(26)麗しの下宿人

 

「ひっ!」

 

いたずらが見つかった瞬間のように、僕の心臓はぎゅっと縮んだ。

 

眠っていたはずのユノの目がぱっちりと開いていた。

 

ユノの口元はにやついている。

 

「バレた!」と、とっさに思った。

 

「びっくりした?」

 

「び、びっくりした~。

おしっこちびっちゃうかと思ったよ」

 

と誤魔化すのがやっとで、どうやって言い繕ったらいいか考えを巡らす余裕などない。

 

僕の頭の中は真っ白だ。

 

「ははは」

 

ユノはむくり、と身体を起こした。

 

髪は盛大に跳ね散らかしている。

 

「ね、寝たふりしてたでしょ?」と、いつから目覚めていたのか確認してみた。

 

だって、ユノは何事もなかったかのようにケロッとしているのだもの。

 

僕をからかうことが大好きなユノのことだから、「俺にキスしただろ?何でなんで?」と、面白がってしつこく追求しそうだった。

 

もしバレていたとしても、ユノの態度から判断すると、僕のことを気持ち悪がってはいなさそうで安心した。

 

「寝たふりしてて、僕を驚かせようとしてたんでしょ?

意地悪だなぁ」

 

「ん~、今起きたとこ」

 

ユノはふわぁっと大きなあくびをし、目をこすった。

 

「ホントに~?」

 

「腹減ったなぁ、って。

いい匂いがしてきたから自然と目が覚めた。

そしたら、『あれ~、チャミがいる』って思って」

 

「ホントのホントに?」と、念押しで訊いてみた。

 

「ホントは起きてたんじゃないの?」

 

「嘘をつく理由がどこにあるんだよ?

チャミこそ、いつからここに居たんだ?」

 

「部屋に勝手に入ってきちゃってごめん。

朝ご飯を届けにきたんだ」

 

「わざわざ悪いね」

 

「それから...昨日のお礼も言いたかったし」

 

僕はじっくりとユノを観察していたことと、キスをしたことを省いてしどろもどろになって説明をした。

 

「礼なんていらないさ。

チャミの為ならいくらでも力になるよ」

 

ユノはキョロキョロ部屋を見回し始め、タオルケットをめくった下からTシャツを見つけ出すと、すぐに身につけた。

 

「どうだ?

気持ちは落ち着いたか?」

 

「うん」

 

昨晩、母に告白した結果、ものごとが一歩前進してよかったと思う。

 

でも、僕は夢物語を聞かされたような気分でいて、現実味が薄かった。

 

珍種の蝶々を目にしたのは、この世でたった2人だけだ。

 

新種の蝶々とは僕のことだ。

 

僕が『オメガ』だと認めているのはユノと母の2人だけだ。

 

僕がもっと大人だったら、おかしなことを言いだしたユノに「ふざけるな」と怒鳴りつけていると思う。

 

彼ら以外の者から、僕はオメガである』と言い渡されてはじめて、いよいよ実感するのかな。

 

 

朝の洗顔に向かうユノを追って、1階の洗面所まで下りていった。

 

「ユノちゃんが部屋に戻った後に、母さんと話をしたんだ。

母さんが『オメガ』になったのはいつだった?って」

 

僕はトイレのドアにもたれ、用をたすユノに話しかけた。

 

「ああ」

 

「そしたらね、ショチョウが来た時だったって。

ショチョウって何?」

 

水が流れる音と共に、トイレからユノが出てきた。

 

「ショチョウ...ああ、初潮ね。

学校で習わなかったのか?

始めて月経が来ることを言うんだ。

保健体育で、男と女の身体の違い、ってのを教えてくれたはずなんだけど?

初潮とは、女の人が大人の身体になりかける徴だよ」

 

「ああ...そういえば」

 

ユノはざぶざぶと洗顔し、僕が手渡したタオルで濡れた顔を拭いた。

 

「僕は男とも女ともつかない種類の人間なんでしょ?

それじゃあ、僕にも初潮がくるのかな?」

 

「どうかな...」

 

ユノは歯を磨く手を止めた。

 

「多分無いと思うけど...。

オメガの身体の仕組みには詳しくないんだ。

専門の人に教えてもらうといいよ」

 

ユノは口を濯ぎ、水で濡らした手で髪を整えた。

 

後頭部の髪がぺしゃんこになっているのを教えてあげたら、その毛束をガシガシと逆立てた。

 

(ユノならボサボサ頭でもカッコいいんだけどな)

 

次にユノは石鹸を泡立て始めた。

 

ひと晩のうちに生えた髭を剃るのだ。

 

ユノの朝の洗顔のルーティンはだいたい頭に入っている。

 

正面の鏡に映るユノと僕の身長差。

 

僕は小柄でユノはとても背が高いから、僕は常に見上げる格好になる。

 

鏡の横に『私物は部屋で管理してください』と貼り紙がしてある。

 

3人が同時に利用しても余裕ある洗面台は、ユノ専用になっているため、剃刀や歯ブラシ、マウスウォッシュなどの洗面用具が置きっぱなしになっている。

(デンタルフロスもあったりと、ユノはお口のエチケットにうるさい男なのだ。確かに真っ白な歯をしている)

 

この貼り紙は不要だよね、と今さら気付いて剥がした。

 

「母さんも『オメガ』だったなんて...びっくりした」

 

「俺もびっくりしたよ」

 

「なんか...ショック」

 

「ショックねぇ...そうだなぁ。

いろんな意味でショックだろうな」

 

「ユノちゃんは気づかなかったの?

母さんがオメガだってこと」

 

「ああ。

全く」

 

「どうして?

『オメガ』って臭うんでしょ?

母さんからはしなかったの?」

 

「しなかった」

 

「どうして?」

 

ユノは腕を組み「う~ん」と唸った後、「『オメガ』には香りが出る出ないの条件があるんだよ」と言った。

 

「男女は関係ないんだ」と、僕の質問を見越して付け加えた。

 

「薬を飲んでるから?」

 

「そのあたりの話はお母さんに訊いてみなよ。

人それぞれだと思うから、憶測で話せないなぁ。

俺がもっと詳しければ教えてあげられるんだけどね。

チャミは『オメガ』について沢山お勉強しないとな」

 

「勉強~?

嫌だなぁ」

 

「チャミの将来に関わることだから、頑張れ」

 

ユノは剃刀の泡を濯いた。

 

「分からない事だらけで不安いっぱいなチャミを見てると、俺も辛いよ」

 

「...母さん、苦労したのかなぁ」

 

ユノはしょんぼりする僕の両肩をつかみ、僕の目線に合わせてしゃがんだ。

 

「『オメガ』の人たちは、一般的な人たちと比べたら、気を付けないといけない事がいくつかあるんだ。

例えば薬を飲まないといけない、とかね。

持病がある人たちと比べたらいけないけれど、その人たちと同じ感覚だよ」

 

「今度病院に行ったとき、薬を貰えるんだね?」

 

「そうだよ」

 

洗面を終えたユノの目元は、ぼんやりとしていたものから、いつものキリっと魅力的なものに戻っていた。

 

「でね。

母さんに頼んだんだ。

病院に行くとき、ユノちゃんも一緒に付いてきてもらっていいか?って」

 

「いいよ。

早めに教えてくれたら、バイトを休みにするし」

 

「バイトを休んでいいの?

ユノちゃんたら、学校よりもバイトの方が大事なんだ」

 

「俺は学生、学問が大事に決まってるさ。

バイトは学費と生活費を稼ぐためやってんの。

テストの成績が良ければ、OKな授業が多いんだよ」

 

「いいなぁ...僕も大学生になりたい」

 

「ははは。

それならば、せいぜい勉強しなさい」

 

ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「でも、僕んちは貧乏だから、大学は無理だと思う」

 

そうぼやいたら、ユノは呆れた顔をした。

 

「子供のうちから諦めるなよ。

チャミなら大丈夫さ。

それに『オメガ』は...」

 

ユノはそう言いかけたけれど、そのまま口を閉じてしまった。

 

続きが気になってユノに催促したら、「チャミなら大丈夫、大丈夫だよ」と励ますように答えただけだった。

 

「今日どこかにでかけるのなら、首は隠してゆけよ?」

 

「分かってる。

臭う?」

 

ユノは僕のうなじに顔をよせ、手を扇いだ。

 

「だいぶ薄らいできた」

 

「よかった」

 

石鹸の香りと共にユノの顔が近づいて、ドキドキした。

 

 

(つづく)

 

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