オメガを隠し続ける学校生活を送るよりも、不特定多数のアルファから身を守ることのできる特別学校で、のびのびと勉学に励めるのは大変魅力があった。
ユノは僕を護ると言ってくれたけれど、そこには「保護者として」の注釈が入るのだろう。
彼と並んで立つと、30㎝の身長差もあって年の離れた兄弟のように見えた。
僕を見下ろすユノの目はいつも、か弱きものを見守る優しい目なのがその証拠だ。
そうじゃないんだよなぁ。
僕が欲しいのはそうじゃないんだよなぁ。
ユノは気づいていないよね。
憧れを持って見上げる13歳の瞳の中に、粘っこい感情が混じっているのを。
ユノが優れた力と知を備えたアルファだからこそ、僕はどうしようもなく彼に惹きつけられてしまうのは当然のことで、出逢いの日、階段から転落しかけた僕を救った瞬間、ユノの獰猛な目にぞくぞくしてしまったのは否定できない事実だ。
あの時すでに、僕の潜在的オメガ...アルファに怯え、服従したくなる特性...はアルファに反応していたのだろうか。
純粋だった僕らの関係は、理性に逆らえない動物的な本能によって歪められるんじゃないかって、不安なんだ。
大人でかっこよくて賢いユノに憧れ、弟のように懐いていた頃に戻りたいなぁと思ったりした。
今さら戻れないって分かってる。
・
初登校の日、母とユノが見送ってくれた。
スクールバスは自宅近くの公園前に指定された。
近所に同じ学校に通う者はいないらしく、バスを待つ生徒は僕一人だった。
そりゃそうだろうな、と思った。
オメガは全人口の0.5%しかいないのだ。
ユノは洗いっぱなしの髪に白のトレーナー、色あせたデニムパンツといった 気の抜けた服装で、さらには片手をパンツのポケットに突っ込み、あくびを噛み殺している。
あらたまった格好で見送られたら、かえって緊張しそうだった。
「行ってらっしゃい」
僕は2人を振り返り、「大丈夫」と頷いてみせた。
ステップを上がると、既にバスに乗り込んでいた在校生たちの注目を一身に浴びた。
小心者で人見知りの僕は、彼らの視線に耐えられなくて、空いているシートを見つけるや否や腰を下ろした。
バスは発車し、僕は窓ガラスに額をくっつけんばかりにして、遠ざかる母とユノの姿を見送ったのだった。
「ふう...っ」
僕はシートに背を預け、堅い革バッグを抱えた。
見知っている駅やショッピングセンター、いくつかの橋を渡り交差点を曲がり、学校やネットのてっぺんしか見たことのない打ちっぱなしゴルフ場を過ぎた辺り以降は、僕の知らない場所だった。
緊張と座席のビニールの匂いで気分が悪くなってきた。
僕はジャケットのポケットから取り出した布切れを、すんと胸深く吸い込む。
それはユノの...アルファの...匂いがたっぷりしみ込んだTシャツを、30センチ四方に切ったものだった。
医師とユノ曰く、いわゆる「マーキング」に近いもので、街中に紛れ込んだアルファ避けになるんだそう。
「さっきの人...アルファだよね?」
「え?」
通路を挟んだ席にいた生徒の一人が話しかけてきたのだ。
その子は色素が薄く、栗色の髪と長いまつ毛の持ち主で、ズボンを穿いているから男子なのかな、と判断した。
「どうして分かったの?」
「君のそれ」
彼は僕が握りしめていた布切れを指さして、「アルファの匂いがする」と言った。
「ええっ!?
分かるものなの?」
「俺らは羊だからね。
狼の匂いに敏感にならなきゃ、食われちゃうよ」
布切れの匂いを嗅いでみたが、ユノの香りしかしない。
「君も何人かのアルファに会っていれば、匂いが分かってくるよ。
今まで何人のアルファと会ったことある?」
「え~っと」
去年の夏、図書館で「アルファらしき男」に腕をつかまれたこと、僕のことを「臭い」と言ってからかったクラスメイトを数に入れて、「3人」と答えた。
彼は「妥当な数か」と言って、無遠慮に僕のシャツの襟を引っ張った。
「な、何すんだ!?」
「違うのか...。
だよなぁ、中1で“番(つがい)持ち”は早いよなぁ」とつぶやく彼は、声変わりしてないようだった。
「『番』って?」
いぶかしげな僕の表情に、彼は呆れた表情を見せる。
「あれ?
教えてもらってないの?」
「うん」
「お前の名前は?」
「お前呼ばわりかよ」と思いながら、名前を告げた。
「ふ~ん。
俺、B。
3年生 よろしく」
Bが僕のうなじを確認した理由が分からないまま、差し出された手を握った。
「それとさ...」
Bは僕にうなじを見せて「俺には『番』は未だいないよ」と言った。
つるんと白い、すべすべのうなじをしていた。
狼に噛まれたりなんかしたら、容易に折れてしまいそうな細い首だった。
「中学生で『番』がいたりしたら大変だからな」
そう愚痴ると、Bは自分の席に戻ってしまった。
次の診察は来週にある。
(番について詳しい説明を受けよう)
・
へとへと疲労困憊で初日を終えた僕は、帰りの道中ずっと眠りこけていたようだ。
運転手に肩をゆすぶられて目を覚まし、お礼もそこそこにバスを降り、身体を引きずるようにして帰宅した。
(ユノだ!)
玄関斜め上の2階からユノのシルエットが片手をあげていた。
勝手口へ回る時間も惜しくて、正面玄関に靴を脱ぎ捨て階段を駆け上がった。
開いた引き戸から廊下へ灯りが漏れていた。
「ユノちゃん!」
長袖Tシャツと膝の開いたデニムパンツを身に付けたユノがいた。
濡れ髪を見るのは久しぶりだった。
オメガになった以降、ユノと混浴するのを避けていたのだ。
僕は構わなくても、ユノがしんどいらしい。
分かっているけど、今日の僕はユノの顔を見るやいないや、抱きついてしまっていた。
「チャミ!」
僕の腕の中で、ユノのウエストは固く締まっていた。
押し付けた耳が、ユノの体温で次第に火照っていった。
いつまでも剥がれない僕に諦めたのか、僕の背の上で浮いていたユノの手はそっと背に落とされた。
「どうした?」
「...何でもない。
ちょっとだけ、こうさせて」
ユノはくすりと苦笑した。
「いいよ」
「今日は大丈夫だと思う。
薬はちゃんと飲んでる」
ここ1か月あまり、僕が放つ体臭は安定していた...はずだ。
「そうみたいだね」
「......」
「......」
沈黙。
(困ったな...)
10秒、20秒と、抱き着いた言い訳を考えているうちに、身体を離すタイミングを失ってしまった。
そして25秒を過ぎた頃、
「!」
突然僕の首筋に...首の後ろに温かく湿った感触が。
(つづく)
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