(41)麗しの下宿人

 

「暑い~暑い~、なんて暑さだ~♪

かき氷、食べたいなぁ~♪」

 

僕はでたらめな即興唄を小声で口ずさんでいた。

 

「今日も暇~、明日も暇~、なんにもすることな~い♪

友達いな~い♪」

 

下宿屋2階の欄干に腰掛けていた。

部屋の鍵は常に開けっ放しで、ユノとは気安い関係で、あっても、ユノの部屋に無断で入るわけにはいかない。

ここはユノの隣の部屋で、角度的に庭木が邪魔をして通りすべてを見渡すことはできなかった。

枝と枝の隙間を塗って、桜のあるT字路の辺りから目を反らさない。

ユノがいつ帰ってくるか分からないからだ。

 

「僕は早起き~♪

ららら~♪」

 

人通りのない辺りは小鳥の鳴き声がするくらいで、早朝の空気は過ごしやすい適温といえた。

昨夜、生まれて初めての『オメガ』の薬を1錠飲んだ。

体調の変化に注意を払っていたけれど、だるさや気持ち悪さもなんともなかった。

今朝の分は台所のテーブル上にある。

飲み忘れ防止のため、箸入れ脇に置きっぱなしにしておくことにしたのだ。

 

「はやく~、ユノちゃん~、帰ってこないかなぁ~♪」

 

ユノとは昨日、病院で別れた以来だった。

かれこれ30分、バイト先から朝帰りするユノを待ち構えていた。

 

「今日は~何しようかなぁ~♪

あっ!」

 

近所迷惑になるから、押し殺した声量でユノの名を呼んだ。

 

「ユノちゃん!」

 

ユノの視線の矢が、パッとこちらへ放たれた。

僕のところからはユノの表情までは見分けれないけれど、ほころんだように見えた。

ぶんぶんと手を振る僕に応えて、ユノも片手を上げた。

「おかえり」と、口だけをパクパクさせた。

 

「あっ!」

 

この時、僕は身を乗り出し過ぎてしまったようだ。

ぐらりとバランスを崩し、欄干から転落しそうになった。

 

(落ちる!)

 

僕の鈍い運動神経も、命の危険を目の当たりにするとそれなりに機能するようだった。

とっさに両手で欄干にしがみつき、額をしたたかに打ち付けた程度で難を逃れることができた。

 

(び、びっくりした)

 

心臓がバクバク打つ胸をなでおろした。

 

「チャミ!」

 

名前を呼ばれて見下ろした僕は、心底驚いた。

欄干の真下にユノがいたのだ。

僕が欄干から落下しそうになった時、ユノは未だ桜の家の門の辺りにいた。

ところが今この時、ユノは下宿屋の敷地内にいる。

僕の危機を察したユノは通りをダッシュし、高さ1.5メートルの塀をジャンプして乗り越えたということになる。

この間、1秒もなかった。

ユノは僕を助けるために『アルファ』の力を発揮したのだ。

 

「ユノちゃん...凄いね」

 

僕の考えを読み取ったユノは、「もう隠す必要がなくなったから」と照れくさそうに笑った。

 

「朝ご飯は?

用意してあるよ」

「サンキュ。

そっちに行くよ」

 

ユノの姿は玄関のひさしの中へ消え、僕も室内へと頭を引っ込めた。

僕は階段を駆け下り、洗面所で顔を洗うユノの元へと急いだ。

部屋で待っていられなかったのだ。

ざぶざぶ豪快に洗顔するユノの腰に腕を巻き付た...餌をねだって足元にまとわりつく子犬のように...。

 

「......」

 

ユノの腰はがっちりと固く、広い背中は激しく身体を動かしたせいで熱かった。

 

「どうした、チャンミン?

変だぞ?」

「...ユノちゃん、いい匂いがする」

 

バイトのユノは、外出前にコロンか何かを付けて行っているようなのだ。

 

「そう?」

 

ユノはシャツの襟口をくんくんと嗅いだ。

 

「うん、いい匂い。

香水付けてるの?」

「少しだけね」

「ユノちゃんはバイトに行くときお洒落をしていくんだ?」

「夏は汗臭いかもしれないだろ?」

「そんなことないと思うよ」

 

常々、仕事内容が何なのか気になっていたのだ。

夕暮れ時に出かけ、夜明け過ぎに帰宅しているから、夜の仕事だということは分かっている。

夜の仕事といえば、終夜営業のレストランや道路工事の仕事しか思いつけない。

「ユノちゃんのバイトって何?」

「俺のバイト?」

「ユノちゃんってどんな仕事してるの?」

僕は脱衣所まで、金魚のフンのようにユノの後を追いかけて行った。

ユノは「店だよ、酒を出す店」と答えると、両腕をクロスさせ、着ていたシャツを一気に脱ぎ捨てた。

「!」

ユノの裸の背中を目の当たりにして、瞬時に全身の血の巡りがよくなった。

これ以上見ていられなくなった僕は、くるっと180度身体を回転させた。

 

「チャンミン?」

「何でもない!」

熱くなった頬をユノに見られなくて、両手で包み込んで隠した。

「何だよ?」としつこいユノから頑固なまでに背中でガードしているうちに、彼はやっとであきらめてくれた。

「変な奴」

 

『アルファ』と『オメガ』の関係性を聞かされてしまったことで、見慣れていたものに強く意識してしまう。

 

それは決して嫌悪感ではない。

「チャミ、行かないのか?」

着替えがないユノは半裸のまま、自室のある2階へと階段を上っていた。

 

(もう...目のやり場に困るんだよねぇ...)

僕の動揺に気づいていない風のユノが憎たらしい。

逆三角形の背中を追いながら、僕は「ああ、しんどい」とため息をついた。

 

「チャミの分もあるんだ?」

「うん。

一緒に食べようと思って...待ってたんだ」

 

当下宿屋の朝食サービス。

ユノは湯気で曇ったラップを外し、ほのかにまだ温かいおにぎりにかぶりついた。

僕もユノの真向かいに座り、彼の真似をして大口でかぶりついた。

「うまい」

「あははは。

ほら、付いてるよ」

ユノの唇の端に見つけた1粒の米粒をつまみ、極めて自然な流れでパクっと自分の口へ運んだ。

とっさに出てしまった極めて自然な行動だったため、ユノの驚いた表情を見るまで、自分の大胆さに気づいていなかった。

「チャミ...。

俺より年上みたいだな」

慌てて手を引っ込めた僕に、ユノはとっても優しい微笑みを唇の端に浮かべた。

「薬飲んだだろ?」

「うん。

分かる?」

ユノはにじり寄ってくると、僕の首筋に顔を寄せた。

すん、と耳たぶの下で空気が動き、鳥肌がたった。

 

「ああ。

匂わない」

「これでユノちゃんの側にいられるね 」

「ああ。

これまで通りだ」

と、ここでユノは大きなあくびをした。

 

昨日は1日中病院行きに付き添ってくれた上に、日をまたいで働いてきたのだ。

 

「悪い、チャミ。

寝かせてくれ」

「あ...ごめんね」

眠くて仕方がないのに、部屋まで押しかけてきた僕を追い払わずにいてくれた。

ユノはどさっと、敷きっぱなしの布団に仰向けに横たわった。

 

「ここにいてもいい?」

「ここにいても暇だぞ?...」

 

ユノのまぶたはすでに半分閉じられていた。

眠りにつこうとするユノを眺めていたくて、真向かいの壁にもたれた。

「昨日...ユノちゃんはお医者さんと何を話したの?」

「ん~と。

チャミが安心して暮らせるためのノウハウ。

チャミの為に何をしてあげられるか、っていう話し合い。

俺って『アルファ』だろ?

チャミにとって、俺は危険な存在なんだ」

ユノは目をつむったまま言った。

「やっぱ、今まで通りにはいかない」

「お母さんもおんなじこと言ってた」

「だからって、俺はここを出るつもりはないよ」

「うん。

僕んちにずっと住んでて」

「いるよ...」

「風邪ひくよ」

タオルケットをかけてあげようと膝立ちになったとき、目をつむっていたはずのユノの目がぱっちりと開いていた。

「寝てるかと思った」

「俺が見つけたんだ。

チャミが『オメガ』だって...俺が見つけたんだ」

「ふふ、そうだね」

「こっちおいで」

「うん」

ひらひらと僕を誘うユノの手に従った。

こてん、とユノの腕の中に転がり込んだ。

「言っとくけど、俺はロリコンじゃねぇし、そういうんじゃないからな」

ユノは犬のようにワシワシと、僕の頭を撫ぜまわした。

「分かってるよ」

「チャミと話したいことがたくさんある。

ごめん、今は寝かせて。

マジで疲れてるんだ...」

ユノは僕の頭から手をほどくと、そのままぱたりと布団の上にその手を落とした。

すぐにすーすーとユノの寝息。

僕は指の背で、ユノの真っ黒な前髪を梳いた。

カーテンを閉めなくては。

全開にした窓からさんさんと朝日が差し込んでいて、ユノの額が汗で光り始めていた。

今日も暑くなりそうだ。

僕はユノの側からそろりと抜け出て、扇風機のスイッチを入れた。

(つづく)