(7)麗しの下宿人

 

~僕が9歳のとき~

 

母を先頭にユノ、僕の順で階段を上がり、ユノの住まいとなる部屋に向かっていった。

 

2階廊下には5つのドアが並んでいて、これらの部屋が全て埋まることはもうないだろう。

 

だってこんなにも古いんだもの。

 

でも、どれだけ愛情込めて手入れされてきたかを知っているから、そう酷いものじゃないと思うんだけどなぁ。

 

見る人がその気になって見れば、窓ガラスはピカピカだし、部屋の鍵は住人が変わる度交換している(窓枠は木製のため、隙間風が酷い)

 

切れかけてパカパカしている電球もない。

 

すり減ってつやつやとした廊下の木床は、一歩ごとにみしみし音がするけれど。

 

「あれ?

ここじゃなかったですか?」

 

ユノは廊下の真ん中あたりで立ち止まり、そこを通り過ぎて先へと案内する母を呼び止めた。

 

「もっといいお部屋を、と思いまして」

 

先日引っ越していった下宿人のひとりは、大学卒業後もここに留まる予定でいたのに、他にいいところを見つけたからと、急きょ引き払うことになった。

 

その下宿人が使っていた部屋を、これからユノが暮らす部屋に割り振ると決めた為、午前中母と僕が掃除をしていたのだ。

 

「以前、内見にいらっしゃった時のお部屋より、いい部屋ですよ」

 

「...そうですか」

 

ユノの困った表情に母は、「お家賃は変わりませんよ」と笑って彼を安心させた。

 

「何でしたら、2階全部使っていただいてもいいくらいです」

 

母の本気とも冗談ともつかない言葉に、ユノは何と答えたらいいのか困ったようで、うなじを撫ぜていた。

 

快活な人物に見えたけれど、実は心のガードが固くて、僕みたいに人見知りなんじゃないかなあ、と思った。

 

母に対して礼儀正しくも親し気に接しているから、そうとは分かりにくいけれど。

 

僕にはすぐに分かった。

 

ユノという人は、一度心を許せばとても懐っこくなる人だって、この日のうちに知ったのだ。

 

「鍵は古典的なんですよ。

今どき...これです」

 

母は新品ピカピカの鍵をポケットから出した。

 

「中からは閂、外からは南京錠になります。

時代遅れでごめんなさいね」

 

ユノは母から鍵を受け取ると、目の高さまで持ち上げてそれをまじまじと見つめた。

 

「いえ。

味があって、僕は好きですよ」

 

視線を鍵から母へ移し、にっこりと笑った。

(多分、その時の母はユノにメロメロになったと思う)

 

「味があるって...うまいこと言いますね。

でも...そう言っていただけて光栄です。

それから...この戸なんですけど」

 

我が下宿屋は廊下が狭いこともあって、すべて引き戸タイプになっている。

 

経年劣化の末、柱や桟がねじれるようにわずかずつ歪み、癖の強い戸があちこちあるのだ。

 

「ちょっと建付けが悪いのですが...こうコツをつかめば...」と、母は引き戸をガタガタとさせた。

 

「ほら、開きます」と、すっと戸が開いたことに、母はホッとした表情をしていた。

 

ここで開かなかったら、大事な下宿人が逃げてしまうかもしれないと、焦りの大汗をかいていたのだと思う。

 

母はさっと、生え際を手の甲で撫でつけていた。

 

「取りかえた方がよいのですけど...」

 

母だけじゃなく、僕までも申し訳ない気持ちになった。

 

古くてすみません、って。

 

「いえ。

このままで構いませんよ。

戸の上をカンナで削るといいかもしれません」

 

ユノは引き戸を大きな手で撫ぜた。

 

「凄いですね。

このドア、全部本物の木でできてますよ」

 

ユノは室内と外を出たり入ったりしながら、戸の鴨居の辺りをチェックしながら言った。

 

背が高いため鴨居にぶつけないよう、頭をかがめている。

 

次はしゃがんで、敷居を指でなぞった。

 

「昔の造りだから、戸車もなし。

今どきのドアは合板製がほとんどです。

このドアは素朴に作られてるから、修理がしやすいと思います」

 

「素朴!」

 

ユノの言葉の選び方が面白かったらしく、母は吹き出した。

 

「こちらに工具箱はありますか?」

 

「ええ、あります。

カンナもあったと思います。

さびているかもしれませんけど」

 

祖父は器用な人で、専門業者を呼ばずとも自らの手で建物の手入れをしていた。

 

大抵の工具は揃っているはずだ。

 

「僕でよければ、直しますよ」

 

「ホントに!?」

 

僕は嬉しさのあまり、驚きの声を出していた。

 

今までだんまりだった僕が言葉を発したことで、「おっ」という風にユノの表情が動いた。

 

(わっ!?)

 

僕は焦って口を覆った。

 

口を塞いだけど、僕の瞳のキラキラは隠せていなかったと思う。

 

「ホントだよ。

後で直すつもりだ。

ここは僕の部屋になるのだからね」

 

ユノの目がきゅっと細められた。

 

斜めに差し込む午後遅くの日光がまぶしかったらしい。

 

子供のくせに僕は、目を細めたユノをキツネみたいに可愛いと思ってしまった。

 

「こちらがユノさんの部屋です」

 

今日の午前中、母と僕が掃除をしたこの部屋は住宅用洗剤のレモンの香りがした。

 

ユノはキャップを脱ぐと、「へぇ...いい部屋ですね」とつぶやいた。

 

さらさらの前髪がキャップからこぼれ落ちた。

 

ショルダーバッグを床に下ろすと、窓枠に腰掛け、「洗濯物も干せますね」と感心した。

 

欄干の真上に物干し竿がぶら下がっている。

 

次に窓際を離れると、押し入れの中を覗き込んだ。

 

「そういえば...ユノさん、お布団は?」

 

母と僕が共通して心配していたことだ。

 

「ですよね。

こっちに来てから調達するつもりでいました」

 

着の身着のままって、ユノみたいな人を言うのだろう。

 

純粋に潔いなぁ、と思った。

 

「布団がなければ困りますよね。

近くにホームセンターがありますよ」

 

「よかった。

今から行ってきます。

道を教えてくださいませんか?」

 

「うちの子が案内します」

 

「えっ、僕!?」と、僕は自身の鼻を指さした。

 

「チャンミンしかいないでしょう?」

 

ユノは僕に近づくと膝まづき、僕と水平に目を合わせた。

 

「一緒に行ってくれる?」

 

(あ...まただ)

 

ユノの真っ黒な瞳が間近に迫ったことで、魅入られる、というか、圧倒される感覚に襲われた。

 

階段で助けてもらった時と同じ感覚。

 

(ユノと過ごす時間が増えるうち、慣れてきたのか、この感覚を覚える機会は減っていった)

 

「う、うん。

いいよ」

 

僕は、急に役目を振られて戸惑っている風を装っていた。

 

本当はとても嬉しかったのだ。

 

新しい下宿人に興味があったし、僕のことにも興味を持ってもらいたいと思ったのだ。

 

人見知りの僕にとって、初めてのことだったと思う。

 

僕はユノを待たずに、無言で部屋を出ると、裏口まで走って靴を履いた。

 

玄関までまわって戻ると、既にユノはそこで僕を待っていた。

 

「えっと...こっち」

 

僕は門扉を出ると、通りの右手...桜がある家の方角を指さした。

 

「そんなに遠くない」

 

そっけない態度は、道案内する責任から生まれた緊張によるものだ。

 

「チャンミン君」

 

後ろから名前を呼ばれ、後ろを振り向くとずっと後ろにユノがいた。

 

(あれ?)

 

「君は足が速いね」

 

「あ...」

 

ユノは小走りして僕に追いついた。

 

『案内をする』とは、先に立って歩くものだと真面目にとらえていた。

 

それから、大人の男の人は歩くのが速い。

 

子供の足は遅いと思われたくなくて、がむしゃらに足を動かしていた。

 

早歩きだったのが、いつの間にかスピードアップしていて、ついには小走りになっていたのだ。

 

丈夫になったとはいえ、僕は根本的にもやしっ子だ。

 

息切れしかけており、この調子じゃあ目的地までもたないかも、と思いかけていたところだった。

 

「俺って歩くのが遅いんだ」

 

ユノはそう言って笑い、キャップを脱ぐと、前髪をかき上げてからまたかぶり直した。

 

母の前では、『僕』と言っていたのが、『俺』に変わっていた。

 

「男らしいなぁ」と単純に思ってしまった。

 

男同士、2人きりになったから、よそゆきの顔でいる必要がなくなったんだ。

 

「...速くなんて...ないよ」

 

徒競走ではいつもビリな僕だけど、お世辞であってもユノにそう言ってもらえて嬉しかった。

 

「せっかくだから、一緒に歩こう」

 

「え~」

 

隣に並んで歩くとなると、会話をしなくちゃいけなくなる。

 

でも、何を話したらいいか分からないから困ってしまった。

 

そうしたら、ユノは言った。

 

「長旅で疲れてるしさ。

俺、けっこう無口なんだ。

気を遣わなくていいよ」

 

「?」

 

「今日はまだ1日目。

質問攻めと自分語りは明日以降にしよう」

 

黙ってていいよ、と言われて、すとんと肩の力が抜けた。

 

 

(つづく)

 

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