(9)麗しの下宿人

 

 

その花の花弁は純白で、佇まいに上品さがある...ユノの第一印象はこれだった。

 

母の感想はどうだったのか聞いていないけれど、同じような印象を抱いたと思う。

 

階段から滑り落ちそうになった時、ユノの瞳を至近距離で見てしまった僕だから分かったことがある。

 

その花の芳香には毒があり、嗅いだ者は運動機能を失われ身動きができなくなる...そんなイメージも同時に抱いた。

 

ユノの眼に魅入られて、魂ごと盗られてしまいそうだと錯覚した。

 

「お前のようなひ弱な子供などひと口で食べてしまうぞ」といった獰猛さが潜んでいる、というのかな。

 

初対面以降の3年間、心身共に吸引されてしまうような感覚に襲われることはなかった。

 

きっと、階段から落下してしまう恐怖感とセットになったせいで、そう思い込んでしまったところはあるかもしれない。

 

でも...やっぱり思い込みじゃない。

 

あの瞬間を思い出す度、僕の身体の中心がゾクゾクしびれるのだ。

 

ゾクゾクの正体は、「ユノに食べられたい」と望んでいた...そうではないかと思い至ったのは、精通を経験した年の春ごろだったと思う。

 

柔らかい肉球のおかげで足音をたてずに獲物に近づくことができ、襲撃の瞬間に折りたたんで隠し持っていた鋭い爪を出す。

 

ユノとは、爪を隠して暮らしているネコ科の大型獣。

 

そう連想してしまう時がしばしばあった。

 

 

~僕が10歳だった時の話~

 

僕は裏口横の洗い場で、上履きを洗っていた。

 

「チャミ?」

「!!」

 

背後からの呼びかけに、僕の心臓は壊れるかと思った。

 

声の主がユノだと分かっていても、足音も気配も全くなかったことから、隙を狙われてしまったような悔しい気持ちがあった。

 

「何...ユノちゃん?」

 

ユノは膝に穴の開いたデニムパンツと紺色のトレーナーを着ていた。

 

ユノはいつも同じ恰好をしている。

 

トップスについては白シャツかトレーナー、寒い季節はタートルネックセーターで、生地のくたびれ加減でくつろぎ着か外出着かを区別している。

 

大学へ行くといった、下宿屋から半径500mを超えた外出の際は、膝に穴の開いていないデニムパンツや色褪せていないスリムパンツを穿いている。

 

身なりに興味がない風のユノだけど、飾り気のない装いが、もともと持ちあわせている素晴らしい素材を活かしているのだと思う。

(約2年後に初めて、もっと“おめかし”をしたユノを目にすることになった。)

 

 

ユノ曰く、「貧乏学生」なんだそうだ。

 

その割には、バイトに明け暮れている風でもないのが不思議だった。

 

「ユノちゃんはアルバイトしないの?」

 

「してもいいんだけどね~」

 

「『しおくり』はしてもらっていないの?」

 

僕の質問にユノはひと呼吸おいた後に、「まあ...そうかなぁ」と答えた。

 

僕らはユノの部屋でババぬき中で、まさに残り2枚ずつの緊迫状況、僕はすぐに興味を失った(僕が勝った)

 

 

ユノは「一緒に来るか?」と親指で後ろを指した。

(ユノの言うこと成すことがカッコいい)

 

「どこに?」

 

訝しげな表情の僕に、ユノは

「薬局。

今から歯ブラシを買いにいくんだ。

チャミが今、忙しかったらいいんだけど?」と言いながら、僕の手元を覗き込んだ。

 

「上履き?」

 

「うん。

学校の」

 

僕は先ほどから、汚れた上履きを洗っていたのだ。

 

「ずいぶん汚したなぁ」

 

「うん」

 

学年ごとに先ゴムの色が違う、ワンストラップの白キャンバス地の上履きだ。

 

白かったキャンバス地が真っ黒になっており、これを何とかしようと、さっきから僕は焦っていたのだ。

 

「チャミはワンパクなんだなぁ」

 

「...うん」

 

僕が泥んこの中を駆けずり回って遊んだ結果だと、ユノは思っているのだろうか。

 

ユノは僕の手から汚れた上履きを取り上げた。

 

大きなユノの手の中で、僕の上履きはぼろ雑巾のようだった。

 

「ちっさい靴だなぁ。

古い歯ブラシはあるか?

そんなデカいタワシじゃ駄目だ」

 

ユノに求められ、僕は使い古したものBOXから歯ブラシをとってきた。

(使い古したストッキング、タオル、靴下、空き瓶、包装紙...いつか何かの役に立ってくれる物たちだ)

 

ユノは古歯ブラシでゴシゴシと、黒く染まったソールを擦り始めた。

 

僕はユノの手元をじぃっと見つめていた。

 

白い泡がみるみる灰色になっていったのだが...。

 

「やっぱ、無理かぁ...」

 

ユノは舌打ちをすると石鹸水を溜めたバケツに、黒いままのスニーカーを放り込んだ。

 

僕の上履きは泥ではなく、墨汁で汚されていた。

 

「チャミ、復讐しにいくぞ」

 

ユノはしゃがむと、僕の肩をつかんだ。

 

「名前を言え。

チャミの靴に墨汁をかけた奴の名前を」

 

「えっ、どういうこと?」

 

いつもは見上げるばかりのユノの顔が、僕の真正面にあった。

 

すごくすごく綺麗で、綺麗過ぎて僕の背筋がゾクゾクした。

 

たっぷりと墨汁を含ませた筆でひと刷毛したみたいな、ユノのまつ毛とまぶたのライン。

 

「仕返しをしてやるんだ、そいつらに。

1人か?

2人か?」

 

口元には笑みが浮かんでいるのに、目が笑っていない。

 

ユノはふざけているのか、本気なのか...どちらとも取れた。

 

「えっとえっと...4人...」

 

「卑怯だなぁ。

そいつらの家に行って、ボコボコにしてやろう。

目には目を歯には歯を、だ」

 

ユノの眼がギラリと光り、その凄みに僕の呼吸が止まった。

 

「ユノちゃん!

待って!

駄目だよ!」

 

僕は下宿屋の裏門を出ようとするユノの腰にしがみついた。

 

「イジメは駄目だよ!」

 

僕の脳裏に、彼らの頭に墨汁をぶっかけるシーンが浮かんだ。

 

僕の半泣き顔を見たユノは真顔になったかと思うと、ぷっと吹き出したのだ。

 

「?」

 

「ば~か」

 

「??」

 

「嘘。

そんなことするはずないよ」

 

ユノはぽかんとしている僕の頭を撫ぜた。

 

「チャミママに内緒にしていたいんだろ?」

 

「...うん」

 

僕は虚弱だったこともあり、母は元気のない僕に敏感だ。

 

過保護というのとは違う。

 

例えば、僕が転んで擦り傷をこしらえたとしても、「絆創膏でも貼っておきなさい」で済まされる。

 

ところが、僕が学校で嫌な思いをしているとなると話が違う。

 

突き落とされてたんこぶを作ったとなると、母の顔色は変わるだろう...これは僕の想像だ。

(さすがに、そういう経験はない)

 

母のことだから、学校に乗り込んで抗議するだろう。

 

問題の児童の名前を僕から無理やり聞き出して、彼らの家を訪ねるだろう。

 

でも、小柄で優しい顔立ちの母では、怒っていても迫力が足りないし、どの教師も味方にするには皆頼りない者ばかりなのだ。

 

「黙っておいてやるよ」

 

ユノには僕の考えていることはお見通しのようだ。

 

「辛くなったら俺に言いな。

決して俺たちだと分からない方法で仕返ししてやるからな?」

 

「もし仕返しするとしたら、どういうことするの?」

 

「じわじわと恐怖心を植え付けるやつ」

 

「え~、どんな方法?

ユノちゃんは頭がいいから、凄いのを思いつきそうだね」

 

「ははは。

歯ブラシと上履きを買いに行こうか?

あんな真っ黒じゃ、使いもんにならないよ」

 

「...そうだけど...。

おこずかいじゃ足りない...」

 

学校の下駄箱に真っ黒な上履きが収まっているところを、真っ黒な上履きを履いた僕を見るクラスメイトの顔が思い浮かんだ。

 

「ば~か。

俺がチャミに買ってやるの。

9歳の子供に金を払わせるわけにはいかないよ」

 

「僕、10歳だよ」

 

「悪い悪い。

何年生とか年齢とか、俺の目からは子供は子供にしか見えなくってさ。

しっかし、すげぇムカつく話だなぁ」

 

「うん」

 

一緒になって腹を立ててくれる人の存在がありがたかった。

 

僕はユノの半歩後ろを歩いていた。

 

僕の歩幅に合わせて前後するユノの長い脚を目で追っていた。

 

ユノのトレーナーの裾を掴みたかった。

 

何でもない顔を維持するため、我慢していた涙がこぼれ落ちそうだった。

 

僕はとても傷ついていたのだ。

 

「あいつら、僕のことを女っぽいとか言うんだ」

 

ぽろり、と漏らしてしまった。

 

 

(つづく)

 

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