アンティーク調のドアが並ぶ中、ユンホ先輩の部屋のものだけ真新しく浮いて見えた。
鍵穴に接着剤を注入されてドアが開かず、出社できなかったことがあった件の証だ。
「ドアをけ破ろうと無茶苦茶やってしまって...ドアごと交換になったんだ」
「閉じ込められるなんて...どこかで恨みを買ってたんじゃないですか?」
僕の冗談を否定するかと思ったら、ユンホ先輩は「...そうかもね、俺が意識していないだけで」と答えた。
「俺ね、トラブルを引き寄せちゃうんだよね」
「分かる気もしますけど」
室内は、僕の予想を超えて凄まじかった。
無駄を徹底的に省いたミニマリストな部屋か、真逆のカオスな部屋か、どちらかだと予想していたのだ。
間取りはワンルームで、多分10畳くらい。
「多分」と言ったのは、床が見えなかったからだ。
それはぬいぐるみの大群だった。
床一面を、むぎゅむぎゅと大量のぬいぐるみが埋めていた。
ふわふわの雲の上にいるかのようだった。
「...せ、んぱい...」
全て白い熊だった。
「マヂですか...?」
手の平にのるくらいの小さなものから、長身のユンホ先輩ほどある巨大なものもあった。
「座れ。
とっとと食べよう」
ユンホ先輩は、ぽかんと立ち尽くす僕から買い物袋を引き取った。
「でも...」
「座れって」
手首を引っ張られ、僕はその場にすとんと腰をおろした。
数匹のぬいぐるみが僕のお尻の下敷きになってしまっている。
ユンホ先輩の「クッション代わりになって座り心地がいいだろ?」の言葉通りだったけれど。
ただし、今の季節にファーの感触は暑苦しかった。
「俺の部屋については後で説明してやる。
質問には後で答えるから 今はアイスを食おう」
・
アイスクリームは唇に触れた途端、ずるりと棒から溶け落ち、慌てて舌で受け止めた。
指に垂れるクリームは冷たくて、肌に温められてたらたらと手首へとつたっていった。
アイスクリームを食べることに集中した数分間、僕らは無言だった。
ノルマはひとり5本。
クリームを舐める舌の音。
ユンホ先輩の濡れた下唇に、視線は自然と吸い寄せられた。
ユンホ先輩と目が合いそうになる度、僕は慌てて室内を見渡すフリをした。
3回繰り返した。
4回目でユンホ先輩の視線に捕まってしまった。
「俺の顔になんか付いてる?」
僕の頭はフル回転、苦し紛れに出したこの言葉。
「ここに...チョコレートが」
と、唇の横をちょんちょんと指さしてみせた。
「ここ?」
唇の片端を拭うユンホ先輩に、「いえ、そっちじゃなくて...」と逆を指し示した。
「ここ?」
ユンホ先輩は鼻の頭を指さしたのだ。
「...いや、そこじゃなくて...」
「ここ?」
今度は耳たぶを指さしている。
「...先輩」
ユンホ先輩はニタニタ笑っていて、どうやら僕をからかっているらしい。
「ここです」
とっさに指さしてしまったのは唇の真上だった。
「え?」
ああ、なんて大胆なことを...恥ずかしい!
「えっと...子供みたいにチョコだらけです。
口の周り全部」
ユンホ先輩に射竦められて、僕は顔を背けることも目を反らすこともできずフリーズしていた。
「チョコだらけ...です」
僕らは次のまばたきまでの間、見つめ合った。
ユンホ先輩の黒目は大きくて、どこを見ているのか分かりにくいのだけど、今この時は確かに僕と目が合っている。
心の中は「どうしようどうしよう、この後何を言えばいいんだろう?」とパニックだった。
「チャンミンがとってよ」
ユンホ先輩はのり出していた身をひくと、巨大ぬいぐるみに埋もれるようにもたれかかった。
ホッとしていたし、ユンホ先輩とどうにかなってしまいそうな期待が破れて残念がってもいた。
「はい...」
ユンホ先輩の傍まで、四つん這いでぬいぐるみをかき分けていった。
「ここです」
ユンホ先輩はじっとしていた。
付いてもいないチョコレートを親指で拭った。
冷たくしっとりとした触感。
ふかふかに柔らかな触感。
「チョコだらけです」
ユンホ先輩の唇に触れた指を、僕は咥えてしゃぶった。
僕の行為に驚いたのか、ユンホ先輩の目が大きく丸くなった。
「...あ...!」
なんと大胆なことをしてしまったのだろう!
僕の心は再び大パニック状態になった。
ティッシュやハンカチで拭えば済むことなのに!
「...チャンミンって」
ユンホ先輩はぬいぐるみから身体を起こすと、
「面白いやつだなぁ」
両頬を押さえて大赤面する僕の肩を、ぐらぐら揺すった。
僕はうつむいていたから、ユンホ先輩の顔色を確かめられなかった。
照れていたらいいな、と思った。
・
「身体のこと...どうして今さら教えてくれる気になったんですか?」
アイスを食べ終わった僕らは、ぬいぐるみに全身を預けて、並んで横たわっていた。
「...そうだなぁ...」
ユンホ先輩はそう言いかけたまま、黙ってしまった。
「あの...言いたくなければ。
すみません、変なこと聞いてしまって」
「いや」
ユンホ先輩は僕の方へと、横向きに寝返った。
「お前には馬鹿にされたくない、と思ったんだろうな。
誤解され続けたくない、っていうの?」
「...馬鹿になんか...してないですよ」
僕は半分だけ嘘をついた。
「病気...じゃなくて障害については家族と恋人以外には絶対に知られたくなかった。
不真面目で身勝手、変わり者で通していれば、だいたいはなんとかなる。
知らせる必要もない。
でも、『本当の自分』を知って欲しい欲はあるんだ」
「先輩は...どこが悪いんですか?」
「...俺の存在自体」
「...言っている意味が分からないんですけど?」
ユンホ先輩はぬいぐるみの海をかき分け、白い紙の袋を持って戻ってきた。
「後で薬の名前を検索してみな。
自分の口からは言いづらい」
ユンホ先輩の黒目は潤んでいて、どこを見ているのかわからなかった。
(つづく)