ユンホ先輩の言葉通り、彼の住まいは車で1分のところにあった。
仕事をサボってしまう後ろめたさより、アイスクリームが溶けてしまわないかヒヤヒヤする方が強かった。
何の権限もないくせに堂々とした「サボれ、俺が許す」発言に、「ユンホ先輩がそう言うならそうするしかないよね」と。
「ここだ」
慣れたハンドルさばきで外壁ギリギリ数センチに駐車するあたり、頻繁に一時帰宅していたのだろう。
「先輩!」
ユンホ先輩は車を下りると、僕とアイスクリームを残してすたすたと行ってしまおうとしたから、彼の背中に向かって怒鳴った。
「下りられないです!」
僕の大声に気づいたユンホ先輩は振り向き、にこにこ顔で手刀をきりながら戻ってきた。
「僕がいること頭になかったですね?」
「悪い悪い。
付録がついてくるのは初めてなんだ」
「付録って...僕のことですか?
酷いですね」
「俺んちに誰かくるのは初めてってこと。
ほら、こっちから出ろ」
ユンホ先輩は運転席のドアを開けると、僕の手首をつかんで引き寄せた。
固くて力強く、少し汗ばんだ熱い手で、とても病弱な者の手指じゃなかった。
・
どこよりも蝉の鳴き声を間近に感じられるのは、欅の巨木のせいだった。
旺盛に茂った枝が、レンガ色の瓦屋根を覆っていた。
築年数は経っているようで、よく見ると白壁にはヒビが入っていて、唐草デザインのベランダの鉄格子は色褪せていた。
キョロキョロ周囲を見回す僕は、足元がおろそかになっていた。
僕の靴底は軽やかな何かを踏み、くしゃりと乾いた音に驚いて、飛び退いた。
「どうした?」
ユンホ先輩は僕の革靴にスタンプされ粉々になったものを確認すると、呆れた表情をした。
「なんだ...蝉の抜け殻だよ。
落ち葉みたいにザクザク落ちてるんだ。
洗濯物にくっついていることもあるし。
...ん?
もしかして、怖い?」
「はあ...そんなところです」
虫が苦手だったから、あちこちに転がる抜け殻を踏まないようジグザグに歩いた。
「中身はないんだぞ?
空っぽなんだぞ?」
ユンホ先輩は抜け殻を1つ拾い上げて「ほれほれ」と、僕の方に差し出して見せるんだから。
「それでも無理です」と顔を背けた僕に、ユンホ先輩は「都会っ子だな」と笑った。
建物内の空気がひやりとしているのは、脇に立つ巨木のおかげなのかもしれない。
「もっと怖いこと言ってやろうか?
あの木の根元には何百、何千匹の蝉の幼虫が埋まってるんだ。
うじゃうじゃと。
怖いだろ~?」
「僕はそこまで虫嫌いじゃないですってば。
そういえば、蝉って大人になるまで何年も土の中にいるんですってね。
7年でしたっけ?」
「そう思われているけど、実際は3,4年で出てくるらしい。
土の中からもぞもぞと...怖いだろ?」
「しつこいですよ、先輩」
部屋までは内階段、内廊下になっている。
ユンホ先輩は「ここはエレベーターはないからな」と親指を上に立ててみせた。
エレベーターが無くて大丈夫なのかな...?
「身体が弱い」イコール「心臓がよくない」と、勝手にイメージしていた僕だった。
先立って階段を上るユンホ先輩のお尻が、僕の目の前にあった。
スラックスの生地が 左右交互に隆起する筋肉で張りつめるのを、目で追ってしまっていた。
吸い寄せられるように。
片手に下げていた買い物袋でそっと、固く反応しはじめた前を隠した。
アイスクリームの箱は汗をかいていて、柔くたわんでおり、半分は溶けかかっているだろう。
外はこんなにも暑くて、僕の身体は茹だっているみたいだ。
3階分の階段を上った僕の鼓動は、ドクドクと速かった。
・
このアパートはいかにも女性が好みそうな洋館風の建物だった。
意外だった。
『あの』ユンホ先輩なら、今にも崩れそうなオンボロアパートか、その真逆の高層マンションに住んでいそうだな、と予想していたからだ。
6年も同じ職場にいたけれど、互いの自宅を知らなかった。
新卒で入社した僕は世間知らずで、社会人とはそういうものなんだろうと疑問にも思わなかった。
ユンホ先輩のプライベートを知る機会は、いくらでもあったのだと思う。
「先輩んちで飲みましょうよ」と甘えてみたり、酔っぱらったユンホ先輩を家まで送っていったり...。
あいにく僕は懐っこいタイプじゃない。
豪快かつ隙だらけのユンホ先輩。
実際は近寄りがたい人だったのだ。
ユンホ先輩からは昼食に連れ回される程度で、終業後のプライベートタイムに僕を引きずり込むような誘いは一切なかった。
早退または定時退勤のユンホ先輩だったから、気付くとオフィスから姿を消していた。
そんなユンホ先輩の部屋に今、僕は招かれている。
いいのですか?
部屋に入ってもいいのですか?
僕の胸はドキドキしています。
(つづく)