腕から目が離せなかった。

 

それは、「大人の男の人ってかっこいいなぁ」という尊敬の目だ。

 

今でも1週間に1度はユノのことを、「かっこいいなぁ」と思っている。

 

そう思っていても、褒めるよりもからかう時の方が多いんだよね。

 

 

「チャミ~!」

 

僕と母が夕飯の支度をしていると、階段の方から僕を呼ぶユノの声がした。

 

共用階段横に木戸があり、賃貸エリアと管理人(僕ら一家)エリアとを分けている。

 

夏の間、風通しをよくするため、その戸は常時開け放たれ、暖簾をかけただけになっている。

 

けれども、ユノはこちらへは1歩も足を踏み入れたことはない。

 

以前、「入ってこればいいのに」と、言ったことがある。

 

そうしたら、

 

「俺は下宿させてもらっている身だ。

オーナーの家に、ズカズカ入り込めない。

これはケジメだよ」と、答えたから、

 

僕は、

「じゃあ僕は?

僕はオーナーなのに、下宿人の部屋に遊びにいってるんだよ?

それってOKなの?」と、質問した。

 

するとユノは、ああ言えばこう言う年ごろの僕を一発で納得させられる言葉を思いついたらしい。

 

「チャミは俺の友だちだからOKなんだよ。

友だちんちに遊びに行ったりするだろう?

それと一緒」

と、僕の頭をガシガシ撫でた。

 

僕はぱあ~っと、天にも昇る思いだった。

 

うんと年上の憧れの人から、「友達」認定されたのだ。

 

「チャミは?」

 

「ユノちゃんは僕の友だちだよ」

 

ユノは僕に友だちがいないことを知っている。

 

だからといって、「僕の友だちになってあげよう」...そんな同情から口にした言葉じゃない。

 

「俺とチャミは友達だけど、チャミんちにはお母さんがいる。

チャミのお母さんは、俺にとってオーナーだから、気軽にチャミんちに入るわけにはいけないんだ。

分かった?」

 

「分かった」

 

僕は子供過ぎるし、対等な話し相手にはなれない。

 

けれども、僕らは対等の関係だ...と、僕が思いたいのかな?

 

 

ユノに呼ばれた僕は、「いい?」と問う目で母を見た。

 

母は「仕方がないわね」と渋々...ではなく、困った顔を作ってみせた。

 

息子に兄のような存在が出来たことを、喜んでいるからだ。

 

(僕はといえば、ユノのことを兄というよりも、年上の友だちのつもりでいるのだけどね)

 

「今、行くよ~!」

 

僕は大声で返事をし、バスタオルと着替えを抱えてユノを追いかけた。

 

いつからか、僕は下宿人の共用風呂を利用する習慣ができていた。

 

当初は、「ユノさんの迷惑になるから」と母に反対されたが、ユノが「俺一人であの風呂は広すぎですよ」と説得してくれたおかげだ。

 

脱衣所に行くと、ユノは一足先に服を脱いでいた。

 

僕も負けじと、服を蹴散らすように脱いだ。

 

「チャミ、修行だ!」

 

ユノのかけ声に、僕は両耳を塞いで目をぎゅっとつむった。

 

直後、僕の頭上から、ユノが洗面器いっぱいに汲んだお湯が降り注いだ。

 

ユノに遅れて僕も湯船に飛び込んだ。

 

僕らは向かい合わせになって、湯船のあっちとこっちにもたれて沈んでいる。

 

くすんだ水色のタイルに、ステンレス製の湯船、浴室内は湯気で真っ白だ。

 

ユノは湯船の湯をすくって顔を濡らし、その手で前髪を梳いた。

 

前髪を上げて額を出した顔も、キリッとしていてカッコいい。

 

「ふう~。

暑い季節でも、風呂に浸かるのっていいもんだな」

 

「うん」

 

「風呂上がりに、ジュースを買いにいくか?」

 

「いいの?」

 

「お母さんには内緒な?」

 

「うん」

 

母は、ユノがあれこれろおごってくれることを申し訳なく思っているのだ。

 

「夕飯の後でいい?」

 

「いいよ」

 

「ユノちゃんは、今夜も夕ご飯は外で食べるの?」

 

「ああ」

 

週に3日、ユノは夜になると出かけてゆく。

 

「何をしに行くの?」と訊ねたら、ユノは「バイト」と答えた。

 

何のバイトなんだろう?

 

その時は深く追求しなかった。

 

 

12歳の子供の目でみるユノの身体は、単なる大人の男の人の身体に過ぎなかった。

 

ここで気付くのだ。

 

僕が知っている大人の男の人の身体とは、ユノが基準なのだ。

 

初めて目にしたのもユノが初めてだったし、手で触れたのもユノが初めてだった。

 

今の僕だったら、逞しく美しいユノの身体を目にしたら、とてもとても平静を保てない。

 

抱きつくなんて表現はやさし過ぎる。

 

文字通りむしゃぶりつくだろう。

 

 

(つづく)

 

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