(13)麗しの下宿人

 

 

オメガ...?

 

初めてきく言葉。

 

ユノの深刻そうな表情から、『オメガ』とは良くないことのようだ。

 

ユノは蛇口を閉めた。

 

水音が止んだとたんに蝉の声が耳を襲い、とてもうるさい。

 

しんしんと身体が冷えてきて、歯がカチカチと鳴った。

 

ユノがひっきりなしに、手の平ですくった水を僕のうなじにかけ続けていたせいだ。

 

外はとても暑いのに腕は鳥肌だっていて、うつむくと乳首が小さく固く縮んでいた。

 

「僕...ユノちゃんの言ってること、分かんない」

 

「すぐには分からないさ。

分からなくて当然だ。

分かるはずない」

 

「学校で習ってない」

 

「教えてくれる学校はないよ」

 

「お母さんからそんな話、聞いていない!」

 

ユノはきっと、僕に嘘を教えてびっくりさせようとしているんだ。

 

もうちょっとしたら、「冗談だよ。信じた?ごめん」って言うんだ。

 

そして僕は、「ひどいよ、ユノちゃん!」ってユノの背中を叩く...いつものパターン。

 

今度は蝉の声が遠のいて、ぽちょんぽちょんと蛇口から滴り落ちる雫の音がはっきり耳に届いた。

 

「......」

 

冗談にしてはユノの表情は真剣だし、口元も笑っていない。

 

僕に悪戯を仕掛ける時はきまって、ユノの唇はひくひく震えているのに...。

 

これは冗談じゃない...。

 

怖くなった僕は口を尖らせ、ぷいっとユノから顔を背けた。

 

「お母さんは『オメガ』のこと知ってるの?」

 

ユノは「どうかなぁ...」と言って僕を抱え上げ、浴槽の縁をまたいだ。

 

「オメガ』はとてもとても、珍しいんだ。

だから、知らない人の方が多いと思う」

 

ユノは軽々と運んだ僕を脱衣所で下ろした。

 

「お母さんから『オメガ』の言葉を聞いたことはあるか?」

 

「ううん」

 

「そうだろうな。

自分の子供がまさか『オメガ』だなんて、普通の親は疑わないさ」

 

ユノはひざまずくと、バスタオルで僕を包み込んだ。

 

ユノは僕の濡れた髪と身体をてきぱきと拭き、パンツまで穿かせてくれたので、僕は突っ立っているだけでよかった。

 

「よし、出来上がり!」と、ユノは僕のお尻をペチンと叩いた。

 

「ユノちゃんも濡れてる」

 

ユノの身体から滴り落ちる水で、脱衣所の床が濡れていた。

 

僕もユノの髪と身体を拭いてあげた。

 

「筋肉モリモリ、ムッキムキ」

 

「そうか?

いつも見てるじゃん?」

 

「そうだけど...」

 

昼間見るユノの身体は、夜の脱衣所で目にするものとは全然違うと思った。

 

真っ白い浴室で目にしたユノは、『オメガ』という聞きなれないワードと相まって、白昼夢の登場人物のようだった。

 

反面、夜の入浴後に脱衣所で目にするユノは、日常生活に溶け込んだ「優しいお兄さん」だった。

 

(あれ?)

 

ユノは僕が拭きやすいよう身をかがめてくれていたのだが、僕は彼のうなじに発見したのだ。

 

場所は耳たぶの真後ろで、ユノは首にタオルを引っかけていたし、湯船では僕を後ろから抱きかかえていた為、見つけられずにいた痕だった。

 

「ユノちゃん、ここ。

怪我してる」

 

それは鬱血痕で、ぶつけたり、挟んだりして出来た痣ではなく、どうやってできるのか、誰がどういうつもりで付けるのか、僕は何も知らない年ごろだ。

 

「あ~...」

 

ユノは「ったく」と舌打ちすると、僕が指摘した箇所を撫ぜた。

 

「何かの痣かな...。

痛くないから、大丈夫」

 

「それなら、いいんだけど...」

 

この下宿屋はどこもかしこも暑い。

 

着替え終わった僕らは、ユノの部屋に戻らず階段に腰掛けて、昼の盛りが過ぎるのを待つことにした。

 

「うなじは冷やした方がいい」ということで、保冷剤...氷枕にできるほど、大きなやつ...を包んだタオルを首に巻くことにした。

 

体温が上がると僕のうなじから香りがたちのぼるからだ。

 

その香りのせいで、クラスメイトから臭いと疎んじられ、ユノから顔を背けられたのだ。

 

オメガになると臭くなる...そのワケはまだ、説明してもらっていない。

 

ユノのことだから、僕の理解が追い付くよう順を追って説明してくれるだろう。

 

「お母さんに教えてあげないといけなのかな?

『僕はオメガだよ』って」

 

「ああ。

内緒にはできない」

 

「どうして?」

 

「......」

 

ユノは僕の問いに、どう答えたらいいか迷っているようだった。

 

僕はユノの横顔を穴のあくほど見つめ、彼の答えを待った。

 

ユノは僕の問いにどう答えたらいいか迷っている。

 

これまでのユノの話しぶりや表情から判断すると、不吉な存在にしか思われない『オメガ』。

 

「お母さんの協力も必要になるからだ。

その他の人にも助けてもらわないといけない。

チャミひとりじゃ、どうにもできない」

 

「僕が子供だから?」

 

ユノはゆっくり首を振り、「子供とか大人とか、関係ない」と言った。

 

「大人だったとしても、『オメガ』は多くの人に助けてもらわないといけない。

それも、普通の人よりもたくさんの協力が必要になる。

薬も飲まないといけなくなる」

 

「薬!?」

 

ユノは僕の手をとると、指をからめて握った。

 

僕のふやけた指はまだ戻っていない。

 

「まるで病気みたいだね」

 

僕には身体が弱くて母に苦労をかけてしまった過去がある。

 

せっかく丈夫になったのに、また心配をかけてしまうと思うと悲しくなった。

 

「『オメガ』は病気じゃない」

 

「じゃあ、何なの?」

 

「チャミを傷つけようと、俺は決して思っていないからな。

そこのところは分かってくれ、な?」

 

僕にどう分かりやすく説明してやろうか、話を組み立てていたのだろう。

 

ユノは口をつぐみ、彼の視線はしばらくの間、正面の玄関の戸に向けられていた。

 

外はとても明るいのに、ここはほの暗く風通しが悪い。

 

これから怪談話が始まるみたいで怖くなった僕は、階段を駆け下り玄関の引き戸を開けた。

 

 

世の中には『オメガ』という、3つめの性があること。

 

「3つ目?」

 

「男、女、オメガ。

チャミはオメガだ」

 

「え...!

僕は男じゃないの?」

 

『オメガ』とは、まさか性別に関わるものだとは予想外のことで、頭が真っ白になってしまった。

 

ユノは僕をからかっている...絶対にそうだ。

 

「ちんちん付いてるよ?」

 

「チャミは男さ。

男にも種類があるんだ」

 

「男は男じゃないの?」

 

「その通りなんだけど、血液型にA型とかB型とかあるだろ。

AAとかAOとか...知ってる?」

 

「知らない」

 

「そっか、小6じゃ未だ習ってねぇのか」

 

ユノはバリバリと頭をかくと、「子供に説明するのって難しいなぁ」と呻いた。

 

「もう1回、血液型の話をするぞ。

世の中にはA型とB型がある」

 

「O型は?」

 

「今の話では無視してくれ。

世の中はA型とB型で占められているとする。

ところが、チャミはC型だった」

 

「C型の人なんていないよ」

 

「いないさ。

多くの人が知らないだけで、世の中にはいるんだ。

とてもとても珍しい、血液型だ。

だから、チャミは病気でもないし、男じゃなくなったわけでもない。

ちゃんと人間だ。

ただ違うのは、血液型がとても珍しいC型だってこと。

...オメガとはそういう存在だ」

 

「僕の血液型はB型だよ」

 

「...そうか」

 

ユノはつぶやくと、僕の頭をかき抱いた。

 

「チャミはB型なんだね」

 

僕がふざけて言ったことを、ユノにはお見通しだった。

 

「でも、C型になっちゃった...そういうことだね」

 

ユノは僕が理解しやすいよう血液型を例えにして話をしてくれたが、C型という馴染のない記号を取り上げることによって、生々しさを軽減させようという配慮もあったのだ。

 

僕は男だけど、性別は3つ目の性であるオメガである...正直、あの日は理解ができなかった。

 

オメガとは肉体的に男でも女でもなくなってしまう性別なのだと、さすがにあの日のうちに説明はできなかっただろうと思う。

 

ユノを急かさず、話を聞くべきなんだろうけど、大きな疑問をすぐに解消したかった。

 

「ユノちゃんはどうして分かったの?

僕が『オメガ』だってことを」

 

ユノにそう訊ねた。

 

(つづく)

 

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