「一度オメガになると、死ぬまで『オメガ』だよ」
「......」
公園前の自動販売機まで、とぼとぼとユノの後ろをついて歩いていた。
太陽が西に傾きかけた昼下がり、ユノはジュースを買ってあげると僕を誘った。
喉はカラカラなのに、ジュースなんて欲しくなかったけれど、ユノと離れたくなくて頷いた。
不安に陥れないよう僕の耳元で、優しい口調で説くユノの声をずっと聴いていたかった...そのために嘘泣きしてもいいくらいだった。
そして、聞かされたばかりの『オメガ』について、ユノには訊ねたいことが沢山あった。
ユノの息継ぎの音もかき消してしまう蝉の鳴き声は、まさしく騒音だった。
きっとユノは、静かで暗いあの場所で聞かされる僕を思い、気分を変えるために僕を外に連れ出したのだろうけど。
僕の片手は、ユノのノースリーブTシャツの裾をつかんでいた。
ユノは「ば~か、伸びるだろう」と文句を言いながら、僕に裾を引っ張られるがままでいてくれる。
僕の胸のあたりに、ユノの腰がある。
僕の歩幅に合わせて歩いてくれる。
ビーチサンダルを履いていて、水色に色褪せたデニムの裾が擦り切れていた。
まっすぐな背中。
年の離れた兄弟に見えるかな?
それとも、兄妹に見えるかな?
...でも、僕は男でもない女でもない『オメガ』だから、もしユノと血が繋がっていたら、関係性を何て言えばいいのかな?
「あ~あ。
死ぬまでオメガかぁ...」
ユノは僕のため息を聞き逃さない。
「そうだね。
あそこのポメラニアンが、死ぬまでポメラニアンであるように。
チャミもずっと、オメガだ」
ユノは反対側の歩道を散歩中の、茶色のイヌを顎で指して言った。
「あれはポメラニアンじゃないよ。
あれはシーズーだよ」
「あ~も~。
チャミは細かい奴だなぁ。
どっちだっていいじゃないか」
「同じイヌだけど、種類が違うの!」
「シーズーだったのがポメラニアンに変われないだろ?
犬種がなんであれ、変われないものは変わらない。
そのまんまだ」
「...。
ユノちゃん。
オメガな生活って、どんな風?」
「知りたいだろ?
だから、出来るだけ早くお母さんに報告する必要があるんだ。
それから、お母さんにチャミをお医者さんに連れていってもらう」
「オメガは病気じゃないって言ったじゃん」
「ああ。
病気じゃないけど、身体に変化が現れるんだ。
例えば、香りを出すとか。
他にもいろいろと...」
「えっ!?
他にもあるの!?」
「...残念ながら」
ユノは申し訳なさそうだった。
「...ユノちゃんもついてきて。
病院に」
「それは...お母さんに訊いてみないとな。
俺とチャミは他人同士だから、難しいと思う。
チャミは管理人の息子で、俺は店子だ」
「......」
心細さに支配されていた僕が、「ユノと手が繋ぎたいなぁ...」と思っていた時、歩道の向こうから自転車に乗った高校生3人組が近づいてきた。
部活動帰りらしく、スポーツバッグを前カゴに入れ、会話が弾んでいるのか笑い声がこちらまで聞こえてくる。
「ユノちゃん?」
ユノは僕を荷物みたいに抱えると、歩道から車道へと出た。
シャーっとスピードを落とすことなく、彼らは通り過ぎていった。
彼らは会話に夢中になるあまり、車道へ逃げた僕らに気づいていない様子だ。
「ここは歩道なのにね?」
「あいつらの視界の狭さには、呆れるよ。
1つのことしか出来ないんだな」
ユノは僕を歩道に下ろすと、僕らは歩き出した。
「あいつらの前に立ちふさがって、チャリから引きずり下ろして、叱りつけてもよかったんだけどさ」
「どうしてしなかったの?」
「俺ってさ、喧嘩が超強いんだ。
ぼっこぼこにのしてしまっただろうね」
こぶしをあげるユノを見たことないけれど、「そうだろうな」と僕は思った。
ユノは何年か前に、僕を助けようとヤクザに扮したことがあり、その時の凄みにゾクゾクっとしたし、筋肉質の肉体もはいかにも喧嘩が強そうだ。
そして、出逢いの日に見せた、あの鋭い眼光。
「喧嘩したことあるの?」
テレビドラマで見た乱闘シーンを思い浮かべて尋ねてみると、「あるようなないような」と曖昧な答えが返ってきた。
「あるの?
ないの?
どっち?
血は出た?」
「な~いしょ」
「ケチ」
「近道するぞ」
ユノは僕の身体を再び抱えると、歩道際の茂みをまたいで公園へ侵入した。
「何がいい?
一緒に決めるか?」
「ううん。
コーヒー以外のものなら...」
僕は木陰のベンチに座り、自動販売機でジュースを買うユノの姿を眺めていた。
僕は『オメガ』というとっても珍しい人間で、ユノは『オメガ』が発する香りを嗅ぎつけることのできる珍しい人間。
僕とユノは特別な人間同士、秘密の仲間だ。
胸がくすぐったく、嬉しい感じがする。
同級生たちは、僕は根暗な人間だと見なしているようだけど、実際の僕は単純で、ポジティブな人間なのかもしれない。
気分が暗くならないよう一生懸命、プラスな点を探してみては、僕自身の機嫌を取った。
ユノは手にした缶ジュースの1本を僕に手渡すと、僕の隣にどかっと腰掛けた。
「ねえ、ユノちゃん。
僕はいつまでこれをしていないといけないの?」
首に巻いた保冷剤を指さすと、ユノは「それが溶けるまででいいよ」と言った。
うなじはキンキンと、痛みをともなう程に冷やされている。
「夜とか明日とか、明後日はいいの?」
常にこんなものを巻かないといけない生活を想像すると、ぞっとする。
「ひとりでいる時はしなくていいさ。
でも、外へ出かけるときは、何かを巻いた方がいいね。
カッコ悪いと思うけど...ハンカチとか?」
母の花柄ハンカチを首に巻いた自分を想像して、僕は思いっきり嫌な顔をした。
「じゃあ、衿のあるシャツは持ってる?」
「持ってる...けど、持ってない。
着たくない」
真っ白なポロシャツを1着持っているが、それは父と会う時用に買ってもらったものだった。(結局、その予定は流れてしまい、一昨年の合唱発表会の衣裳として役に立った)
「そっか...。
ちょうど夏だし、タオルを巻いてればいいっか」
「うん、そうする。
ユノちゃんと遊べなくなるのは嫌だから、ユノちゃんといる時はタオルを巻いてる」
「ごめんな~。
俺の鼻がおかしいばっかりに」
今はちょうど夏休みだから、誰かに会ったりする機会は少ないのだけど...。
「...どこかで知ってる人と会うかも会っちゃうかも。
図書館とかお店とかで?」
僕を見つけた時の、彼らの意地悪な笑みを想像してゲンナリした。
「もし会ってしまっても 大したことないさ。
俺が思うに...クラスの奴らみんながチャミの香りに気づいたわけじゃないと思う。
ごく一部の奴...それも、影響力の高い奴が嗅ぎつけてしまい、それを周囲に広めたんだ。
俺ほどじゃないけど、鋭い鼻を持ったやつがたまにいるんだ。
大抵の周囲のやつらは凡人だ。
香りなんて分かってもないくせに、『臭い臭い』って言って、チャミを苦しめたんだよ」
「ふ~ん...」
・
薄着になり、汗をかく夏の盛りのシーズン。
僕のうなじが発散させる“特殊な香り”は暴力を呼ぶことを、身をもって知ったのだ。
プールもどきの水風呂の日から1週間も経たないうちに、だ。
・
下宿屋に向けて僕は全速力で走っていた。
濃い緑が茂る桜の木の家を曲がると、下宿屋の板壁が見える。
「はあはあはあはあ...」
肺を酷使したせいで、呼吸に血の匂いが混じっている。
逃げるように帰宅してきたのには理由があった。
夏休みの宿題をするためと、クーラーの涼を求めて図書館に行った日のことだった。
(つづく)
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