(24)麗しの下宿人

 

母が『オメガ』だって?

 

あさっての方から飛んできたパンチをまともに食らったかのようで、母の言葉が思考回路に到達するまでに時間が必要だった。

 

隣のユノも僕と同様、言葉を失っている。

 

「......」

 

青天霹靂の爆弾発言...僕がとるべき正しい対応とは何だろう?

 

身を乗り出し「ええ~!」と驚きの声を出した方がよかったのかもしれないけど、衝撃が大き過ぎて、そのタイミングを失ってしまった。

 

僕は母の次の言葉を待っていた。

 

「......」

 

母は僕とユノを交互に見た後、もう一度僕の方を見て微かな笑みを漏らした。

 

このカミングアウトは母にとって辛いものなのだろう、その笑みがとても寂しそうに見えた。

 

僕が小さい頃、「父さんはどうして家を出て行ってしまったの?」と訊ねた時の、母の困った表情とそっくりだった。

 

沈黙は続く。

 

「......」

 

足の痺れに耐えかねて斜めに崩すと、内くるぶしに赤い点がぽつんとあった。

 

網戸の隙間から侵入した蚊に刺されたようだ。

 

ユノも何か言ってくれないかな、と救いを求めてそろりとユノの様子をうかがった。

 

上の空のユノの横顔は青ざめていて、熱帯夜によるものか、それとも冷や汗なのか額が汗で光っている。

 

「......」

 

ユノの反応を見る限り、母親がオメガ、息子もオメガ...とても良くない事なんだろうか。

 

にわかに僕の心臓は緊張の鼓動を打ち始めた。

 

大きな失敗に気付いた瞬間のように、かぁっと顔が火照り始めた。

 

怖い言葉は聞きたくないな。

 

「驚いた?」

 

母は沈黙を破った。

 

カクカクと頷く僕に、先ほどまでの悲し気な表情から一転、母はおどけた風に言った。

 

「驚いたでしょうね?」

 

(母は気持ちの切り替えがとても上手い人なのだ。

それくらいタフじゃなければ、問題児ばかり集まるこの下宿人を切り盛りできなかっただろう)

 

「う...ん」

 

やっとで発することができた僕の声は、聞き取れないほど小さかった。

 

「びっくりさせてごめんね」

 

「ううん」

 

母の表情が全然、深刻そうじゃないせいで、一瞬僕は『オメガ』の解釈を誤りそうになったくらいだ。

 

のちに、『オメガ』には人生を送る上で困難な事柄が連続するが、だからといって『オメガ』の人生を嘆いて欲しくないと願う母の優しさだと知った。

 

『オメガ』になってしまった息子の前で涙を流されたりしたら、不幸な身分に陥った自分を悲観してしまうだろう。

 

(...暑い。

僕んちは暑すぎる)

 

こめかみを伝ってきた汗を拭った。

 

せっかくお風呂に入ったのに、僕の全身は汗まみれだ。

 

ノースリーブの麻ワンピースを着た母は、長い髪を1つにまとめ、すっと伸びた長い首(僕によく似ている)には後れ毛1本落ちていなかった。

 

「母さんはうなじを隠さないんだな」と思った。

 

母はいつもきちんとしている。

 

クリーニング工場や多くの職を渡り歩いてきた結果、母の指先は赤らんでいて、節が太い働く手になってしまっている。

 

窓に吊るされた風鈴がかすかに鳴った。

 

微風がよどんでいた室内に、せめてもの涼気を運んでくれた。

 

「お母さんが『オメガ』だから僕も『オメガ』になったの?

 

『オメガ』は遺伝?」

 

「......と言われてるわね」

 

「ホントに?」と、僕はユノの腕を揺すった。

 

「ああ」と、ユノは頷いた。

 

「じゃあやっぱり、お母さんは僕が『オメガ』になることを知ってたんだ。

どうして、教えてくれなかったの?」

 

「チャンミンが『オメガ』になるとは、知らなかったわ」

 

僕の問いに母は否定した。

 

「知らなかった、という言い方は正しくない 正しく言うと、チャンミンが『オメガ』になるとは思わなかった。

 

「僕に黙っていたんだ!」

 

どん、と僕はテーブルにこぶしを打ち付けて母を睨みつけた。

 

冷静な2人にムカついてきたのだ。

 

ここでユノは口を開いた。

 

「『オメガ』はとても珍しい存在だって、話しただろ?

とてもとても珍しいんだ」

 

「そうなの。

私自身がレアケースなのよ。

だからといって、わざわざ教える必要はなかったの」

 

この場で知識がないのは僕だけか。

 

そもそも、公にされていない『オメガ』の存在意義など、12歳が知っていなくて当然。

 

この場で『オメガ』は常に危険と隣り合わせである理由を話したところで、性的に未熟な僕が理解するのは難しい。

 

混乱するだけだ。

 

「ユノさんはいつ、チャンミンが『オメガ』だと分かったのかしら?」

 

「ほんの数日前です」と、ユノは自身を親指で指した。

 

「そうですか...。

気付いてくださったのがユノさんでよかった」

 

「ありがとうございます。

判明が遅くなるといろいろと危険ですから。

出来るだけ早く、診てもらった方がいいです」

 

「そうね」

 

母は壁掛けのカレンダーを見た。

 

「...仕事は変わってもらいます」

 

仕事を休まないといけないほど重要事項なんだな、と暗い気持ちになった。

 

僕の存在をよそに、受診までのスケジュールをとんとん進めてゆく2人に、僕はついてゆけなかった。

 

 

その夜、布団に入った僕は、蛍光灯からぶら下がる紐を見上げていた。

 

『オメガ』であることは、あまり『よくない』ことらしいけれど、とても『珍しい存在』なんだって。

 

天然記念物的な?

 

『オメガ』って何だろう。

 

詳しいことを知りたいな。

 

好奇心が湧いてきたあたり、それほど絶望的になっていないらしい。

 

学校では沈んだ表情で無口、友人はいない。

 

実のところ、僕はポジティブな人間なんだ。

 

また、先の心配をできないあたりが子供らしいとも言える。

 

「あれ?」と疑問に思うことがあった。

 

(僕が『オメガ』だと見抜いたユノを、母は不思議に思わなかったのだろうか?)

 

ひとつのミッションは終えた安心感のおかげで、緊張の数日間の疲れがどっと出た。

 

(疑問はこれから順番に解いていこうっと)

 

タオルケットすら暑苦しくて、蹴飛ばした。

 

僕はいつの間にか眠りについていた。

 

 

(つづく)

 

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