(5)麗しの下宿人

 

 

たまたま、僕の帰宅が早かったせいで、ユノにとって見せたくない光景を目撃してしまった。

 

あれは事故だ。

 

下宿屋を出て時間を潰してから下宿屋に戻る間、ユノと顔を合わせた時、どんな態度でいようかとずっと考えていた。

 

僕さえ知らんぷりしていればいいことだ。

 

窓から顔を出して、僕に声をかけてきた様子からすると、僕に目撃されたことを気付いていないように見えた。

 

でも、僕に見られてしまったことに気づいているけれど、気付いていないふりをしているのでは?と。

 

僕が台所で遅い昼食を食べていると、戸口の方で気配がした。

 

(ユノだ...)

 

ショックから立ち直れていない僕は、その気配を無視するためにテレビを付けた。

 

(僕は何も見ていないし知らない。

だから機嫌悪くなんかしていない。

僕はテレビを見ているから、ユノがそこに居るなんて気付いていないんだ)

 

僕はことさらシャカシャカと音を立てて、冷や汁ご飯をかきこんだ。

 

テレビ画面には、緊迫した表情の男女が映っている(殺人事件もののドラマ)

 

下駄箱から見知らぬスニーカーが消えていたから、僕が街をほっつき歩いている間に帰ったのだろう。

 

僕に見られてしまった事を知って焦ったユノは、無理やりあの男を追い出したんだ...そうに違いない。

 

ダイニングテーブルに『おじいちゃんのところに行ってきます』と、母からのメモがあった。

 

(あれ?

今日は水曜日のはず...)

 

壁に吊るしたカレンダーを見ると、明日の日付に丸を付けている。

 

やっぱり母さんは、明日の家庭訪問のことを忘れていたらしい。

 

母には週に1度、祖父が入所している老人ホームへ顔を出すルーティンがあって、それが木曜日なのだ。

 

母に似て、僕もおっちょこちょいなところが沢山ある(母の場合は、毎日が忙しすぎるせいもあるけれど)

 

そんな僕を、ユノは腹を抱えて馬鹿笑いしたり、苦笑して頭をくしゃっと撫ぜてくれたり、呆れ顔で微笑んだり...いろんな笑顔を見せてくれるんだ。

 

僕の心はユノでいっぱいになってしまい、せっかく胸の中でおさまりかけた意地悪な気持ちに火がついた。

 

僕だけの友だちだって、独り占めしていたつもりでいたのに、知らない男の人に盗られてしまう。

 

この時かな...ユノへの独占欲を強く意識したのは。

 

僕は自分で思う以上に、ユノにべったりだったわけだ。

 

ユノの背中が汗で光っていた。

 

男の人の膝にユノの手が添えられていた。

 

その手は僕の頭を撫ぜる手だったのに...!

 

あの時は、嗅覚も聴覚も麻痺していて上滑っていた感覚の記憶が戻ってきた。

 

部屋に充満した空気。

 

甘い匂い。

 

熟れた果物の匂い...南国フルーツのような重ったるい独特な匂い。

 

何の匂いかな?

 

下になった男の人は、変な声を出していた。

 

(嫌だ!)

 

僕はこぶしをテーブルに叩きつけていた。

 

茶碗とグラスは無事で、箸だけが床に転げ落ちた。

 

冷めて皮にしわがよったトウモロコシに手を伸ばし、テーブルに片頬をくっつけたとても行儀の悪い姿勢で、むしゃむしゃとそれを食べた。

 

今も戸口にたたずんでいるはずのユノの気配に、僕の背中は全神経を研ぎ澄ましていた。

 

僕は待っていた。

 

「チャミ?」

 

僕の心の涙が引っ込んだ。

 

「あ~、よかった」と思った。

 

ユノに見捨てられたかのような、凍り付きかけた心がおかげですぐに溶けた。

 

「チャミ」って名前を呼んでもらっただけなのにね、おかしいね。

 

僕はわざと返事をしなかった。

 

ユノをこらしめてやりたかったんだ。

 

「チャミ?

そこにいるんだろ?」

 

「なあに、ユノちゃん?」

 

僕はつい今しがた、呼びかけが聞えた風に、「何か用?」と答えていた。

 

ずっと知らんぷりしていたら、ユノが部屋に戻ってしまう。

 

「えーっと...これからコンビニに行くけど、何か欲しいモノ、あるか?」

 

僕のご機嫌取りかな?

 

「う~ん、今ご飯食べたばっかだから、何もいらない」

 

僕はテーブルについたまま、かったるそうに返事をした。

 

「そっか...分かった」

 

立ち去るユノに、僕は慌てて席を立った。

 

「待って!

行く!

やっぱ行くよ!」

 

僕はユノを追いかけ、そこで待っていた彼と衝突してしまった。

 

ユノはとても背が高い。

 

僕の頭はちょうど、ユノの心臓のあたりだ。

 

「今日のチャミはご機嫌斜めなのかな?」

 

ユノは僕の頭を撫ぜてくれた。

 

「そうだよ、そのとおりだよ」と心の中で思った。

 

 

僕は「あの光景」を見ていない前提でいるのに、子供の拙く浅い思考では、つじつまを合わせ続けるのは難しいだろう。

 

...いや、僕は深く考え過ぎているだけかもしれない。

 

子供が見せる、理由のない気難しさだと思われて済んでしまうかもしれない。

 

なぜなら、衝撃の目撃事件以降、僕らの関係に変わりはなかった。

 

次の日もその次の日も、ユノはこれまで通り僕を部屋に招き入れ、僕は彼の部屋で宿題をし、おやつを食べた。

 

例の“お友達”は、あの日以降ユノのもとを訪れないから、きっと僕の存在を意識している。

 

 

僕の身体にじわりじわりと異変が起こりつつあった。

 

僕が精通を経験し、その後も夢精で下着を汚すことが頻繁になってきた。

 

さらに、身体のだるさも度を増してきているような気がした。

 

何度熱をはかっても36℃台で、熱はない。

 

それでも何とかしたくて救急箱から風邪薬を失敬したこともあった。

 

母には言えない。

 

これは風邪なんかじゃない。

 

僕が覚えていないだけで、寝ている間の僕はエッチな夢を見ているんだ。

 

クラスの女の子を見ても何とも思わないのに、意識の深いところ...つまり、本能でエッチな目で見ているってことだ。

 

彼女たちの視界には、僕のことなんて全く入っていないのに、僕の方からは彼女たちを盗み見していることになる。

 

いずれ、僕のことを気持ち悪いとか陰口を言うようになるんだ、どうせ。

 

僕は頭を抱えてしまった。

 

僕をもっと混乱させたのは、エッチの夢なんて見た覚えがないことだ。

 

僕の意志を無視して、僕の身体は大人の男の人になろうとしている。

 

微熱っぽいのもだるさも、それが原因なのかな。

 

僕は母の留守中、こっそり彼女の部屋に入り押し入れを開けた。

 

救急箱はそこにある。

 

風邪薬の箱の中身が減っていることに、母が気付くかもしれない。

 

ユノに相談した方がいいかなぁ、と思いかけていた。

 

 

翌日の家庭訪問についてだけど、いつものごとくと言った感じ。

 

僕は2階に避難していた。

 

あいにくユノは留守だったため、隣の空き部屋から窓の外を見張っていた。

 

門扉のきしむ音に見下ろすと、担任の教師(男だ)の禿げ頭。

 

「ボロイ家だなぁ」と思っているのだろう。

 

担任教師が仰ぎ見しそうだったから、僕は慌てて頭を引っ込めた。

 

教師が母に何を言いつけてるかなんて、盗み聞きする必要はなかった。

 

異口同音だ。

 

『チャンミン君はもっと自分を出した方がいいでしょう。

クラスで孤立しています。

私どもも何とかしたいのですが...。

むやみに教師が彼らの中に入っていくことが、かえって悪い結果に繋がることも多々あります。

ですので、お母さんの方で、それとなく...』

 

僕は彼が帰ったのを見計らって、階下へ下りていった。

 

「...お母さん」

 

台所から、居間にいた母に声をかけた。

 

居間のテーブルの上に、水滴を浮かべた麦茶のグラスが手つかずで残されていた。

 

「ああ、チャンミン。

ちょっと早いけど、夕飯にする?」

 

母は「よいしょ」っと立ち上がり、担任が残したお茶をシンクにぶっかける勢いで捨てた。

 

いつも通りの母だった。

 

担任と何を話していたのか、そこで忠告されたアレコレを僕に問いただしたり、ああしなさいこうしなさいとか、一切口にしなかった。

 

わざわざ言わなくても、お互い承知しているし、その内容はとてもくだらなさすぎて、口にする必要もない。

 

「あ...」

 

玄関の戸が開け閉めする音が聞こえるなり、僕の腰は椅子から浮いた。

 

「ユノちゃんだ...」

 

階段を踏みしめる音に、僕は席を立った。

 

「ユノちゃんとこにタオル、届けにいってくるね」

(我が下宿屋には、バスタオルやシーツなどの洗濯サービスがある)

 

「頼みわね」

 

僕がユノに懐いていること、ユノが僕を可愛がってくれることを、母は微笑ましく思ってくれているのは、確かだ。

 

でも、本音はこうだろう。

 

『もっと年の近いお友達ができるといいのだけど』

 

「ユノさんの邪魔をしたら駄目よ」

 

「うん」

 

母の声を背中に、タオルとシーツを入れたカゴを抱えた僕は、ユノの背中を追っていった。

 

 

(つづく)

 

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