控えめなノック音の後、ドアの隙間からユノが顔を出した。
「チャミ、帰ろうか?
バイトの時間が迫ってる」
「う、うん」
ユノは多忙な日々の隙間にできる時間を、僕の通院に充ててくれている。
今日の診察はここでおしまい。
残念だけれど、番の話は尻切れトンボになってしまった。
・
「悪かったな、急がせて」
「ううん。
いつもありがとう」
雲の濃さを見る限り、夜までに雨が降り出しそうな空模様だった。
間もなく衣替えの頃なのに、ジャケットを着ていても肌寒かった。
ユノは空を見上げて、「あと15分、てところかな」とつぶやいた。
「雨が降りそうってこと?」
「ああ。
雨が降り出しそうな匂いする」
「凄い。
分かるんだ」
「俺は鼻がいい、って言っただろ?」
「匂いなんてあるの?」
ユノの鼻先はつんと尖っている。
どんな匂いも嗅ぎ取ってやるぞと主張した、大きな鼻の穴をしているわけではないのが不思議だ。
アルファは鋭敏な感覚を持っていても、造形は無駄なものがない。
耳がよいからと言って、団扇を思わせる耳の持ち主ではない。
「ああ」
「どんな匂い?」
アスファルトから埃っぽい匂いが立ち昇った。
雨が降り出したのだ。
「ユノちゃん、凄い!
ほんとに降ってきた」
「走るぞ」
「うん」
僕は首に巻いていたタオルを、頬かむりのように頭からかぶった。
恥ずかしいも何もない。
多くの人たちが僕らと同様、駆け足で駅に吸い込まれていった。
・
車内は蒸していた。
乗客たちの濡れた身体から立ち昇るもので、窓ガラスは白く曇っていた。
僕は膝の上で、処方薬の入ったデイパックを抱えていた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
誰が耳をそばだてているか知れないから、診察室で交わされた内容振り返るわけにもいかない。
近況報告は行きの車内で吐き出し尽くしていて、僕らはそれぞれ物思いにふけりながら電車に揺れていた。
それくらいユノとの接点が減っていた今日この頃だった。
ユノは僕を守ると言ってくれたけれど、実際のところ、彼に守ってもらう機会も減っていたのだ。
平日の昼間はオメガ専門学校に護られている。
僕は出不精だから、休日はほとんど外出しない。
ひとつ不満なのは、図書館に行きにくいことくらい。
でも学校には何千冊もの書籍が揃っているから、不都合はなかった。
アルファやオメガ関連のコーナーも作られている。
貸出中のものが多いあたり、授業で得る以上の知識を欲している生徒たちが多い証拠だ。
とはいえ、世の人々に知られていないということは、それだけオメガに関するレポートが少ないということだ。
(そっか!)
今更ながら気づいた僕は馬鹿だ。
あそこなら、『番』について書かれた本があるはずだ。
英文すらまともに読めない僕には無理そうな論文も、辞書をひきながら理解できるかもしれない
次の授業まで待ちきれない。
明日、図書館に行ってみようと思った。
・
ユノの隣に座ったお姉さんは、彼のカッコよさにどぎまぎして、身を固くしているのがよ~く分かった。
寝不足気味のユノは眠そうで、目がとろんとしている。
「ユノちゃん、寝てていいよ。
駅に着いたら教えたげる」
頭をもたげかけたユノの腕をつついた。
「ごめん。
うとうとしてた。
そういうわけにはいかないよ」
と言って、ユノは立ち上がった。
隣のお姉さんが残念そうな表情をしていたのも見逃さなかった。
最寄り駅まであと3駅となった時、数人が降車し、十数人が乗車してきた。
混雑度がさらに上がった。
充満した香水や汗、タバコやホコリ...ごったまぜになった匂いで気分が悪くなりそうで、僕はタオルに鼻を埋めていた。
空間を求めて乗客たちが車内の中ほどまでなだれこんできた為、僕の両膝は彼の長い足の間に割り込んだ格好になった。
僕は両膝を広げて彼のふくらはぎを押し広げてみたり、彼の膝をくすぐってみたり、いたずらした。
ユノは何でもない表情を装っているけど、必死で笑うのをこらえているから面白かった。
僕も笑い出すのを我慢していた。
降りるべき駅まであと2駅となった時、混雑度がもっと上がった。
僕のいたずらに弓型に細めていたユノの眼が、カッと見開かれた。
「!」
そして勢いよく、背後を振り返ったのだ。
「どうしたの?」
ユノは僕の手首をつかむと、座席から引きはがすように立ち上がらせた。
「えっ?
ユノちゃん?」
密集した乗客たちをかき分け、ドアの側まで半ば引きずるように引っ張っていった。
まさに連行、の言葉そのものだった。
僕らに押しのけられた者たちは、不快な表情を見せていた。
ユノは僕をドア側にひっくり返すと、背後から覆いかぶさった。
彼とドアに挟まれて、押しつぶされそうだった。
「何?
何?
重いよ、ユノちゃん!
どうしたの?」
ユノの急変に追いつけなくて、彼の下から抜け出ようと身じろぎしたところ、
「俺から離れるな」
と鋭い口調で制された。
「どうしたの?」
ユノは僕の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「いる。
アルファだ」
「!!」
「アルファがこの車両にいる!」
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]