(23)麗しの下宿人

 

僕とユノ、母が居間のテーブルを挟んで座っている。

 

今夜は熱帯夜になりそうだった。

 

夕立ちが降りそうで降らなかった日特有の、ねっとりとした空気だ。

 

風の通り道を作る為、リビングと台所の窓を開け放っていた。

 

今朝、母には「相談したいことがあるんだけど?」と声をかけていた。

 

母もユノも揃って下宿屋に居られる日が、今日だった。

 

僕が図書館にあの男...オメガの匂いを嗅ぎつけられる特異な人間...と出くわした日の翌日になる。

 

母は、「いいわよ。夜でいいよね?」と軽く答えると、バタバタと職場に出掛けていった。

 

何事かと母を身構えさせたくなかったから、ユノが同席することは敢えて伝えなかった。

 

内容は十分過ぎるほど「何事」だったけれども、仕事中に余計な心配事を抱えて欲しくなかっただけだ。

 

夕食時の僕は饒舌で、スープの鉢を倒してしまったりと、そわそわ落ち着かず、いつも通りじゃなかった。

 

僕に伴われてユノが現れたことに、母は驚いていた。

 

「ユノさんも...?

あらたまってなぁに?」

と、軽口ぶった母の表情は、訝し気だった。

 

夕方からつけっぱなしだったTVを消したことで、居間はしんと静まり返り、夏虫の鳴き声が際立った。

 

「室内にいるのでは?」とドキッとするほどその鳴き声が間近から聞こえるのは、1メートル先に迫る隣家の茂みに潜んでいるせいだ。

 

僕はこぶしを正座した太ももに置き、母の目を見られずに俯いていた。

 

まるでガラス窓や壺なんかを割ってしまい、叱られる直前の子供のような光景だ。

 

どっきんどっきん、とても緊張していたけれど、言葉に詰まってしまった時の心配はする必要はなかった。

 

僕はユノの隣に座っているだけでいい。

 

出だしから専門病院での診察を勧めるところまで、ユノが担当してくれる。

 

「あらたまった形になってしまって申し訳ありません。

これからお話することは、僕が気付いたことです。

初めて知る事かもしれませんし、どこかで耳にしたことがあるかもしれない事です」

 

そう切り出したユノは、順を追って話し始めた。

 

 

得体のしれない存在にもかかわらず、僕は『オメガ』を信じていた。

 

僕のうなじから放たれる物質は、顔色の変化や首筋に浮いた青筋、多量な発汗など、明らかにユノの体調に影響を与えていた。

 

そして何より、ユノの言葉だったからだ。

 

ユノが『オメガ』と言ったのだから、『オメガ』なのだ。

 

僕はユノを尊敬している(僕は一人っ子なので、実の兄に対する感情は想像するしかないけれど)

 

母は終始ユノにへばりついている僕のことを、兄に慕う弟のように見ていると思う。

 

『オメガ』というワードを耳にした時、母はどんな反応を示すのだろう。

 

『オメガ』という言葉は、錯覚を超常現象に思い込んだ子供が使いそうな響きを持っている。

 

でも、ユノが同席していること自体が、これからする話が真面目なものである証拠。

 

昼間会った時、ユノは肌の露出の多い恰好をしていたのに、外出着とまではいかないけれど、洗濯したてのTシャツとスリムパンツを身に付けていた。

 

それに対し、僕は寝間着代わりの甚兵衛姿で、真剣な話をするには相応しくなくて、「しまったなぁ」と小さく反省していた。

 

『オメガ』の詳細を知らずにいたおかげで、僕の表情には悲壮感はない。

 

なんだかよく分からないけれど、男でも女でもない3つめの性になってしまい、特定の人を狂わす匂いを放つようになる。

 

(ところで、『性』ってなんだ?

子供が産める産めないの違いなのかな?)

 

 

「お母さんは『オメガ』について、ご存知ですか?」

 

「いいえ」と首を横に振るだろうと予想していた。

 

となると、ユノは僕にしたのと同じように、『オメガとは何なのか』ざっくりとしたものでもイチから説明しなくてはいけない。

 

僕は騙されやすい子供だったから、疑いなく信じたし受け入れた。

 

でも母は大人だから、簡単にはいかないだろうな、と思った。

 

母はハッとした表情を見せ、ユノの質問に即答しなかった。

 

「...知っています」

 

「嘘ー!」

 

母の答えに、僕は大きな声を出してしまった。

 

「お母さん、『オメガ』を知っているの!?」

 

僕はユノの肘をぎゅっと掴んだ。

 

隣のユノを見上げると、彼も驚きでぽかんとした横顔を見せていた。

 

「え、ええ。

知ってます」

 

「お母さんが『オメガ』の存在を知っているとは...驚きました」

 

「もしかして...」

 

母の表情は一転、とても困惑したものになった。

 

「うちの子が...チャンミンが、『オメガ』ってことありませんよね?」

 

「お母さん!?」

 

再び大きな声を出してしまった。

 

「......お母さん、なぜ?」

 

僕もユノも驚かされっぱなしだった。

 

母が『オメガ』の言葉を受けてすぐ、「息子が『オメガ』なのでは?」の結論に至ったことを不思議に思った。

 

「チャンミン...『オメガ』なんですか?」

 

「はい、そうだと思います」

 

テーブルに身を乗り出した格好のまま、母は静止してしまった。

 

「ああ、やっぱり」と思った。

 

『オメガ』とは良くないことなんだ、と。

 

母が『オメガ』の存在を知ったことよりもショックだった。

 

母の固い表情を見ていられなかった僕は、彼女の背後...壁に貼られた画用紙...小1の時母を描いた絵に...視線を向けていた。

 

「そうですか...」

 

母は乗り出した身を起こし、「そうですか...」と繰り返した。

 

ユノの心中にも、「なぜ?」が沢山渦巻いていたのだろう。

 

「あの...お母さんはなぜ、チャンミン君が『オメガ』なのでは?と思われたのですか?

僕は未だ、何も言っていないうちに...?」

 

「そうですよね。

そうお思いになるでしょうね」

 

母はここで言葉を切った。

 

母は青ざめていて、華奢な肩が震えていた。

 

僕の鼓動は早く、蒸し暑さのせいではない汗をかいていた。

 

足はじんじんと痺れていたけれど、張りつめた空気のせいで足を崩すことができない。

 

母の視線は僕らの真後ろのTVにあった。

 

TVボードに飾られた写真立て...入学式に撮影した母と僕の写真...を見ているのかもしれない。

 

何を言うか言わざるか迷いながら。

 

「なぜ私が『オメガ』を知っているかと言うと」

 

母は僕とユノを交互に見た。

 

先ほどとは打って変わって、母の眼には決意がこもっていた。

 

「私が『オメガ』だからです」

 

(つづく)


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