~僕が9歳のとき~
母を先頭にユノ、僕の順で階段を上がり、ユノの住まいとなる部屋に向かっていった。
2階廊下には5つのドアが並んでいて、これらの部屋が全て埋まることはもうないだろう。
だってこんなにも古いんだもの。
でも、どれだけ愛情込めて手入れされてきたかを知っているから、そう酷いものじゃないと思うんだけどなぁ。
見る人がその気になって見れば、窓ガラスはピカピカだし、部屋の鍵は住人が変わる度交換している(窓枠は木製のため、隙間風が酷い)
切れかけてパカパカしている電球もない。
すり減ってつやつやとした廊下の木床は、一歩ごとにみしみし音がするけれど。
「あれ?
ここじゃなかったですか?」
ユノは廊下の真ん中あたりで立ち止まり、そこを通り過ぎて先へと案内する母を呼び止めた。
「もっといいお部屋を、と思いまして」
先日引っ越していった下宿人のひとりは、大学卒業後もここに留まる予定でいたのに、他にいいところを見つけたからと、急きょ引き払うことになった。
その下宿人が使っていた部屋を、これからユノが暮らす部屋に割り振ると決めた為、午前中母と僕が掃除をしていたのだ。
「以前、内見にいらっしゃった時のお部屋より、いい部屋ですよ」
「...そうですか」
ユノの困った表情に母は、「お家賃は変わりませんよ」と笑って彼を安心させた。
「何でしたら、2階全部使っていただいてもいいくらいです」
母の本気とも冗談ともつかない言葉に、ユノは何と答えたらいいのか困ったようで、うなじを撫ぜていた。
快活な人物に見えたけれど、実は心のガードが固くて、僕みたいに人見知りなんじゃないかなあ、と思った。
母に対して礼儀正しくも親し気に接しているから、そうとは分かりにくいけれど。
僕にはすぐに分かった。
ユノという人は、一度心を許せばとても懐っこくなる人だって、この日のうちに知ったのだ。
「鍵は古典的なんですよ。
今どき...これです」
母は新品ピカピカの鍵をポケットから出した。
「中からは閂、外からは南京錠になります。
時代遅れでごめんなさいね」
ユノは母から鍵を受け取ると、目の高さまで持ち上げてそれをまじまじと見つめた。
「いえ。
味があって、僕は好きですよ」
視線を鍵から母へ移し、にっこりと笑った。
(多分、その時の母はユノにメロメロになったと思う)
「味があるって...うまいこと言いますね。
でも...そう言っていただけて光栄です。
それから...この戸なんですけど」
我が下宿屋は廊下が狭いこともあって、すべて引き戸タイプになっている。
経年劣化の末、柱や桟がねじれるようにわずかずつ歪み、癖の強い戸があちこちあるのだ。
「ちょっと建付けが悪いのですが...こうコツをつかめば...」と、母は引き戸をガタガタとさせた。
「ほら、開きます」と、すっと戸が開いたことに、母はホッとした表情をしていた。
ここで開かなかったら、大事な下宿人が逃げてしまうかもしれないと、焦りの大汗をかいていたのだと思う。
母はさっと、生え際を手の甲で撫でつけていた。
「取りかえた方がよいのですけど...」
母だけじゃなく、僕までも申し訳ない気持ちになった。
古くてすみません、って。
「いえ。
このままで構いませんよ。
戸の上をカンナで削るといいかもしれません」
ユノは引き戸を大きな手で撫ぜた。
「凄いですね。
このドア、全部本物の木でできてますよ」
ユノは室内と外を出たり入ったりしながら、戸の鴨居の辺りをチェックしながら言った。
背が高いため鴨居にぶつけないよう、頭をかがめている。
次はしゃがんで、敷居を指でなぞった。
「昔の造りだから、戸車もなし。
今どきのドアは合板製がほとんどです。
このドアは素朴に作られてるから、修理がしやすいと思います」
「素朴!」
ユノの言葉の選び方が面白かったらしく、母は吹き出した。
「こちらに工具箱はありますか?」
「ええ、あります。
カンナもあったと思います。
さびているかもしれませんけど」
祖父は器用な人で、専門業者を呼ばずとも自らの手で建物の手入れをしていた。
大抵の工具は揃っているはずだ。
「僕でよければ、直しますよ」
「ホントに!?」
僕は嬉しさのあまり、驚きの声を出していた。
今までだんまりだった僕が言葉を発したことで、「おっ」という風にユノの表情が動いた。
(わっ!?)
僕は焦って口を覆った。
口を塞いだけど、僕の瞳のキラキラは隠せていなかったと思う。
「ホントだよ。
後で直すつもりだ。
ここは僕の部屋になるのだからね」
ユノの目がきゅっと細められた。
斜めに差し込む午後遅くの日光がまぶしかったらしい。
子供のくせに僕は、目を細めたユノをキツネみたいに可愛いと思ってしまった。
「こちらがユノさんの部屋です」
今日の午前中、母と僕が掃除をしたこの部屋は住宅用洗剤のレモンの香りがした。
ユノはキャップを脱ぐと、「へぇ...いい部屋ですね」とつぶやいた。
さらさらの前髪がキャップからこぼれ落ちた。
ショルダーバッグを床に下ろすと、窓枠に腰掛け、「洗濯物も干せますね」と感心した。
欄干の真上に物干し竿がぶら下がっている。
次に窓際を離れると、押し入れの中を覗き込んだ。
「そういえば...ユノさん、お布団は?」
母と僕が共通して心配していたことだ。
「ですよね。
こっちに来てから調達するつもりでいました」
着の身着のままって、ユノみたいな人を言うのだろう。
純粋に潔いなぁ、と思った。
「布団がなければ困りますよね。
近くにホームセンターがありますよ」
「よかった。
今から行ってきます。
道を教えてくださいませんか?」
「うちの子が案内します」
「えっ、僕!?」と、僕は自身の鼻を指さした。
「チャンミンしかいないでしょう?」
ユノは僕に近づくと膝まづき、僕と水平に目を合わせた。
「一緒に行ってくれる?」
(あ...まただ)
ユノの真っ黒な瞳が間近に迫ったことで、魅入られる、というか、圧倒される感覚に襲われた。
階段で助けてもらった時と同じ感覚。
(ユノと過ごす時間が増えるうち、慣れてきたのか、この感覚を覚える機会は減っていった)
「う、うん。
いいよ」
僕は、急に役目を振られて戸惑っている風を装っていた。
本当はとても嬉しかったのだ。
新しい下宿人に興味があったし、僕のことにも興味を持ってもらいたいと思ったのだ。
人見知りの僕にとって、初めてのことだったと思う。
僕はユノを待たずに、無言で部屋を出ると、裏口まで走って靴を履いた。
玄関までまわって戻ると、既にユノはそこで僕を待っていた。
「えっと...こっち」
僕は門扉を出ると、通りの右手...桜がある家の方角を指さした。
「そんなに遠くない」
そっけない態度は、道案内する責任から生まれた緊張によるものだ。
「チャンミン君」
後ろから名前を呼ばれ、後ろを振り向くとずっと後ろにユノがいた。
(あれ?)
「君は足が速いね」
「あ...」
ユノは小走りして僕に追いついた。
『案内をする』とは、先に立って歩くものだと真面目にとらえていた。
それから、大人の男の人は歩くのが速い。
子供の足は遅いと思われたくなくて、がむしゃらに足を動かしていた。
早歩きだったのが、いつの間にかスピードアップしていて、ついには小走りになっていたのだ。
丈夫になったとはいえ、僕は根本的にもやしっ子だ。
息切れしかけており、この調子じゃあ目的地までもたないかも、と思いかけていたところだった。
「俺って歩くのが遅いんだ」
ユノはそう言って笑い、キャップを脱ぐと、前髪をかき上げてからまたかぶり直した。
母の前では、『僕』と言っていたのが、『俺』に変わっていた。
「男らしいなぁ」と単純に思ってしまった。
男同士、2人きりになったから、よそゆきの顔でいる必要がなくなったんだ。
「...速くなんて...ないよ」
徒競走ではいつもビリな僕だけど、お世辞であってもユノにそう言ってもらえて嬉しかった。
「せっかくだから、一緒に歩こう」
「え~」
隣に並んで歩くとなると、会話をしなくちゃいけなくなる。
でも、何を話したらいいか分からないから困ってしまった。
そうしたら、ユノは言った。
「長旅で疲れてるしさ。
俺、けっこう無口なんだ。
気を遣わなくていいよ」
「?」
「今日はまだ1日目。
質問攻めと自分語りは明日以降にしよう」
黙ってていいよ、と言われて、すとんと肩の力が抜けた。
(つづく)
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