「ひっ!」
いたずらが見つかった瞬間のように、僕の心臓はぎゅっと縮んだ。
眠っていたはずのユノの目がぱっちりと開いていた。
ユノの口元はにやついている。
「バレた!」と、とっさに思った。
「びっくりした?」
「び、びっくりした~。
おしっこちびっちゃうかと思ったよ」
と誤魔化すのがやっとで、どうやって言い繕ったらいいか考えを巡らす余裕などない。
僕の頭の中は真っ白だ。
「ははは」
ユノはむくり、と身体を起こした。
髪は盛大に跳ね散らかしている。
「ね、寝たふりしてたでしょ?」と、いつから目覚めていたのか確認してみた。
だって、ユノは何事もなかったかのようにケロッとしているのだもの。
僕をからかうことが大好きなユノのことだから、「俺にキスしただろ?何でなんで?」と、面白がってしつこく追求しそうだった。
もしバレていたとしても、ユノの態度から判断すると、僕のことを気持ち悪がってはいなさそうで安心した。
「寝たふりしてて、僕を驚かせようとしてたんでしょ?
意地悪だなぁ」
「ん~、今起きたとこ」
ユノはふわぁっと大きなあくびをし、目をこすった。
「ホントに~?」
「腹減ったなぁ、って。
いい匂いがしてきたから自然と目が覚めた。
そしたら、『あれ~、チャミがいる』って思って」
「ホントのホントに?」と、念押しで訊いてみた。
「ホントは起きてたんじゃないの?」
「嘘をつく理由がどこにあるんだよ?
チャミこそ、いつからここに居たんだ?」
「部屋に勝手に入ってきちゃってごめん。
朝ご飯を届けにきたんだ」
「わざわざ悪いね」
「それから...昨日のお礼も言いたかったし」
僕はじっくりとユノを観察していたことと、キスをしたことを省いてしどろもどろになって説明をした。
「礼なんていらないさ。
チャミの為ならいくらでも力になるよ」
ユノはキョロキョロ部屋を見回し始め、タオルケットをめくった下からTシャツを見つけ出すと、すぐに身につけた。
「どうだ?
気持ちは落ち着いたか?」
「うん」
昨晩、母に告白した結果、ものごとが一歩前進してよかったと思う。
でも、僕は夢物語を聞かされたような気分でいて、現実味が薄かった。
珍種の蝶々を目にしたのは、この世でたった2人だけだ。
新種の蝶々とは僕のことだ。
僕が『オメガ』だと認めているのはユノと母の2人だけだ。
僕がもっと大人だったら、おかしなことを言いだしたユノに「ふざけるな」と怒鳴りつけていると思う。
彼ら以外の者から、僕はオメガである』と言い渡されてはじめて、いよいよ実感するのかな。
・
朝の洗顔に向かうユノを追って、1階の洗面所まで下りていった。
「ユノちゃんが部屋に戻った後に、母さんと話をしたんだ。
母さんが『オメガ』になったのはいつだった?って」
僕はトイレのドアにもたれ、用をたすユノに話しかけた。
「ああ」
「そしたらね、ショチョウが来た時だったって。
ショチョウって何?」
水が流れる音と共に、トイレからユノが出てきた。
「ショチョウ...ああ、初潮ね。
学校で習わなかったのか?
始めて月経が来ることを言うんだ。
保健体育で、男と女の身体の違い、ってのを教えてくれたはずなんだけど?
初潮とは、女の人が大人の身体になりかける徴だよ」
「ああ...そういえば」
ユノはざぶざぶと洗顔し、僕が手渡したタオルで濡れた顔を拭いた。
「僕は男とも女ともつかない種類の人間なんでしょ?
それじゃあ、僕にも初潮がくるのかな?」
「どうかな...」
ユノは歯を磨く手を止めた。
「多分無いと思うけど...。
オメガの身体の仕組みには詳しくないんだ。
専門の人に教えてもらうといいよ」
ユノは口を濯ぎ、水で濡らした手で髪を整えた。
後頭部の髪がぺしゃんこになっているのを教えてあげたら、その毛束をガシガシと逆立てた。
(ユノならボサボサ頭でもカッコいいんだけどな)
次にユノは石鹸を泡立て始めた。
ひと晩のうちに生えた髭を剃るのだ。
ユノの朝の洗顔のルーティンはだいたい頭に入っている。
正面の鏡に映るユノと僕の身長差。
僕は小柄でユノはとても背が高いから、僕は常に見上げる格好になる。
鏡の横に『私物は部屋で管理してください』と貼り紙がしてある。
3人が同時に利用しても余裕ある洗面台は、ユノ専用になっているため、剃刀や歯ブラシ、マウスウォッシュなどの洗面用具が置きっぱなしになっている。
(デンタルフロスもあったりと、ユノはお口のエチケットにうるさい男なのだ。確かに真っ白な歯をしている)
この貼り紙は不要だよね、と今さら気付いて剥がした。
「母さんも『オメガ』だったなんて...びっくりした」
「俺もびっくりしたよ」
「なんか...ショック」
「ショックねぇ...そうだなぁ。
いろんな意味でショックだろうな」
「ユノちゃんは気づかなかったの?
母さんがオメガだってこと」
「ああ。
全く」
「どうして?
『オメガ』って臭うんでしょ?
母さんからはしなかったの?」
「しなかった」
「どうして?」
ユノは腕を組み「う~ん」と唸った後、「『オメガ』には香りが出る出ないの条件があるんだよ」と言った。
「男女は関係ないんだ」と、僕の質問を見越して付け加えた。
「薬を飲んでるから?」
「そのあたりの話はお母さんに訊いてみなよ。
人それぞれだと思うから、憶測で話せないなぁ。
俺がもっと詳しければ教えてあげられるんだけどね。
チャミは『オメガ』について沢山お勉強しないとな」
「勉強~?
嫌だなぁ」
「チャミの将来に関わることだから、頑張れ」
ユノは剃刀の泡を濯いた。
「分からない事だらけで不安いっぱいなチャミを見てると、俺も辛いよ」
「...母さん、苦労したのかなぁ」
ユノはしょんぼりする僕の両肩をつかみ、僕の目線に合わせてしゃがんだ。
「『オメガ』の人たちは、一般的な人たちと比べたら、気を付けないといけない事がいくつかあるんだ。
例えば薬を飲まないといけない、とかね。
持病がある人たちと比べたらいけないけれど、その人たちと同じ感覚だよ」
「今度病院に行ったとき、薬を貰えるんだね?」
「そうだよ」
洗面を終えたユノの目元は、ぼんやりとしていたものから、いつものキリっと魅力的なものに戻っていた。
「でね。
母さんに頼んだんだ。
病院に行くとき、ユノちゃんも一緒に付いてきてもらっていいか?って」
「いいよ。
早めに教えてくれたら、バイトを休みにするし」
「バイトを休んでいいの?
ユノちゃんたら、学校よりもバイトの方が大事なんだ」
「俺は学生、学問が大事に決まってるさ。
バイトは学費と生活費を稼ぐためやってんの。
テストの成績が良ければ、OKな授業が多いんだよ」
「いいなぁ...僕も大学生になりたい」
「ははは。
それならば、せいぜい勉強しなさい」
ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。
「でも、僕んちは貧乏だから、大学は無理だと思う」
そうぼやいたら、ユノは呆れた顔をした。
「子供のうちから諦めるなよ。
チャミなら大丈夫さ。
それに『オメガ』は...」
ユノはそう言いかけたけれど、そのまま口を閉じてしまった。
続きが気になってユノに催促したら、「チャミなら大丈夫、大丈夫だよ」と励ますように答えただけだった。
「今日どこかにでかけるのなら、首は隠してゆけよ?」
「分かってる。
臭う?」
ユノは僕のうなじに顔をよせ、手を扇いだ。
「だいぶ薄らいできた」
「よかった」
石鹸の香りと共にユノの顔が近づいて、ドキドキした。
(つづく)