(52)麗しの下宿人

 

「アルファがいる!」

 

声量は抑えているものの、それは警戒の鋭さをもったものだった。

『アルファ』の言葉に、僕の背筋がぞわりと怖気が走った。

「怖い!」と思った。

「アルファはとても危険」だと、主治医や学校から何度も何度も、口酸っぱく聞かされていたせいなのか、それともオメガが持つ本能的なものなのか。

“ユノ以外”のアルファが、満員に近いこの車両にいるのだ。

アルファは勘が鋭い。

同属の気配を感じ取ったのかな。

僕はドアとユノの間に挟まれて、じっと身を縮こまっていた。

車内が混雑していて、助かった。

オメガの匂いを嗅ぎつけて、乗客たちを押しのけズカズカと近づくような、乱暴な行為はしにくい。

...でも、冷や汗がとまらない。

ユノの胸が壁となって、僕の視界は完全に奪われている。

 

「ユノちゃん

どこにいるの?

そいつは、どこらへんにいるの?」

 

不安になって、小声で訊ねた。

 

「!」

 

ユノは僕の質問に答えないばかりか、突然僕の喉をつかんだのだ。

僕の首は、彼の大きな手の平の中にすっぽり収まった。

力を込めたら、頼りない僕の首などポキンと折れてしまいそうだった。

ユノの意図が読めない僕は、首だけじゃなく心臓までもが握りつぶされるんじゃないかって。

一瞬、だけど、僕の香りのせいで、凶暴になったユノが僕を窒息死させようとしたんじゃないか、って思ってしまった。

アルファが近くに居ると分かった途端、ユノの慌てっぷりを見れば、そう思ってしまっても仕方がないと思った。

アルファの本能は、アルファだけしか分からない。

極度の緊張のせいで、僕の首筋からオメガの香りがより濃く立ち昇り始めていたのだろう。

 

「チャミ、早く!」

 

そういうことか、と思った。

ユノは手の平でそれを覆っただけだった。

僕は大慌てでバッグの中をひっかきまわし、やっとで取り出したタオルを口元に押し当てた。

 

「我慢してて」

 

ユノは囁いた。

僕は小さく頷いた。

窓の外を眺めたかったけれど、身じろぎすら許されなかった。

降りるべき駅まで、僕はユノの胸に片頬をくっつかんばかりに迫った、彼のポロシャツの柄を、胸ポケットの刺繍や刺繍糸の一本一本を目でたどりながら、時間をつぶした。

いつもの毛羽だった着心地よくくたびれたものではなく、通院の日のユノは、目の詰まったちょっといいシャツを着ている。

 

「降りよう」

「え?」

 

降りるべき駅の1つ手前の駅で、僕たちはホームへ降りた。

それから、下車する乗客たちの為に脇に退いた。

 

『...間もなくドアが閉まります...』

 

発車のアナウンスと共に、ホームで待機していた者たちは、電車に乗り込み始めた。

僕とユノも彼らについて行こうとした瞬間、僕の手は強く勢いよく引っぱられた。

そして、僕らの背後でドアが閉まった。

走り去る電車を見送る間もなく、ユノは僕を抱えるようにして、エスカレーターを駆け下りた。

 

「ユノちゃん!

待って!」

「あと少しだ。

頑張れ」

 

「そういうことか」と、ユノの意図が読めた。

最寄り駅を知られたくないのだ。

追いかけられる危険を避けたのだ。

長い脚の大きなストライドについてゆけず、僕の足はもつれ、半ば宙でばたつかせていた。

大きな男に引きずれてゆく子供。

すれ違う者たちは僕らを目にしても、すいっと目を反らし、足早に歩き去ってしまう。

遠巻きに様子をうかがっていた駅員たちも、僕と目があった途端、元の業務に戻ってしまった。

誰しもがユノに恐れをなして、声をかけられずにいるようだった。

 

「君っ!」

 

ひとり勇敢な中年男性がいたけれど、ユノに一瞥されると、「いや...何でも...」とか、もごもご言って引き返していった。

アルファを恐れるのは、その他大勢のベータたちも同様らしい。

ユノがアルファだと知らなくても...この世の人たちが、アルファ・ベータ・オメガの存在を知らずにいても、アルファが持つ絶対的な何かにひれ伏してしまうんだろう、きっと。

 

(あれ?)

 

てっきり、2、3本ほど電車をやり過ごすだけかと思ったら、気づけば僕らは改札を抜けていた。

雨は上がっており、にわか雨だったようだ

ここから下宿屋まで、歩いて帰るには遠過ぎる。

濡れた路面に反射している太陽も、夕日の光だった。

僕らは駅から遠ざかり、バス停も通り過ぎてしまった。

ユノはようやく、僕の手を離した。

僕の手首に、ユノの指の痕がくっきりと、赤く残っている。

 

「もう大丈夫だ」

 

ずっと怖い顔をしていたユノが、笑顔を見せてくれて、僕の緊張も解けた。

電車のアルファへの恐怖など、ドアが閉まった以降忘れてしまっていた。

ただただ、切羽詰まったユノの剣幕に圧倒されっぱなしだったのだ。

ここまで大慌てすることなのかな、大げさだなぁ、と思ってしまったくらいだ。

 

「チャミ、腹減ってる?」

「まあまあ、かな?

でも」

僕はユノの手を取り、彼の腕時計で時刻を確かめた。

 

「今、4時だよ?」

 

夕飯には未だ早い時刻だった。

 

「牛丼でも食って帰るか」

「今から?」

「ああ」

「時間は?

バイトがあるんでしょ?」

「バイトに行かなければならない」と、診察を中断させてまでして、帰宅を急いだのに。

「今日は休みだってことを忘れてたんだ」

「ええ~」

 

ユノは申し訳なさそうに、眉尻を下げ、「ごめ~ん」とふざけた風に言った。

 

(つづく)