(6)麗しの下宿人

 

~僕が9歳のとき~

 

3月の卒業シーズン。

 

2人の下宿人が大学卒業のため、ここを引き払っていった。

 

その数日後、入れ替わりで新しい下宿人がやってくることになっている。

 

僕は母と一緒に、空き室になったばかりのその部屋の掃除をしていた。

 

部屋なら他にいくらでもあったが、この角部屋は一番日当たりがよく、他の部屋より2畳ほど広い。

 

三角巾で髪をまとめた母は、押し入れの戸を開け放ち、固く絞った雑巾で中段棚と床を拭いていた。

 

空き部屋が出る度、掃除をする母を手伝っていたから、指示がなくてもすべきことは分かっていた。

 

「チャンミン、届かないところは無理しないでね。

落ちちゃうからね」

 

「大丈夫だよ」

 

窓の外には欄干があるから、落下の危険は少ない。

 

(ユノがよく腰掛けて漫画本を読んでいるところ。体育座りをした僕ならば、すっぽりとおさまるミニサイズベランダ、といったところ)

 

窓ふき担当の僕は窓枠にまたがり、濡らした新聞紙を丸めたものでガラスを磨いたのち、タオルで乾拭きした。

 

この部屋の住人はヘビースモーカーだったらしく、タオルがヤニで茶色く汚れた。

 

「次はどんな人?」

 

新しい下宿人について、母に訊ねた。

 

変な人だったら嫌だなぁと思ったからだ。

 

下手くそなギターをかき鳴らす人、トイレの使い方が汚い人、女の人をしょっちゅう連れ込んで喧嘩が絶えない人、爬虫類を飼っていた人、借金取りが怒鳴り込んできた人...僕が知っているだけでも、これだけのバリエーションの人々が暮らしてきた。

 

母は白い割烹着姿で、僕も母手製のチェック柄のエプロンをしていた。

 

「今年も大学生よ。

好青年といった感じ」

 

「コーセイネンって?」

 

「爽やかで明るい...友達にしたくなるような人っていう意味」

 

「へぇ...」

 

正直、下宿人と僕との接点はほとんどないと言っていい。

 

僕みたいな子供に話しかけてくる人も滅多におらず、「ここんちの子か。お手伝いをよくする子だな」程度の認識だと思う。

 

「変な人だと嫌だなぁ」と思ったのは、掃除担当の僕の仕事を増やされたり...いや、僕よりも母に迷惑をかけるような行いの人だと、困るのだ。

(「愛想のないガキだな」とも思っていそうだ)

 

困り者の代表格は、家賃の滞納だ。

 

こんなオンボロアパートを選択せざるを得ない人々は、大抵は金銭的な問題を抱えている。

 

毎月末、母は電卓を叩いてはため息をついている。

 

何カ月経っても銀行に振り込まれない家賃、督促に出向いてものらりくらり、時によっては逆ギレ...追い出そうにも、女性による最後通牒は凄みが足りない。

 

こういう時に、男の人が...父なり兄なり...が居てくれるといいのだけど...。

 

強面だった祖父は脳梗塞を患い、痴呆も加わって、我が家に戻ってくることはもう無いだろう。

 

新しい下宿人は『好青年』というから、どうか母の第一印象通りの人物であって欲しい!

 

「新しい人は何時に来るの?」

 

「3時くらいですって。

ご実家からここまで5,6時間はかかるそうよ」

 

「へぇ、遠くに住んでいるんだね」

 

通りの角に桜の木を植えた家があり、春になると薄桃色の花びらがここまで飛んでくる。

 

ざ~っと春風が吹いた。

 

開けた窓から舞い込んだ数枚が、日焼けした畳の上にひらりと落ちた。

 

僕は窓から身を乗り出し、桜の木が植わっている方角を見た。

 

「荷物は?」

 

「家財道具が前もって送られてくるでもなし、車に積んでくるのかしらねぇ」

 

母は汚れた雑巾を茶色く濁ったバケツに入れると、「よいしょ」っと立ち上がった。

 

20歳で僕を産んだ母はまだ若いのに、仕事のし過ぎで腰を痛めている。

 

「掃除はこれくらいでよいでしょう。

窓は開けっぱなしでいいわ。

私たちはお昼にしましょうか?」

 

「うん」

 

「久しぶりに出前をとる?」

 

「いいの?」

 

「チャンミンがお手伝いしてくれたご褒美よ」

 

僕は「やった~」と飛び跳ね、母の手からバケツを奪った。

 

9歳になる頃には、突然の発熱で母に心配をかけることもほとんど無くなっていて、丈夫な身体になれたことが嬉しかったのだ。

 

「どんな人か楽しみだね」

 

こんなことを言っているけれど、人見知りの激しい僕は、物陰からこっそりと覗うんだろうなぁ。

 

12歳になった今も昔も、僕はすかした態度の可愛くない子供ではあるが、当下宿屋の住人となると、興味を覚えずにはいられない。

(案外、可愛らしい性格なのでは...?)

 

「そうね。

最後の下宿人になるかもしれないわね」

 

母は寂しそうにそう言った。

 

母はこの先の言葉を続けなかったが、「古くて時代遅れのここを好んで住む人なんて、この先現れるのかしら」と思っていただろうな。

 

「じゃあさ。

新しい人にずーっと住んでもらえば?

好青年なんでしょ?

学校を卒業しても、仕事をするようになってもずーっと、ここに住んでもらうの。

そうすれば、ずーっと家賃をもらえるよ」

 

なんと子供らしい、単純な思いつきだろうか。

 

 

新しい下宿人は手荷物ひとつでやってきた。

 

2時半頃から、僕は2階の空き部屋から通りの角を見張っていた。

 

タクシーでやってくるかと思ったら、彼は徒歩でやってきた。

 

すらっとした、若い男の人が桜の木の陰から姿を現わすなり、僕はひょいっと窓の下にしゃがみ込んだ。

 

そろそろ到達した頃かな、と見計らった僕は頭を乗り出し、空き部屋から真下を見下ろした。

 

門扉と玄関までの間に、2メートルばかりの角道があり、その半分は玄関のひさしに隠れて見えない。

 

(あ~あ)

 

ワンテンポ遅れたようで、彼の姿をキャッチするタイミングを逃してしまった。

 

それならば...と、僕は部屋を出て階段を途中まで下りた。

 

そして玄関が見えるか見えないかの所で腰を下ろした。

(僕からの視界ではそうかもしれないが、玄関にいる者からは、僕の膝から下までが丸見えになってしまっているとは、子供の頭では気づけていない)

 

「ごめんください」

「いらっしゃい」

 

母は奥から顔を出すと、いそいそと新しい下宿人を出迎えた。

 

声がワンオクターブ高いのは、イケメンで好青年だからか。

 

(よく見えないな)

 

今の位置だと、彼の腰から下しか見えない。

 

僕は1段、また1段と下りてゆき、ようやく彼の顔を拝めることができた。

 

(へぇ...)

 

僕は素早く観察した。

 

黒いキャップをかぶり、薄手のジャンパーとパーカー、淡色のデニムパンツと軽装で、肩に荷物で膨らんだショルダーバッグをかけている。

 

「息子さんですか?」

 

(僕のことだ!)

 

慌てた僕は、後ろ向きに階段を上ろうとしたけれど、靴下のせいで滑り落ちそうになった。

 

「危ない!」

 

母よりも、好青年の方が1歩早かった。

 

たったの2歩だけで僕のところまで駆けあがると、僕をキャッチした。

 

僕の間近に彼の顔があり、真正面から目が合った。

 

(へぇ...)

 

ヒヤリとしたばかりなのに、まじまじと彼の顔を観察する余裕はあったらしい。

 

(イケメンだぁ...)

 

ボキャブラリーが少なくて、うまく言い表すことが出来ないけれど、とにかくイケメンだった。

 

顔が整っているのは、窓から彼の姿を眺めていた時、遠目からでも分かった。

 

印象的だったのは、アジア人なのに眼の色が真の意味で、真っ黒だったことだ。

 

とっさに、吸血鬼みたいって思ってしまった(もちろん、吸血鬼なんて見たことはない)

 

瞳の奥に動物的なものを秘めている、っていうのかな?

 

だから、瞬間移動みたいに僕の目の前まで移動できたのかな、って。

 

「どこか、ぶつけたりしていないか?」

 

1段分だけ、お尻を打ち付けてしまっただけで済んだ。

 

(そのお尻はジンジンした)

 

「...うん」

 

僕は頷いた。

 

「もう...チャンミンったら、おっちょこちょいなんだから...」

 

「すみません...靴のままでした」

 

彼は僕を階段下に下ろすと、そこから一足で玄関のたたきに戻った。

 

「いえいえ、構わないんですよ」と母は恐縮がり、「うちの子の命の恩人です」とまで言っていた。

 

僕はささっと、母の後ろに隠れた。

 

「人見知りさんかな?」

 

彼は微笑んだ。

 

「そうなの。

でもね。

あなたがいらっしゃるのを楽しみに待っていたのよ」

 

(お母さん!)

 

僕は母のエプロンを引っ張り、余計なことを言った彼女にぷりぷりしていると...。

 

「彼はチャンミン君、って言うのですか?」と、彼から促され、母は自己紹介がまだだったことに気づいたようだ。

 

「この子は...息子のチャンミンです。

9歳ですが、ここの仕事をよく手伝ってくれます。

私は仕事で不在の時が多いので、行き届かないところが多いかと思います。

何かありましたら、遠慮なく言ってくださいね」

 

「父親は?」と不躾な質問を、彼は自己紹介の場でする真似はしなかった。

 

「よろしくね、チャンミン君」

 

彼は僕の身長に合わせて身をかがめて、挨拶をした。

 

「僕は『ユノ』といいます」

 

僕はさらに、母の真後ろまで隠れた。

 

(ふ~ん。

ユノって言うんだ)

 

僕はひょっこり目元だけ出して、ほんの1センチだけ会釈のつもりで、頷いてみせた。

 

「部屋まで案内しますね」

 

母は上階へと先だって行ったため、僕の全身がユノから丸見えになってしまった。

 

身をすくめていると、ユノはふっと笑い、僕の頭をくしゃっと撫ぜた。

 

そして、母を追って階段を上っていった。

 

当然僕も、ユノを追っていった。

 

 

(つづく)

 

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